最高裁判決と大阪府条例について(1)
<転送歓迎>(重複ご容赦)
・「都教委包囲首都圏ネットワーク」
・「千葉高教組」・「新芽ML」
の渡部です。
この間、
①3月25日、「河原井・根津さん君が代不起立」裁不当判決。
②5月30日、最高裁「君が代」起立命令合憲判決。
③6月3日大阪府で「君が代」起立斉唱義務づけ条例可決。
と続き、さらに今後、
④最高裁で6月6日、16日と口頭弁論を開かないままでの判決。
⑤大阪府では9月議会に処分条例案提案(?)。
と続きまます。
この一連の流れは、戦後一貫して復活が画策されてきた
「日の丸・君が代」強制が段階を画したことを示しています。
そして、「日の丸・君が代」起立斉唱は、
①法律・学習指導要領に決められたことであり、
②「一般的、客観的な見地からは式典における
慣例上の儀礼的な所作」、「一般常識」、「職務上のルール」であり、
③「思想・良心の自由」を「間接的に制限する面がある」が、
④公務員であり、生徒の模範となるべき教員が不起立するなど、
は許されず、そのような教員はクビにして当然。という考え方が前面に出てきたことを現しています。
5月30日の最高裁判決の竹内行夫判事「補足意見」は、
特に④について、次のように明確に述べています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国旗、国歌に対する敬意や儀礼を生徒に指導する機会として種々あるであろうが、
卒業式や入学式などの学校行事は重要な機会である。
そのような学校行事において、教員が起立斉唱行為を拒否する行動をとることは、
国旗、国歌に対する敬意や儀礼について指導し、
生徒の模範となるべき教員としての職務に抵触するものと言わざるを得ないであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今後、この動きはさらに強化され、「生徒の模範」というからには、
すべての生徒に「国旗、国歌に対する敬意や儀礼」が強制されることになるでしょう。
(すでに現在そうなっていると言える。意味も分らぬままに)
結局、教育を通じてすべての国民に対しても「一般常識」「ルール」として、
また「原発安全神話」ならぬ「君が代常識神話」として、疑問・批判・反対を許さず強制されることになるでしょう。
そして、これに反対するものは「常識知らず」として、「村八分」ならぬ「非国民」となるでしょう。
これは戦前と同じ道です。
では、先に述べたような一見もっともらしい彼らの論理(実はデマゴギーに満ちている)に対し、
私たちはどのような論理で立ち向かうべきでしょうか。
(2)
まず第一に問題とすべきは、「現在の日本社会では誰が主権者か」という問題です。
「君が代」は明治初期に作られた天皇制を賛美する歌であり、明らかに「天皇主権」の歌です。それは歌詞を見れば一目瞭然です。
その歌を「国民主権」の日本社会において人々に強制し、起立し歌わなければ処分するなどということは、たとえ教員に対してであっても、あってはならないことです。
だから、そのことを知っていた当時の政府は繰り返し「強制はしない」と述べ、
天皇も「強制は良くない」と述べているのです。
また、菅首相も「日の丸・君が代」法制化当時、『天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、
象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の立場から明確に反対した方がいい』と述べていたのです。
問題は、「君が代」の果たした歴史的役割ではなく、「君が代」が現在果たしつつある役割なのです。
これに対する裁判所の判決は、昨年11月10日に東京高裁で出されたNさんへの判決だけだと思います。
Nさんは「陳述書」で、「君が代」の違憲性を問いました。
それに対して東京高裁は
①「国旗・国歌法」は旗や歌詞の意味内容について特定されているわけではない」
②「国民に対して・・・法律的尊重義務を課してたり、これに違反したりした場合に不利益を課するなどといったことは一切規定していない」とし、(ここから先がさらに詭弁になりますが)、
③「国旗及び国歌に関する法律の存在が、直ちに、思想及び良心の自由の侵害、信教の自由の侵害、
表現の自由の侵害と結びつくことはない」
④「法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、裁判規範性としての意味を持たないものであるから、同法が憲法に違反するか否かという
司法判断にはなじまないものと言わざるを得ない。」と司法判断を回避しているのです。
しかし、「君が代」の「君」は天皇であると言うことは政府も法律制定時に答えています。
にもかかわらず、裁判所は「特定されていない」と誤魔化しているのです。
つまり、裁判所は「君が代」の<意味内容>が明らかにされると「まずい!」と考えているのです。
また、実際に「君が代」によって、「尊重義務」や「不利益」が生じているから問題にしているにもかかわらず、
「法律の存在が、直ちに・・・自由の侵害と結びつくことはない」などと訳の分らないことを言っています。
しかしNさんは、「法律の存在」を問題にしているのではなく、「法律」そのものの違憲性を問題にしているのです。
要するに、「君が代」の意味内容が問題になっては、強制と処分に道理がないことが
白日の下に晒されるので、大変困るということです。
だから、いろいろな詭弁・強弁を使い、判断を回避しているのです。
それゆえ、最高裁も橋下知事も決して「君が代」を問題にしようとはせず、
単なる「国歌」(あるいはシンボル=象徴)としてその本質を覆い隠そうとしているのです。
したがって、「君が代の強制」を問題にするのではなく、「シンボルの強制」を問題にするというのは、
問題の本質を見失わせることになります。
問題は「国民主権」の現在の日本社会で「天皇主権」の「君が代」が強制されているということです。
これは「強制」より前に「主権」の問題です。
だから、何人かの教員が「強制」されなければよい、何人かの教員の「思想・良心の自由」が守られればよい、という問題ではありません。
ちなみに、現在問題になっている「育鵬社」と「自由社」の教科書では、
架空の神武天皇を初代天皇と記述し、明治憲法を賛美し、昭和天皇もコラムで大きく取り上げるという扱いです。
「育鵬社」の教科書に至っては、皮肉にも、最高裁長官が皇居で天皇に頭を下げている任命式(!)の写真が掲載されているようです。
本日(6月5日)はここまでとします。
明日は、<「学習指導要領」と「慣例上の儀礼的所作」>について、です。
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都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログのアドレス、
http://kenken.cscblog.jp/
「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hinokimi
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の渡部です。
この間、
①3月25日、「河原井・根津さん君が代不起立」裁不当判決。
②5月30日、最高裁「君が代」起立命令合憲判決。
③6月3日大阪府で「君が代」起立斉唱義務づけ条例可決。
と続き、さらに今後、
④最高裁で6月6日、16日と口頭弁論を開かないままでの判決。
⑤大阪府では9月議会に処分条例案提案(?)。
と続きまます。
この一連の流れは、戦後一貫して復活が画策されてきた
「日の丸・君が代」強制が段階を画したことを示しています。
そして、「日の丸・君が代」起立斉唱は、
①法律・学習指導要領に決められたことであり、
②「一般的、客観的な見地からは式典における
慣例上の儀礼的な所作」、「一般常識」、「職務上のルール」であり、
③「思想・良心の自由」を「間接的に制限する面がある」が、
④公務員であり、生徒の模範となるべき教員が不起立するなど、
は許されず、そのような教員はクビにして当然。という考え方が前面に出てきたことを現しています。
5月30日の最高裁判決の竹内行夫判事「補足意見」は、
特に④について、次のように明確に述べています。
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国旗、国歌に対する敬意や儀礼を生徒に指導する機会として種々あるであろうが、
卒業式や入学式などの学校行事は重要な機会である。
そのような学校行事において、教員が起立斉唱行為を拒否する行動をとることは、
国旗、国歌に対する敬意や儀礼について指導し、
生徒の模範となるべき教員としての職務に抵触するものと言わざるを得ないであろう。
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今後、この動きはさらに強化され、「生徒の模範」というからには、
すべての生徒に「国旗、国歌に対する敬意や儀礼」が強制されることになるでしょう。
(すでに現在そうなっていると言える。意味も分らぬままに)
結局、教育を通じてすべての国民に対しても「一般常識」「ルール」として、
また「原発安全神話」ならぬ「君が代常識神話」として、疑問・批判・反対を許さず強制されることになるでしょう。
そして、これに反対するものは「常識知らず」として、「村八分」ならぬ「非国民」となるでしょう。
これは戦前と同じ道です。
では、先に述べたような一見もっともらしい彼らの論理(実はデマゴギーに満ちている)に対し、
私たちはどのような論理で立ち向かうべきでしょうか。
(2)
まず第一に問題とすべきは、「現在の日本社会では誰が主権者か」という問題です。
「君が代」は明治初期に作られた天皇制を賛美する歌であり、明らかに「天皇主権」の歌です。それは歌詞を見れば一目瞭然です。
その歌を「国民主権」の日本社会において人々に強制し、起立し歌わなければ処分するなどということは、たとえ教員に対してであっても、あってはならないことです。
だから、そのことを知っていた当時の政府は繰り返し「強制はしない」と述べ、
天皇も「強制は良くない」と述べているのです。
また、菅首相も「日の丸・君が代」法制化当時、『天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、
象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の立場から明確に反対した方がいい』と述べていたのです。
問題は、「君が代」の果たした歴史的役割ではなく、「君が代」が現在果たしつつある役割なのです。
これに対する裁判所の判決は、昨年11月10日に東京高裁で出されたNさんへの判決だけだと思います。
Nさんは「陳述書」で、「君が代」の違憲性を問いました。
それに対して東京高裁は
①「国旗・国歌法」は旗や歌詞の意味内容について特定されているわけではない」
②「国民に対して・・・法律的尊重義務を課してたり、これに違反したりした場合に不利益を課するなどといったことは一切規定していない」とし、(ここから先がさらに詭弁になりますが)、
③「国旗及び国歌に関する法律の存在が、直ちに、思想及び良心の自由の侵害、信教の自由の侵害、
表現の自由の侵害と結びつくことはない」
④「法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、裁判規範性としての意味を持たないものであるから、同法が憲法に違反するか否かという
司法判断にはなじまないものと言わざるを得ない。」と司法判断を回避しているのです。
しかし、「君が代」の「君」は天皇であると言うことは政府も法律制定時に答えています。
にもかかわらず、裁判所は「特定されていない」と誤魔化しているのです。
つまり、裁判所は「君が代」の<意味内容>が明らかにされると「まずい!」と考えているのです。
また、実際に「君が代」によって、「尊重義務」や「不利益」が生じているから問題にしているにもかかわらず、
「法律の存在が、直ちに・・・自由の侵害と結びつくことはない」などと訳の分らないことを言っています。
しかしNさんは、「法律の存在」を問題にしているのではなく、「法律」そのものの違憲性を問題にしているのです。
要するに、「君が代」の意味内容が問題になっては、強制と処分に道理がないことが
白日の下に晒されるので、大変困るということです。
だから、いろいろな詭弁・強弁を使い、判断を回避しているのです。
それゆえ、最高裁も橋下知事も決して「君が代」を問題にしようとはせず、
単なる「国歌」(あるいはシンボル=象徴)としてその本質を覆い隠そうとしているのです。
したがって、「君が代の強制」を問題にするのではなく、「シンボルの強制」を問題にするというのは、
問題の本質を見失わせることになります。
問題は「国民主権」の現在の日本社会で「天皇主権」の「君が代」が強制されているということです。
これは「強制」より前に「主権」の問題です。
だから、何人かの教員が「強制」されなければよい、何人かの教員の「思想・良心の自由」が守られればよい、という問題ではありません。
ちなみに、現在問題になっている「育鵬社」と「自由社」の教科書では、
架空の神武天皇を初代天皇と記述し、明治憲法を賛美し、昭和天皇もコラムで大きく取り上げるという扱いです。
「育鵬社」の教科書に至っては、皮肉にも、最高裁長官が皇居で天皇に頭を下げている任命式(!)の写真が掲載されているようです。
本日(6月5日)はここまでとします。
明日は、<「学習指導要領」と「慣例上の儀礼的所作」>について、です。
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