~体育会系でも権力を笠に着て生徒を押さえつけないよう心掛けてきました
原告 水野 彰
第1 不起立で処分されたことについて
2005年3月、私は向島工業高校の卒業式において国歌斉唱時に起立せず、君が代斉唱をしませんでした。都教委はそのことを理由に私を戒告処分にしました。また、2009年3月、田無高校を最後に34年間勤めた都立高校を定年退職し、定年後の非常勤教員を希望しましたが採用されませんでした。
第2 私はなぜ起立できなかったのか
それは「10,23通達」が発出された直後にあった、2004年3月の卒業式での体験と、その時に味わった苦い思いを二度としたくないと思ったからです。
この時、私は職務命令による強制には強い抵抗感を持ちつつも、それ以上に職務命令の重圧をヒシヒシと感じ座ることができなかったのです。私は苦痛で目を閉じたまま時間の過ぎるのを待ちました。私はあの屈辱感を二度と味わいたくない!次の卒業式で迷いながらも座ることを決心しました。40秒という時間があれほど長く感じたことはありません。
しかし、私が起立できなかった思い・心情は、もう少し私自身の生きてきた経緯に触れることで裁判長に理解していただきたいと思います。
私は中学・高校・大学と体操競技に打ち込み、卒業後も大学助手として選手生活を送りました。日夜練習に励んだ甲斐があって念願の全日本代表選手に選ばれました。その時から、胸に「日の丸」をつけてオリンピックに出場することが私の人生の目標となりました。「体操ニッポン」の強豪がひしめく中で外国遠征をしたこともありました。
しかし、不本意ながらケガに悩まされ選手生活を断念するしかありませんでした。人生の進路を大きく転換せざるをえなくなった私は父が教員だったこともあり、それまでの生き方に区切りをつけて都立高校の教員になる決意をしました。
オリンピック選手への道は断念したとは言え、「日の丸」を背負って世界の舞台に立とうとしていたことが、私の誇りであることに変わりはありませんでした。
その私が、生徒たちに大きな影響を及ぼしかねない教育という場で、あえて国歌斉唱時に立たないという決意をしました。
そう決意したのは、私の初任校である北豊島工業高校という都立高校における体験であり、そこで培われた教育観が大きいのではないかと思います。
私が赴任した北豊島工業高校は、教職員が実におおらかな姿勢で生徒に対応していました。工業高校なので、男子が多く多少荒っぽいところもありましたが、管理主義的に上から押さえつけるのではなく、根気強く生徒と話し合い、納得させるという指導をしていました。
鑑別所に入れられた生徒に対しても足を運び家族と一緒になって生徒を支える、そのような指導を行ってきました。私もその一翼を担ってきました。
私は、体育担当の教員でした。体育教員は一般的によく「体育会系」と言われ、先輩の言うことに無批判的に従うという傾向があります。
大学に入学したとき、新入生が上級生に整列させられて指導という名の暴力的制裁(往復ビンタ)を受けました。その時は違和感を持ちつつも、何も言えず、行動できなかった自分がいました。
教員になってからはそういう自分を省みて、実技指導では軍隊調の指導は極力避けたり、教師という権力を傘にきて生徒の考えを押さえつけるようなことはしないよう心がけてきました。
また、初めて担任を持ち、修学旅行で広島を訪れ原爆資料館を見学し、生徒がそうであったように教員の私も強い衝撃を受けました。
今思えば恥ずかしいことですが、それまでの私は政治や社会の問題に全く無頓着でいました。しかし、原爆を投下された広島の悲惨さに触れたことで、私の問題意識は核兵器の問題や戦争の問題へ、ひいては、なぜ日本が戦争に突入していったかについて広がっていきました。
日本国民が戦争に駆り立てられていったのは、教育の問題、特に「愛国心」教育が大きかったことを知りました。太平洋戦争に果たした「日の丸・君が代」の役割りに思いを馳せないわけにはいかなくなりました。少なくとも、あの戦争においては「日の丸・君が代」と「愛国心」教育は固く結びついていたと思うようになりました。
ヒットラーのナチスがドイツの国威発揚を意図してベルリンオリンピックを開催したことは有名な話ですが、私はこの頃、平和の祭典であるべきオリンピックが政治に利用されるという側面があることを書物に触れる中で知りました。大学時代、無自覚に「日の丸」を背負い、誇りに思っていた私はその自分に顔から火の出るような思いにとらわれました。
もちろん、自然発生的に自国の選手を応援する…そういう自然発生的な「愛国心」というようなものは否定されるべきものではありません。しかし、「愛国心」は強制されるものではなく、上から強制することは正しいとは思えません。
日本の過去の侵略戦争やヒトラーの侵略戦争の歴史から、私たちは最低限そのことを学ばなければいけないと思います。
現在、東京都では「10・23通達」による「日の丸・君が代」の強制だけでなく、「伝統文化」の特設科目や東京都独自教科「奉仕」が設けられました。また、社会科では「日本史」が必修となります。
私は*武道が必修となったとき、宗教上の理由で「授業に出られない」と訴えてきた生徒に別メニューでの課題を与えたりレポートを作成させることで単位を認定しました。だから、「10.23通達」を目にしたとき、書いようのないものが腹の底から湧き上がってきました。「愛国心は強制されるべきものではない」と。
2005年3月の卒業式での私の不起立という行動は止むにやまれぬ気持ちからのギリギリの選択だったのです。
私が起立をしなかったのは、「10.23通達」及び都教委の指導が、過去の戦争経験から愛国心は強制してはならないという私の信条に反し、これを強制するものであり、かつ、生徒に対する教育の自由を完全に奪うものであったからです。
最後に「10.23通達」を契機にして、自由と民主主義を伝統とする都立高校の職場の雰囲気が破壊されてきています。私はそのことに大きな危機感を抱いていることを、声を大にして訴えたいと思います。
生徒の自主性を尊重してこそ成り立つ生徒指導も、過去の過ちを二度と繰り返さないために生徒に考えさせる平和教育も、校長を含めた教職員の自由な意見交換、活発な議論が保障される民主的な職場があったからこそ可能になったのだと言えます。
その職場を一気に破壊したのが「10.23通達」であり、石原都知事、横山教育長らによる教育行政でした。
東京の教育目標から「憲法と教育基本法に基づく教育」が削除され、都立高校はかってのエリート校を創るべく、能力主義的なピラミッド型に再編されました。
職場は校長のリーダーシップ確立の名の下、民間企業の手法が最善とぼかりに進学指導重点校では「○○大学合格者何名達成」、学力指導困難校では「遅刻者ゼロ達成」など数値目標を達成することだけが学校の経営方針とされ、それに異を唱える教員は戦力外教員として他の学校に異動を余儀なくされるのです。
第3 裁判長に訴えたいこと
私はこの書面を書くにあたって、2005年3月28日に放映されたNHKの「クローズアップ現代一卒業式で何が起きているのか一」の録画ビデオを見ました。
横山教育長が国谷キャスターに「強制はしないんですね!」と再三問われて返答に窮している場面があります。6年前に放映されたものですが内容は現在もまったく変わることのない新鮮さを持ち続けており、悲しい気持ちになりました。
もし裁判長がご覧になっていないのであれば、ぜひ見ていただきたいと思います。そして、どうか私たちの思いを受け止めて下さり、適切な判決をいただけるようお願いし、陳述を終わります。
以上
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫
原告 水野 彰
第1 不起立で処分されたことについて
2005年3月、私は向島工業高校の卒業式において国歌斉唱時に起立せず、君が代斉唱をしませんでした。都教委はそのことを理由に私を戒告処分にしました。また、2009年3月、田無高校を最後に34年間勤めた都立高校を定年退職し、定年後の非常勤教員を希望しましたが採用されませんでした。
第2 私はなぜ起立できなかったのか
それは「10,23通達」が発出された直後にあった、2004年3月の卒業式での体験と、その時に味わった苦い思いを二度としたくないと思ったからです。
この時、私は職務命令による強制には強い抵抗感を持ちつつも、それ以上に職務命令の重圧をヒシヒシと感じ座ることができなかったのです。私は苦痛で目を閉じたまま時間の過ぎるのを待ちました。私はあの屈辱感を二度と味わいたくない!次の卒業式で迷いながらも座ることを決心しました。40秒という時間があれほど長く感じたことはありません。
しかし、私が起立できなかった思い・心情は、もう少し私自身の生きてきた経緯に触れることで裁判長に理解していただきたいと思います。
私は中学・高校・大学と体操競技に打ち込み、卒業後も大学助手として選手生活を送りました。日夜練習に励んだ甲斐があって念願の全日本代表選手に選ばれました。その時から、胸に「日の丸」をつけてオリンピックに出場することが私の人生の目標となりました。「体操ニッポン」の強豪がひしめく中で外国遠征をしたこともありました。
しかし、不本意ながらケガに悩まされ選手生活を断念するしかありませんでした。人生の進路を大きく転換せざるをえなくなった私は父が教員だったこともあり、それまでの生き方に区切りをつけて都立高校の教員になる決意をしました。
オリンピック選手への道は断念したとは言え、「日の丸」を背負って世界の舞台に立とうとしていたことが、私の誇りであることに変わりはありませんでした。
その私が、生徒たちに大きな影響を及ぼしかねない教育という場で、あえて国歌斉唱時に立たないという決意をしました。
そう決意したのは、私の初任校である北豊島工業高校という都立高校における体験であり、そこで培われた教育観が大きいのではないかと思います。
私が赴任した北豊島工業高校は、教職員が実におおらかな姿勢で生徒に対応していました。工業高校なので、男子が多く多少荒っぽいところもありましたが、管理主義的に上から押さえつけるのではなく、根気強く生徒と話し合い、納得させるという指導をしていました。
鑑別所に入れられた生徒に対しても足を運び家族と一緒になって生徒を支える、そのような指導を行ってきました。私もその一翼を担ってきました。
私は、体育担当の教員でした。体育教員は一般的によく「体育会系」と言われ、先輩の言うことに無批判的に従うという傾向があります。
大学に入学したとき、新入生が上級生に整列させられて指導という名の暴力的制裁(往復ビンタ)を受けました。その時は違和感を持ちつつも、何も言えず、行動できなかった自分がいました。
教員になってからはそういう自分を省みて、実技指導では軍隊調の指導は極力避けたり、教師という権力を傘にきて生徒の考えを押さえつけるようなことはしないよう心がけてきました。
また、初めて担任を持ち、修学旅行で広島を訪れ原爆資料館を見学し、生徒がそうであったように教員の私も強い衝撃を受けました。
今思えば恥ずかしいことですが、それまでの私は政治や社会の問題に全く無頓着でいました。しかし、原爆を投下された広島の悲惨さに触れたことで、私の問題意識は核兵器の問題や戦争の問題へ、ひいては、なぜ日本が戦争に突入していったかについて広がっていきました。
日本国民が戦争に駆り立てられていったのは、教育の問題、特に「愛国心」教育が大きかったことを知りました。太平洋戦争に果たした「日の丸・君が代」の役割りに思いを馳せないわけにはいかなくなりました。少なくとも、あの戦争においては「日の丸・君が代」と「愛国心」教育は固く結びついていたと思うようになりました。
ヒットラーのナチスがドイツの国威発揚を意図してベルリンオリンピックを開催したことは有名な話ですが、私はこの頃、平和の祭典であるべきオリンピックが政治に利用されるという側面があることを書物に触れる中で知りました。大学時代、無自覚に「日の丸」を背負い、誇りに思っていた私はその自分に顔から火の出るような思いにとらわれました。
もちろん、自然発生的に自国の選手を応援する…そういう自然発生的な「愛国心」というようなものは否定されるべきものではありません。しかし、「愛国心」は強制されるものではなく、上から強制することは正しいとは思えません。
日本の過去の侵略戦争やヒトラーの侵略戦争の歴史から、私たちは最低限そのことを学ばなければいけないと思います。
現在、東京都では「10・23通達」による「日の丸・君が代」の強制だけでなく、「伝統文化」の特設科目や東京都独自教科「奉仕」が設けられました。また、社会科では「日本史」が必修となります。
私は*武道が必修となったとき、宗教上の理由で「授業に出られない」と訴えてきた生徒に別メニューでの課題を与えたりレポートを作成させることで単位を認定しました。だから、「10.23通達」を目にしたとき、書いようのないものが腹の底から湧き上がってきました。「愛国心は強制されるべきものではない」と。
2005年3月の卒業式での私の不起立という行動は止むにやまれぬ気持ちからのギリギリの選択だったのです。
私が起立をしなかったのは、「10.23通達」及び都教委の指導が、過去の戦争経験から愛国心は強制してはならないという私の信条に反し、これを強制するものであり、かつ、生徒に対する教育の自由を完全に奪うものであったからです。
最後に「10.23通達」を契機にして、自由と民主主義を伝統とする都立高校の職場の雰囲気が破壊されてきています。私はそのことに大きな危機感を抱いていることを、声を大にして訴えたいと思います。
生徒の自主性を尊重してこそ成り立つ生徒指導も、過去の過ちを二度と繰り返さないために生徒に考えさせる平和教育も、校長を含めた教職員の自由な意見交換、活発な議論が保障される民主的な職場があったからこそ可能になったのだと言えます。
その職場を一気に破壊したのが「10.23通達」であり、石原都知事、横山教育長らによる教育行政でした。
東京の教育目標から「憲法と教育基本法に基づく教育」が削除され、都立高校はかってのエリート校を創るべく、能力主義的なピラミッド型に再編されました。
職場は校長のリーダーシップ確立の名の下、民間企業の手法が最善とぼかりに進学指導重点校では「○○大学合格者何名達成」、学力指導困難校では「遅刻者ゼロ達成」など数値目標を達成することだけが学校の経営方針とされ、それに異を唱える教員は戦力外教員として他の学校に異動を余儀なくされるのです。
第3 裁判長に訴えたいこと
私はこの書面を書くにあたって、2005年3月28日に放映されたNHKの「クローズアップ現代一卒業式で何が起きているのか一」の録画ビデオを見ました。
横山教育長が国谷キャスターに「強制はしないんですね!」と再三問われて返答に窮している場面があります。6年前に放映されたものですが内容は現在もまったく変わることのない新鮮さを持ち続けており、悲しい気持ちになりました。
もし裁判長がご覧になっていないのであれば、ぜひ見ていただきたいと思います。そして、どうか私たちの思いを受け止めて下さり、適切な判決をいただけるようお願いし、陳述を終わります。
以上
≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
今、教育が民主主義が危ない!!
東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫