明日2月9日の「日の丸・君が代」予防訴訟最高裁判決を目前に7日、人権NGO言論・表現の自由を守る会が市民に呼びかけ原告とともに、最高裁判所宮川浩二裁判長に宛て、大法廷に回付して国際人権条約に照らした公正な裁判を行い、東京地裁難波判決を維持することを求めて要請しました。
 
 この要請に参加した東京「日の丸・君が代」強制反対裁判を進める会会員の要請文を掲載します。
 
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                    要請書
 
  最高裁第一小法廷御中
                                                        2012年2月7日
                                  東京「日の丸・君が代」強制反対裁判を進める会会員 
                                                     ペンネーム 石田千秋
 
 平成23年6月6日第一小法廷において都立高校教職員らを上告人とする損害賠償請求事件について裁判官の多数意見として職務命令は上告人らの思想・信条を侵害しないとの判断が示されたが、私は市民的立場から見てこの憲法判断に疑問を持つ。この判断の前提基準として一般性・客観性を挙げ、儀式的行事の場所においては上告人らの有する思想・信条は彼らの固有の個人的・主観的なものであるから思想・信条の侵害ではないとの結論を導いている
 
 しかしながら、一般性と個人的、客観性と主観的の区分、境界をどのように定めるのであろうか。
 
 2005年ごろに神奈川県在住の知人が中学校の卒業式に保護者として出席したが、式典国歌斉唱時に「君が代」を起立斉唱した保護者は少数であったと述べていた。この中学校の保護者らを基準にすれば不起立不斉唱は一般的・客観的な儀礼的所作であり、起立斉唱行為の方が固有の個人的主観的なものということになる。
 このように地域性又は参加者の立場・身分すなわち校長ないし管理職であるか、教職員であるか、保護者であるかによって、一般性と個人的、客観性と主観的の区分、境界が揺らいだり反対になったりするのだから、このような二元論の区分を用いたところで国民に対して説得力のある判断が示されたとは思えない。
 官僚が考える区分と市民が考える境界とが一致していないからである。憲法第14条(法の下の平等)参照のこと。
 
 さて、国歌斉唱義務不存在確認等請求上告事件も思想・信条の侵害が問題になっているが、学校における事件なので教育における普遍的土台から判断すべきである。そのような両者の関係性が教育の基本である。生の言葉、すなわち教師と生徒である。そのような両者の関係性が教育である。生の言葉、すなわち教師の教育上の思想・信条に由来する内心の思いとそれを表現する身体とは一体になったものでなければならない。
 
 このような内心の思いは、単なる個人的主観的なものではなく、人間性に裏付けられた普遍的性質を持つというべきである。これは学問の自由の基礎でもあるからである。
 
 教育を成り立たせる関係性を保つためには内心の思いと身体の一致が必要であるが、平成18年9月21日東京地裁判決文58ページには「人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有する」とのべて普遍的土台についての正しい認識に基づいた判断で憲法19条違反を導いているが、平成23年1月28日東京高裁判決文81ページを見ると上述の2元論で裁断するだけで事足れりとしているのであって、何ら教育を正しく導く判断がされたとも思えない。
 
 「日の丸・君が代」を含め、諸外国の国旗及び公式の歌曲までも検討するならば普遍的に見てこれらのシンボルおよび歌曲には固有の思想、信仰、イデオロギー、歴史について表出され伝承されまた背負っているのであって、マナーの指導だけで完結するものではない
 したがって、式典においても不起立不斉唱という態度を選択する教職員がある程度いるのは自然なことであり、生徒もそれを通して良きにつけ悪しきにつけ国旗国歌の多様な意味を学ぶのである。これが国旗国歌に対する正しい認識と言える。
 またある校長は、少数の不起立不斉唱の教職員の存在は、式典の混乱を起こさないと述べている
 
 以上考慮の上、当事件について、今後の教育を正しく導く判決、憲法判断を示すよう要請する。
 なお、最高裁番所民事判例集10巻7号「謝罪広告請求事件S28(オ)1241、S31・7・4大法廷判決」789(5)ページ後半~790(6)ページ始め裁判官田中耕太郎の補足意見も参照のこと。
                                                         以上