『早稲田大学・水島朝穂のホームページ』(今週の直言:2011年6月6日)
 ◆ 「君が代起立条例」と最高裁判決 

   (続き)



 まず、3人とも共通して、個人の歴史観・世界観が内心にとどまる限り、絶対的な保障を受けることを確認している。問題は、それが「外部的行動」となったときの評価である。
 竹内行夫裁判官は、「外部的行動に対する制限を介して、結果として、歴史観ないし世界観について間接的な制約になることはあり得る」として、本件がそれにあたるとする。その上で、起立斉唱行為が本人の歴史観等と一体不可分なものとは言えないから制約できるというアプローチ(前述のピアノ伴奏拒否事件最高裁判決の多数意見)は採らないと断言する。竹内裁判官は、人の歴史観等と外部的行動との関連性の程度もまた、個人の内心の領域に属するから、それを一般的に決めることはできず、それをやれば「個人の内心に立ち入った恣意的な判断となる危険」があるとする。つまり、本件起立拒否が本人の歴史観等と「不可分一体なものではない」と簡単に決めつけてはいけないというのである。それゆえに、「間接的制約」となる「外部的行動」への制限は、「思想及び良心の自由についての事実上の影響を最小限にとどめるように慎重な配慮」が必要であり、制約の必要性・合理性の審査にあたっても「特に慎重な較量」が求められるとしている。イラク戦争時の小泉内閣の外務事務次官だが、裁判官としての議論の仕方は誠実である。

 須藤正彦裁判官は、「外部的行為の要求が一律に強制される場合、当該要求が一律に強制されるべきではないという信条を有する者にとっては、その信条の直接的な否定となり、これはそのような信条に係るいわば直接的制約ともいえる」とする。これは前述のピアノ伴奏事件での藤田裁判官の意見と響き合うだろう。

 須藤裁判官はまた、「間接的制約」を正当化する必要性・合理性の判断を、行政法上の「裁量統制」の観点から行うことを提言する。その上で、必要性・合理性を欠くがゆえに、当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となる場合があり得るとして、教育現場の事情にかなり詳しく立ち入る。各紙社説が一様に引用する部分である。
 「最も肝腎なことは、物理的、形式的に画一化された教育ではなく、熱意と意欲に満ちた教師により、しかも生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされることだろう。本件職務命令のような不利益処分を伴う強制が、教育現場に疑心暗鬼とさせ、無用な混乱を生じさせ、教育現場の活力を殺ぎ萎縮させるというようなことがあれば、かえって教育の生命が失われることにもなりかねない。教育は、強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって、上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらないであろう。その意味で、強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。のみならず、卒業式などの儀式的行事において、『日の丸』、『君が代』の起立斉唱の一律の強制がなされた場合に、思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると、たとえ、裁量の範囲内で違法にまでは至らないとしても、思想及び良心の自由の重みに照らし、また、あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも、それに踏み切る前に、教育行政担当者において、寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれるところである」。

 千葉勝美裁判官は、「外部的行動」(核となる思想信条等に属するものを除いたもの)は、絶対的保障を受ける思想信条等の「核心部分」とは異なって制限が許容されるとする。そして、「核心部分」との関連性の「遠近」によって、「間接的制約」にも強弱ができてくる。「核心部分」に近づくほど、制限の必要性・合理性の程度もより厳しいものが求められる。それは比較考量の問題だが、「本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付けたり、ランク付けしたりするものではなく、飽くまでも外部的行動が核となる思想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的、一般的な判断に基づくものにとどまる」とする。核心と外的部分とを「同心円」のなかの位置関係に例えて論ずるなど、いま一つ理解しづらい。千葉裁判官のこの意見は、竹内裁判官が批判する、「個人の内心〔核心部分〕に立ち入った恣意的な判断となる危険」があるのではないか。この千葉意見でマスコミが注目したのは、憲法解釈論ではない部分、すなわち、結びの「国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて」の次の下りだった。
 「国旗及び国歌に対する姿勢は、個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題であって、国民が心から敬愛するものであってこそ、国旗及び国歌がその本来の意義に沿うものとなるのである。そうすると、この問題についての最終解決としては、国旗及び国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要であるということを付言しておきたい」。
 補足意見で言われていることは他にもたくさんあるのだが、紹介はこの位にしておこう。長々とした補足意見を書いた裁判官たちの心象風景はいかなるものだったのだろうか。新聞各紙は「起立斉唱命令が合憲」という点に注目しているが、補足意見まで読めば、思想・良心の自由の「間接的制約」を経由して、教育現場での起立斉唱を求める職務命令の危うさを示唆しようとしたのではないか。「紙一重の合憲性」であって、これをもってこの種の職務命令がお墨付きを得たとするのは安易だろう。

 上記の写真の通り、『毎日新聞』31日付は「間接的制約」に大きな見出しを付けて、その点に着目する紙面構成を行った。そこには奥平康弘氏(東大名誉教授)のコメントもある。
 奥平氏は、「3人の補足意見を見ると、『起立命令の合憲性がぎりぎりだ』という悲鳴が聞こえてくるようだ。結論はピアノ訴訟と同じだが、裁判官たちの判断の経緯に苦労がうかがえ、実質的に違憲判決に近くなった印象を受ける」と指摘している。
 もちろん、この判決は、必要性や合理性の基準についてはなお曖昧であり、「間接的制約」の部分の認定の精緻さに比べ、必要性・合理性を認定には粗さが目立つ。思想・良心の自由のデリケートな性格に着目すれば、必要性・合理性の審査は、目的と手段の関係の、特に合理性(適合性)・必要性(必要最小限性)をもっと精緻に審査すべきであった。例えば、「子どもの教育を受ける利益」という目的、その達成手段は、起立斉唱強制命令という手段で、はたして合理性・必要性を充たしているのか、もっと丁寧に審査すべきであったろう。

 ところで、この「合憲判決」を出すにあたって、ここまで長い補足意見を書いて「言い訳」させる事情があったように思う。それが、大阪府「君が代起立条例」の動きである。
 大阪府議会で単独過半数をもつ「大阪維新の会」(代表・橋下徹大阪府知事)が提案していた「君が代起立条例」は、判決の4日後、6月3日に可決・成立した。
 条例は、「学校における服務規律の厳格化を図ることを目的」として、市町村立を含む府内公立学校の教職員に対して、国歌斉唱時の起立を義務づけるとともとに、府施設における国旗の常時掲揚も義務づけている。罰則規定はないが、「維新の会」は、不起立を繰り返した教職員に対しては懲戒免職処分で臨む意向で、その処分基準を定めた別の条例を9月議会に提案するという。
 判決が出た先月30日、橋下知事は、「最高裁の判断が出て、条例までつくる必要はないとの議論も出ると思う。それでも条例が必要な理由をしっかり説明しなければならない」と述べた(『朝日』同)。「合憲判決が出たから条例は不要」という声だけを意識したコメントのようだが、早大政経学部94年卒で司法試験に合格した橋下知事は、3人の補足意見をどのように読んだのだろうか。私は、大阪の動きが、この時期に「合憲判決」を出すにあたって、最高裁裁判官をして長々とした補足意見を書かせる「動機」になっていたのではないか、と推測している。
 なお、橋下知事は上記のコメントに続けて、「職務命令を出すかどうか。教育委員会の裁量に委ねられているのが問題。政治が一定の規範を立てることが条例の一番重要なところだ」と述べている。まさに、教育への政治介入である。教育現場にふさわしくない、強制と威嚇の仕組み。これこそ、最高裁裁判官たちが補足意見で執拗に警告していたことではなかったか。
 軍急進派が2.26事件まで突き進む「昭和維新」の時代状況と異なるとはいえ、一つ共通しているのは、経済的困窮と政治への失望のなか、「敵」を明確にして、強引な手法で既存の仕組みを「ぶちこわしていく」動きに対して喝采を送る人々が少なくないことである。
 教育への「不当な支配」を禁じた教育基本法も、イデオロギッシュな問題意識をもつ安倍晋三内閣のときに「改正」された。職務命令で教師を威嚇・強制する手法が政治介入によってさらに強化されれば、教育現場は萎縮し、「疑心暗鬼」が生まれていく。
 長文の補足意見によって支えられた本判決の論理を一貫させれば、大阪府条例、特に懲戒免職を含む9月の条例は違憲と判断されることになろう。

 ≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
 東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
 http://wind.ap.teacup.com/people/5481.html