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東日本大震災発生から7カ月がたった11日、宮城県石巻市内の避難所は全てが閉鎖された=同市の市立蛇田中学校で2011年10月11日午前10時58分、尾籠章裕撮影
 

東日本大震災:石巻市の全避難所を閉鎖 待機所へ引っ越し

 東日本大震災の発生から11日で7カ月を迎えた。この日で全避難所を閉鎖する宮城県石巻市では、損壊した自宅の修復を待つ避難者らが市内4カ所に設けられた「待機所」への引っ越し作業に追われた。10日現在で市内17カ所の避難所に暮らしていた202人のうち約70人が、待機所で新たな生活を送る。
 最大で約1200人が身を寄せた市立蛇田中学校の体育館では11日午前、避難者ら数人が衣服や毛布などを梱包(こんぽう)。待機所に移る工場作業員の高瀬孝司さん(55)は「4カ月見ず知らずの人と生活し情が移ってしまったが、待機所で新たな生活を始めなければ」と話し、友人の車で体育館を去った。
 被災自治体のうち死者・行方不明者が最多となった石巻市では、3月のピーク時に259カ所の避難所があり、約5万人が避難生活を送った。宮城県内では7日現在で石巻市以外の6市町の避難所25カ所で371人が暮らしている。岩手県は8月末に全避難所を閉鎖している。【平川哲也】
 
毎日新聞 2011年10月11日
 

東日本大震災:大津波で生存率5% 石巻市の指定避難所

 東日本大震災の大津波で、宮城県石巻市の指定避難所・北上総合支所にいた人々の生存率はわずか5%だった。避難してきた住民や職員ら少なくとも57人のうち、無事だったのは当時小学4年の男児と職員2人の計3人だけ。北上川河口の鉄骨2階建て支所は大破した。そんな建物がなぜ避難所だったのか。遺族の疑問と悔いは半年たっても募る一方だ。【垂水友里香】
 生存者の話を総合すると、3月11日の巨大地震発生時、支所1階図書室には男児を含む約10人がいた。親の迎えを待ち、宿題をしたりする場所だった。約10人は外に逃げたが、職員の誘導で建物内に戻った。2階多目的室には、近くの住民やデイサービスセンターの高齢者ら数十人が避難してきていた。
 生存者の一人、危機管理責任者で支所地域振興課の今野照夫課長補佐(50)は2階の災害対策支部で、地区の見回りに出た職員6人らへの連絡などに追われていた。午後2時49分、大津波警報が発令。防災行政無線が6メートルの津波と予測を告げる。「高さ10メートルの2階は大丈夫」と思った。
 3時過ぎ、担当地区の巡回前に支所に立ち寄った消防団分団長の佐々木正人さん(49)は、子どもを抱えて階段を上る知人女性に声をかけた。「山の方行かなくていいの?」「おばあちゃんもここに来るから」。避難所なら大丈夫と、住民は信じていた。
 「バリバリバリ」。もう一人の生存者、同課の牧野輝義主査(42)は駐車場で、津波襲来を意味する、ごう音を聞き、急いで庁舎内に戻った。
 3時半ごろ、2階の窓越しに今野さんは津波を見た。牧野さんがいた駐車場の車を浮き上がらせた瞬間、1階の壁を突き破り、水が階段を駆け上る。響き渡る悲鳴や泣き声。職員らは多目的室のドアを押さえ、子どもたちを机の上に逃がそうとしたが、津波は全てをのみ込んだ。今野さんら3人も流され、浮いていた屋根の上に引き上げられるなどして助かった。
 支所は06年、旧庁舎の老朽化に伴い新設された。追波湾(おっぱわん)から約500メートル、海抜は約6メートル。宮城県沖地震などで想定される津波の高さを0.5メートルだけ上回っていた。立地条件やバリアフリーの観点も理由に、複数の候補地から現在地が選ばれ、指定避難所にもなった。
 多目的室の人たちをどこに逃がせばよかったのか--。石巻市防災対策課の浜野淳課長補佐は「地域防災計画や避難場所など全ての見直しを行う」と話す。生き延びた今野さんは言い切る。「あの場所に建てたのは間違いだった」

 ◇「指定避難所じゃなければ避難しなかった」

 「指定避難所じゃなければ避難しなかった。子どもたちを返してほしい」
 同市北上町の会社員、奥田江利子さん(46)は、支所に避難した長女梨吏佳(りりか)ちゃん(当時9歳)と、迎えに行った長男智史さん(同23歳)、両親の家族全員を支所で失った。女手一つで育ててきた江利子さんは「梨吏佳は支所が大好きだった。安全だと思うから遊ばせていたのに……」と今も悔いている。
 津波の数時間前も智史さんは支所にいた。昼休みの婚姻届。1週間前に挙式した妻江利香さん(27)のおなかには赤ちゃんがいた。7月に生まれた女の子は「梨智(りさと)」と名付けた。亡くなった2人から1文字ずつ。その笑顔が江利子さんを支えている。

東日本大震災:女川原発に避難3カ月 一時364人が生活

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震災4日後の3月15日に撮影された、女川原発体育館の内部=東北電力提供
 集落ごと津波にのみ込まれた漁村も多かった牡鹿半島。逃れた人たちが頼ったのは、原発だった。宮城県女川町と石巻市にまたがる東北電力女川原子力発電所。東日本大震災の発生直後から避難者が集まり始め、一時は364人が体育館や事務棟で寝泊まりした。東京電力福島第1原発の事故が伝えられる中、前例がない原発敷地内での避難生活は、約3カ月続いた。【安高晋】
 
 ■流された避難所 
 
「集落は壊滅状態だ。避難させてくれ」。3月11日夕方。原発の南約5キロに位置する石巻市鮫浦(さめのうら)地区の阿部正夫区長(65)は、女川原発のPRセンターに駆け込んで訴えた。
 地震直後、阿部さんは海辺にある石巻市指定の避難所「生活センター」に向かった。だが鍵が開かない。集まった人に「もっと上へ逃げろ」と告げ、山へ向かう道路をみんなで上った。直後、津波が避難所をのみ込む。「あそこにいたら」とぞっとした。そのまま道路を上り、PRセンターにたどり着いた。
 「このままにしておけない」。東北電力は原発への受け入れを決める。当日だけで約100人が訪れた。
 翌日以降も避難者は増えた。原発の西約2キロにある女川町飯子浜(いいごはま)地区も町指定の避難所が流され、多くの住民が山中でたき火をしながら一晩を明かした。早朝、様子を見に来た原発職員に、阿部正門(まさと)区長(63)が助けを求める。「道路は寸断され、隣の集落の様子も分からない。それなら、一番近くて高台にある原発がいい」。100人近い住民のほとんどが原発に向かった。
 
 ■厳重な安全管理
 
体育館での避難生活は、原発敷地内という特殊事情ならではの制約があった。
 火気は厳禁。暖房は電気ヒーターのため寒がる人もいた。レンジで加熱するか、お湯をかける以外に温かい食事はとれなかった。
 
 決められた区域外の立ち入りは、厳しく制限された。
 
 避難者は、体育館の周囲を除くと、看護師が常駐する隣の事務棟と、入り口ゲートへの道以外は入れない。ボランティアは、ボランティアセンターからの紹介があるかどうか確認され、身分証明書の提示を求められた。
 
 体育館と入り口を往復するバスの「門限」は夕方。洗濯機はなく、近くを流れる沢で洗った。不便なことは多かったが、避難者は「普通の避難所とは違う」と我慢したという。
 
■「福島とは違う」
 「女川原発は大丈夫。冷却もできているので問題ない」。福島第1原発の事故を知り、こちらは安全なのかと職員に確認した女川町塚浜地区の区長、木村尚(ひさし)さん(57)は、そう説明を受けた。
 福島と同じく高さ約13メートルの津波に襲われたが、敷地の高さが福島は10メートルなのに対し、女川は約15メートルだったことが明暗を分けた。1号機地下での火災など小さな被害はあったが、1~3号機のいずれの原子炉も翌日未明までに冷温停止した。
 「説明に納得し、その後は気にしなかった。心配しても他に行くところはないし……」。館内には職員が連日午後9時まで待機して避難者の質問に対応したが、別の男性も「誰もが『対岸の火事』という雰囲気だった」と振り返る。
 施設の開放は、6月6日まで続いた。避難者は「ありがたかった」と口をそろえる。ただ、原発への思いは複雑だ。飯子浜地区の女性(60)は「共存できると信じて生きてきた。福島より高い場所にあった女川は、今回の津波も乗り切った」と安全性への信頼を語る。
 
 一方で不安を口にする人もいる。養殖業の男性は「避難当時はその日の暮らしに精いっぱいで考えられなかったが、今思うとおっかない」。別の漁師も言う。「これ以上の津波がもう来ないとは限らない。安全と言っていても間違いはあることが、今回でよく分かった」