少し前に フランクルの「夜と霧」を初めて読んだ本



夜と霧は 心理学者であるヴィクトールEフランクルの アウシュビッツ強制収容所での体験記になる。




強制収容所という極限的な状況の中でも いかにふるまうかという人間としての最後の自由を奪えない ということをフランクルは記している。





この本を勧めてくれた友人が、収容所でのフランクルの妻への思いを読んで
人は愛によって生かされているのだなあ と思ったと話してくれた。



フランクルの妻子も 強制収容所に入れられていたが別々に収容されていたため
フランクルが妻を思う場面では、妻はそこには居なかったし、生きているのかもわからなかった。

そして現実的にはもう死んでいたのである。




フランクルはもちろんそんなことは知るすべもなく、極限的な環境の中で 妻との幸せな日々や妻の面影を辿って 心を満たすことができたという。


実在しないものの愛なんて ただの空想だし 例え実在していたとしても
それが真実の愛といえるのかと 私は疑問に思ってしまった。

なぜ これが愛なの?と。




それを友人に聞いてみたら、フランクルは妻を思う愛によって生かされているという。
妻が自分に与えていた愛ではなく、自分が妻を愛する思い。それによって彼は生かされていると。
そこに本人が実在していても していなくても だ。




うなってしまった~得意げ
与えられることが人を満たすのではない
与えること 求めることで人は満たされているのだ。





自分が 与えてやっている と思っているものに
実は生かされているということ。


そしてその対象も 与えてやっているから生きていけているのではないということ。





人でなくても 仕事でも 得意なことでも なんでもいいのかもしれない。




こういう話しができるって なかなかないよ ありがとう。

感謝。