◎ 思想・良心の自由違反

代理人 平松真二郎

1(1) 原判決は,学習指導要領の国旗国歌条項から教職員に対する国歌の起立斉唱・ピアノ伴奏義務を導き出すことはできないとし,国旗国歌条項が10.23通達を発出する根拠とはならないとの判断を示しました。
 しかし,その後の下級審裁判所の各判決は,教職員が国歌を起立斉唱することが,国旗国歌条項の趣旨にかなうとの判断を示しています。
 はたして,学習指導要領の国旗国歌条項から,起立斉唱・ピアノ伴奏の義務が導き出すことができるのでしょうか。

 (2) 学習指導要領は,1947年,それまでの「教授要目」あるいは「教授細目」に代わるものとして,戦後教育改革に先立って公表されました。
 その冒頭では,「これまでの教育では,その内容を中央できめると,それをどんなところでも,どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしてもいわゆる*画一的になって,教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは,教育の実際にいろいろな不合理をもたらし,教育の生気をそぐようになった。……この書は,……これまでの教師用書のように,一つの動かすことのできない道をきめてそれを示そうとするような目的でつくられたものではない。」と謳っておりました。
 学習指導要領は,そもそもそこに記載されている内容を画一的に児童生徒に教え込むことが予定されているものではないのです。そして,そこに記載されている内容を必ず実現することが予定されているものでもないのです。


 (3) 国旗国歌条項は「入学式や卒業式などにおいては……国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」と規定しているにとどまります。特定の掲揚方法あるいは特定の演奏方法を定めてはいないのです。
 掲揚方法,演奏方法をはじめとして,どのように指導するかなど具体的な教育の実践は,「教師による創造的かつ弾力的な教育の余地」や,「一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するものでない」ように解釈されなければなりません。そうすれば「指導する」ことを求めるこの条項が,一律に教職員が国旗に向かって起立し,国歌を斉唱する義務を生じさせる根拠とはならないことは明らかです。

 (4) したがって,教職員に対して起立斉唱・ピアノ伴奏を義務付けた10.23通達は,教職員に対し根拠なくして義務を課すものであって違法な通達と言わざるを得ないのです。

2(1) 当審では,渋谷秀樹立教大学教授が,一定の行為の義務付けを思想良心に基づいて拒否することが許される場合の判断方法について証言しました。
 渋谷教授の証言によれば,まず,客観的要因として,行為の拒否を求める思想・良心がどのようなものであるのか,その内容が合理的であるのか,が問われることになります。これは,行為を拒否するもととなる「考え」が,突飛な考え,あるいは,単なるわがままではなく,「思想・良心」として憲法19条の保障対象とすべきことが示される必要があることを意味しています。
 その上で,主観的要因として,行為の義務付けの拒否を求める一人一人について憲法19条で思想・良心として保障される「考え」を有しているか,その真摯さが判断されることになります。そして,客観的要因と主観的要因,その両者が満たされるとき,一定の行為の義務付けを拒否することが許されることになるのです。

 (2) 客観的要因から考えていきます。
  ア 国旗や国歌は国のシンボルですから,その「ハタ」や「ウタ」とどう向き合うかということは,必然的に国家とどのように向き合うのかという問題をはらむことになります。
  そして,シンボルに正対することは,その表象するものに対して敬意を示す態度でもあります。国旗に向かって起立して,国歌を起立斉唱することは,その表象する国に対する敬意を示す態度を取ることでもあるのです。
  国家によって,国民一人一人の生き方が規定されてしまっては,個人の尊厳を保つことなどできません。したがって,個人がどのように生きるのか,そして,根源でもある個人が国とどのような関係を持つのか,そこに国家が踏み込むことは許されないのです。
  したがって,国家とどのように向き合うか,これは一人一人の考え方にゆだねられるべきことがらであり,ウタやハタとどう向き合うかも,一人一人の考えにゆだねられるべきことがらであるのです。
  イ また,「日の丸」・「君が代」に平和主義,国民主権の理念の役割を期待する見方,考え方を持つ人がいる一方で,戦前,それらが皇国思想,軍国主義思想の精神的支柱として利用されたものであり,いまなお「日の丸」・「君が代」を軍国主義あるいは天皇崇拝のシンボルとしての見方,考え方を持つ者もいることは,裁判所においても顕著な事実でありましょう。
  「日の丸」・「君が代」に対する考え方は,ことに国旗・国歌に対する考え方の問題ですから,国民の多数がどのように考えているかによって正邪が決められる問題ではありません。
  ウ 特に,国歌である「君が代」については,その象徴するものが「日本国」であるのか,それとも「天皇」であるのか,歌詞の解釈によって分かれることになるでしょう。
  「君が代」は,戦前には,「天皇」を賛美する歌であるとされてきました。また,現在でも,日本においては古来、天皇の支配によって時代が区分されてきたことから,「君が代」を「天皇の治世」と考える人もいるでしょう。
  政府も一つの解釈を示しています。これも一つの物の考え方に基づくものにすぎません。政府による公定解釈だけが唯一絶対の解釈ではないことは言うまでもありません。
  エ このように,国旗や国歌,「日の丸」・「君が代」に対する見方,考え方は一様ではあり得ません。そのなかで,一つの考え方として,どうしても,国旗や国歌が表象する国に対して肯定的な態度を示すことができないという考えもあるのです。
  そうすれば,ひとまず「国旗に向かって起立し,国歌を起立斉唱できない」という考えも,単なるわがままなどではなく,憲法19条の思想・良心として保障されるべき「考え」にあたるといえるのです。

 (3) 次に,主観的要因について考えていきます。
 被控訴人らも,国旗・国歌とどうむきあうのか,あるいは「日の丸」・「君が代」に対する見方,考え方,「君が代」が表象するもの,それぞれについて,様々な解釈,考えのなかから,被控訴人一人一人が自らの解釈,考えに基づいて「国歌を起立斉唱」あるいは「ピアノ伴奏」できないとして,本件訴訟を提起しています。
 そして,被控訴人らの「起立斉唱できない」考えは,直接,被控訴人個人の人間観,世界観,歴史観,社会観,教育観あるいは信仰に根ざしたものです。被控訴人らの人生経験,教育経験などに基づいて形成された真摯なものです。そのことは,当審における被控訴人の陳述書からお分かりいただけるものと思います。

 (4) これまで述べてきたとおり,被控訴人らの「起立斉唱できない考え」は,客観的にもその「考え」が,単なるわがままにとどまるものではなく,憲法19条の保障の対象となるものです。そして,被控訴人らの真摯な思いなのです。
 このような被控訴人らに対する起立斉唱・ピアノ伴奏の義務付けは,それ自体,被控訴人らの思想・良心の自由を侵害するものであって憲法19条に違反するものと言わざるを得ないのです。

3 裁判所におかれては,原判決の結論を変える必要があるのか,前例のない都教委による権力的かつ直接的な思想・良心の自由に対する侵害を許してしまってよいのか,慎重にご審理いただきたいと思います。
 そして,10.23通達及びこれに基づく各校長の職務命令による起立斉唱,ピアノ伴奏の義務付けについて明確に違憲・違法とする判断を示し,憲法の番人としての裁判所の責務を全うしていただくことを期待して私の陳述といたします。

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