《都高教退職者会による最高裁要請行動から》
 
◎ どんな子どもも本当は学校の主人公になりたい、勉強したいと願っている
 最高裁判所裁判官御中
2011年11月2日
松浦利貞

 私は大学卒業後5年の埼玉県公立高校教諭、33年の都立高校教諭、定年後5年の再雇用教員として勤務した社会科の教員です。
 私が教員になったのは学校で疎外されるような子どもの立揚に立てる教員になりたいと考えたからです。管理職へとの誘いもありましたが断り、最後まで子どもの側にいたいと授業と学級担任の仕事を大切にしてきました。
 その間、東京でも同和教育、人権教育を始めようと仲間とともに研究会をつくり、部落出身や在日外国人、障がいを持った子どもたちへの差別をなくすため取り組みを進めてきました。
 今、政治家たちの圧力によって教育にも競争主義、成果主義が導入され、競争によって成果をあげた学校、教員、子どもたちが優遇されるような事態が生じています。
 でもその成果とは何でしょうか。成績をあげ、有名学校(大学、高校、中学)に何人子どもを合格させたか、スポーツや文化活動でめざましい成績をあげたかが指標とされ、勉強が嫌いな子ども、できない子ども(正しくは嫌いにさせられている、できなくさせられていると言った方がいいかもしれません)、あるいは親や教員の言うことを聞かず問題行動をくりかえすような子ども(これも問題行動をくりかえさざるをえない子ども)たちの立場から考えた指標にはなっていません。


 私は俗に言われる「進学校」も「教育困難校」(教員から見た言い方で、子どもたちの立場から見ればとても差別的なのですが)も経験しましたが、誤解を恐れずに言えば、「進学校」の子どもたちは教員が工夫しなくても子ども自身が工夫して成績を向上させていきます。しかし、「勉強の嫌いな」、「いつでも学校をやめてやる」と言うような子どもたちを学校につなげるためには、教師自身の創意工夫、熱意、そして何よりもどんな子どもも切り捨てない、子どもたちはどんな子どもも本当は学校の主人公になりたい、勉強したいと願っているという確信が大切なのです。
 第二小法廷須藤正彦裁判官は、5月30日の申谷雄二に対する判決の補足意見の中で
 「肝腎なことは、物理的、形式的に画一化された教育ではなく、熱意と意欲に満ちた教師により、しかも生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされること」
 と述べられていますが、まさにその通りです。

 学習指導要領は大綱、大枠であって、これを画一的に適用したり、強制することがあってはなりません。
 最高裁判所は卒業式は「厳粛」なものでなければならないとされましたが、それは戦前の発想ではないでしょうか。
 私が経験した卒業式は笑いあり涙ありで、卒業式のありようも子どもたちと相談して準備され、それぞれに創意工夫がされてきました。大学の学位授与の卒業式とは違い、小・中・高校の卒業式は子どもが主体であっていいのです。
 それを、国旗、国歌で権威づけ、画一化された卒業式を処分を背景に強制するのは学習指導要領本来の趣旨にも反するのではないでしょうか。
 日の丸・君が代がないと入学式や卒業式ができないのですか
 私は都立南葛飾高校定時制で10年勤務しました。私の同僚であった申谷雄二、木川恭が個別に訴訟を起こし、それぞれ、5月30日、7月4日に最高裁の判決を受けています。私たちは自分の実践の事実を報告しても、それを自慢したり宣伝したりすることはありません。
 木川恭が担任し、処分対象の年の卒業式で卒業した卒業生(定時制ですから年輩の男性)が東京新聞(2008年7月2日付)に投書しています。
 「木川先生は、陰になり日なたになり生徒を支え、六年でも七年でもかけて卒業させ“本校から退学者を出さない”という教育理念を持った先生でした。特に人権問題には見識がありました。朝鮮の人や被差別部落に対する差別など自分の責任ではないのに重い荷を背負って落ちこぼれそうな生徒を励まし、アパートを世話したり、仕事を探し、学校に来るように促しました。少年院に入った生徒がいればどこでも自費で面会に行き、出所したらまた学校に来られるように手配するなど、筆舌に尽くし難い立派な先生でした
 と書き、都教委の処分、再任用拒否を批判しました。
 最高裁の言う「儀礼的所作に過ぎない」起立斉唱をたった1回しなかっただけで、基本的にすべての退職者に保障されていた再雇用、再任用の道が閉ざされたのです。

 ところで日の丸への起立敬礼、君が代の斉唱は「儀礼的所作に過ぎない」ものなのでしょうか。「儀礼的所作」に強制はなじみません。日の丸、君が代の強制はそれに象徴される戦前のような国家、天皇、政府(権力)への絶対的な奉仕、服従、上の命令にはどんなものであれ従うことに役立つゆえ、一方は強制し、一方は反対するのではありませんか。
 南葛飾高校定時制「学校は教員のためにあるのでなく子どものためにある」と考え、入学を希望する者を拒まず、問題を起こしても退学させないという「全入・無退学」を学校の方針に位置づけました。
 他校を退学処分になった子どもや成績、経歴、障がいなどさまざまな理由で他校に受け入れを拒否された子どもを引き受け、助けを求める子どもや親たちの最後の砦、番人となった公立高校です。それは生半可な努力で実現、維持されたのではなく、教師と生徒そして卒業生や親たちの熱意と努力に支えられたものであり、そこでは学習指導要領のワクを超える創意工夫が必要であったのです

 今東京や大阪など政治家個人の、ある意味思いつきで政治権力が教育に介入し、教育が政治家の意のままに動かされようとしています。最高裁の判断はそのことを容認し、助長するものであり、憲法、教育基本法の趣旨に明らかに反するものと考えます。
 教員という職を選んだ以上、上の者の言うことを聞くのは当然であり、公務員に自由などないと裁判所は判断します。
 公務員は全体の奉仕者であって、一部の権力者に奉仕するものではありません。正しいことは正しいと言うべきであり、子どもたちに信念は内心にしまい、上の命令は我慢して聞きましょうと教えることが教育的と言えるのでしょうか
 教育(教員)が政治(政治家)の言いなりになり、自由も創意工夫も奪われ、子どもたちを最終的に有名大学に入れることのみに価値をおいた教育に小・中・高校の教員が縛られるとすれば、「個人の尊厳を重んじ」「人格の完成をめざす」とその目的を定めた教育基本法の精神はどこへ行ってしまったのでしょうか。

 教科書には権力分立による抑制と均衡、裁判所とりわけ最高裁判所が国家(政治)活動を主とする国会、内閣に対して人権を守る最後の砦であることが記され、私もそのように教えてきました。最高裁判所が政治権力の乱用を抑制し、真に国民の権利を守る機関としての機能を発揮できるよう公正な裁判をお願いいたします。
 
パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
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