この投稿は、妾をもつほどに裕福な生活をしていた朝鮮人の男性が、ある時、知り合いに貸した4,000円もの大金(一般労働者の10年分の給与以上)が返ってこないことになり、1942年末に、朝鮮からビルマへの慰安婦団と一緒に渡海し、慰安所の経理・総務責任者として働くことになった男性が書いた日記からの抜粋です。

 

日本では、「慰安所 帳場管理人の日記」 という名前で紹介されることが多いですが、そもそもは、2000年初頭に、街の古物商で売られていたものをソウル近郊の博物館が発見し、中に慰安婦に関する記述があると思われた為、ソウル大学名誉教授の安(アン)・ピョンジク氏が、翻訳、分析し、2013年に公表されたものです。

 

(そう、韓国人は、戦前、戦中に使われていた旧字体のハングル文字は、最早、読めないのです。)

 

日記は30年間、毎日欠かさずに書かれていますが、以下は、公開されている1943年、1944年の中から、慰安婦に関する箇所、当時の世情の理解するのに役に立つと思う箇所のみを抜粋しています。

 

尚、日記には多くの人物が登場します。日本人の名前に見えますが、実際は、安教授らによって朝鮮人であることが特定されています。(正しくは、朝鮮人ではなく、日本人である半島人、と表現するべきでしょうが。)

 

◆は、ブログの管理者(自分)のコメントです。

 

1943年 (昭和 18 年)  1 月 1 日
大東亜聖戦、2 度目の昭和 18(1943)年の新春を迎え、1 億の民草は伏してどうか陛下のご健康であられますことと皇室の末永きご繁栄をお祝い申し上げるところである。私は遠く故郷を離れ、ビルマのアキャブ(Akyab、現在の Sittwe)2)市慰安所である勘八倶楽部で起きて東の方に宮城に向かって遙拜し、故郷の両親と兄弟、そして妻子のことを思い、幸せを祈った。東天の日差しも分かっているかのように、皇軍の武運長久と国家隆昌を祝福してくれる。どうか今年一年も無事に幸運の中で過ごせるように…。家内の弟と○桓君は慰安婦を連れて連隊本部その他 3~4 ヶ所に新年挨拶に行って来た。一線陣中で迎えた元日も暮れて夜になり、今年の幸運を夢見て、何日か眠れなく辛かったのだがつい深く寝た。

 

◆最初から驚きます。これを書いているのは朝鮮人です。当時は日本人として生きていたことがよく分かります。

 

1 月 2 日土曜日、晴天、19/22
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた。昨日は元日の休業で、今日から慰安業を始める。新年が明けて早くも二日目を迎えた。朝鮮は今が一番寒い時なのに、ここは中秋の気候ぐらいだ。

1 月 4 日月曜日、晴天、19/21
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた。一日中帳場の仕事をしていて夜 2 時頃に寝た。

1 月 5 日火曜日、晴天、19/21
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて一日中帳場の仕事をした。
夜 2 時過ぎに寝た

◆こんな感じで淡々と日記がかかれていきますが、以下は、該当する箇所のみ抜粋していく。

1 月 7 日木曜日、晴天、
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて○桓君と帳場の仕事をし、○桓君と一緒に寝た。今日はこの頃一番客が少なかった。兵丁券は 14 枚しか売れなかった

 

◆今後も次々に慰安所が登場しますが、各慰安所には、それぞれきちんとお店の名前がついていました。 さて、日記に本当に”慰安所”と書いてあったのか、どういう言葉だったのかは、分かりません。

 

1 月 9 日土曜日、晴天、20.70/22.00
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて一日中帳場の仕事をし、夜 2 時頃に寝た。今日、検査の結果、病中の○千代と○子の二人は不合格でそれ以外の 16人は皆合格した。合格は多かったが客は少ない。

1 月 10 日日曜日、晴天、20.70/23.00
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて一日中帳場の仕事をして寝た。中隊前の海上遠く敵の砲艦 4、5 隻が見え、夜 1 時頃に各部隊は非常警備に皆武装出動をした。

1 月 12 日火曜日、晴天、19.5/23.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた。医務室へ行ってから連隊本部の事務室に寄って慰安婦収入報告書を提出し、ラングーンに向かう便があったら出張証明書を発給してくれと頼んだ。アキャブ海岸を流れる川には魚もたくさんいて、網さえ投げればいっぺんに数十匹がつかまる時もある。

1 月 13 日水曜日、晴天、20.0/23.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた連隊本部の医務室へ行って衛生サック 1,000 個を持って来た。夜 1 時半時頃に寝た。昨晩には敵機の音は聞こえなかった。

1 月 16 日土曜日、晴天、21.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて帳場の仕事をした。午後6 時過ぎに連隊本部の事務室で先日に頼んだラングーン出張証明書をもらい、見たら今夜 20時に出発しろということだった。家内の弟に事情を話したら、行きなさいといってお金 3 万2,000 円をくれ、送金しろというのだ。タンガップ(Taungup)まで向かう船は夜 9 時 40分頃に出発する。途中に風浪が激しく船酔いをして調子が悪くなり、吐くことまでした。アキャブに来て 2 ヶ月 5 日ぶりにここを離れた。

 

◆4,000円でも大金なのに、32,000円の大金です。


1 月 18 日月曜日、晴天
朝、8 時半頃、私が乗っていた大発船はタンガップ埠頭に到着した。すぐ上陸をし、同行の友になった中村上等兵と兵站を尋ね、朝飯を食べて某少尉の案内で彼の部隊に行って寝食をする事にした。プローム(Prome、現在の Pyay)行きの車は 2、3 日後にあるといい、某少尉も同行してラングーンまで行くと言っていた。

1 月 19 日火曜日、晴天
朝、ビルマのタンガップで起き、朝飯を食べて、終日中村正之助上等兵と車が何時に出発するのかを待ちながらブラブラしていた。少尉の話では明日、明後日には出発すると言っている。出発して後、アキャブの我が慰安所一同は無事よく営業しているかどうか。どうか健康と幸せを祈ってやまない。

1 月 21 日木曜日、晴天
朝、ビルマのタンガップの火村小隊で起き、朝飯を食べて同隊の自動車で火村小隊長少尉とその他運転兵まで 5 人、中村上等兵と私たちの 7 人が乗って、午前 11 時にタンガップを出発してアラカン(Arakan)という海抜数千余尺の山岳地帯、すなわち 180 余キロを無事越えてプローム対岸に到着し、渡河してプローム市の以前の我が慰安所の隣、チンロン家に入って宿泊の世話になった。アラカンの険しい山道を設計して開拓したことに感心した。千古に人跡まれな山だった。

1 月 23 日土曜日、晴天
朝、ビルマプローム市のチンロン家で起き、朝飯を食べてプローム駅で午前 10 時 28 分発の列車に乗ってラングーンに夜 10 時 50 分頃に着いた。サイドカーに乗って青鳥食堂の大原を捜したが、いないと言われ、宿所の困難を心配していると、サイカの持ち主であるビルマ人が自分の家に行こうと言うので、そうしようと付いて行って夕飯まで食べて寝た。

1 月 24 日日曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のビルマ人であるモンタン家で起きて野戦郵便局に送金をしに行ったら、兵站司令部の許可が必要だと言われ、同司令部へ行って副官に言ったら、毎日 500円以上は送金できないという。青鳥食堂へ行って主人の大山氏に会ってみた。銀行送金は多額でも大丈夫だが、軍政監部 の許可が必要であると言われ、同監部に行って話してみた。
銀行で許可用紙を得て申し込めばいいという。モンタンに行ってトランクを取って大山氏の経営する慰安所ラングーン会館を尋ねて宿泊の世話になった。大原君も白水慰安所で帳場の仕事をしているが、彼に会ってみた。


1 月 27 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起きて朝飯を食べた。ラングーン会館の主人が経営する青鳥食堂へ行ってからすぐラングーン会館に戻った。ラングーン会館で夕食を食べていたら同会館の岩下氏が遊びに行こうと言うので、一緒に市内ビルマ人遊郭へ行き、岩下氏の誘いにもかかわらず、遊ばないでそのまま帰ってきて寝た

1 月 28 日木曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起き、朝飯を食べて同会館の岩下氏と貨物公厰で経営する牧場と農園を見物して来た。牧場は数 100 万坪の面積だが、今はジャングル地帯を整備しているという。同会館で夕食を食べて遊んで寝た。

1 月 29 日金曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起きて朝飯を食べた。市内へ行って日本人会事務所を捜したが見つからず、帰ってきる途中に髭を剃った。ラングーン会館で寝た。朝鮮から一緒に来た野沢氏に会ったが、マンダレー(Mandalay)方面で慰安所をしていたが、今は私たちが前にいたプローム市へ今般部隊に付いて来て営業をしているという。

1 月 30 日土曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起きた。三井物産会社 3 階にある日本人会に行って入国許可用紙および日本人会への入会申込み用紙を貰ってきた。白水館(慰安所)で夕食を食べてラングーン会館で寝た。市内の成武堂書店へ行ってビルマ新聞の購読申請をして、初号から今日までの分をもらった。ビルマ新聞は今年 1 月 1 日から発行するようになった。

2 月 1 日月曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起きて三井物産会社の 3 階にある日本人会事務所に行って入国許可書を提出したら、そのまま政監部に提出しろと言われ、帰り道に大山氏が経営する青鳥食堂で朝飯を食べてからラングーン会館に帰ってきる。ラングーン会館で夕食を食べて寝た。アキャブを去ってからもう半月が過ぎた。何もやることなく大事な歳月だけを無駄遣いしている。将来の事業経営を大山氏と論議している。

 

◆この時は、まだ慰安所の帳場で働くということは決めておらず、現地の朝鮮人のネットワークを使って、色々な事業を検討しています。"入国”という概念があって、書類手続きをしないといけない。当時の軍の後方は、事務手続きを主とするお役所の世界です。


2 月 2 日火曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起き、朝飯を食べる前に白水慰安所の大原の処へ行ったら白水慰安所の大原君が朝飯を一緒に食べようというので朝飯を食べた。宿泊をあちこち転々していて本当に申し訳なくてたまらない。早く宿所が決まらないと食事や目的したことも進められないし、安心できないのに。ラングーン会館で夕食を食べて寝た。

2 月 3 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起きて朝飯を食べた。昨夜に故郷の夢を見たら午後 3 時頃に電報が来た。家内の弟にも電報が来た。すべて無事なのにがまだ病気が治らないというので心配だ。ここで電報を打ってから 10 日ぶりに回電が来た。白水慰安所で夕食を食べて豆腐店の鄭氏の家へ行って遊び、ラングーン会館に帰ってきて寝た。


2 月 10 日水曜日、晴天
朝、起きて金和氏と一緒に市場に出て朝飯を買って食べた。軍政監部に入国許可書を受け取りに行ったら、まだできていないとのことで、後で来てほしいという。ちょうど軍政部の門を出たら、朝鮮から慰安所経営者としてビルマに一緒に来た光山寛治氏と顔を合わせたので喜んで挨拶をした後、色々話をして遊んでから市内の正金銀行へ光山氏が送金に行ったので、一緒に行ってから一緒に我が宿舍に来て遊んで寝た。

2 月 20 日土曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた大山氏と軍政監部敵産課水田係の宮崎氏に精米工場の経営を交渉した。課長のところまで行って面会して話したら、産業部に問い合わせた上、何とか処分するという。

2 月 23 日(旧暦 1 月 19 日)火曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた正金銀行支店へ行って預金から 100 円を下ろした。大山氏と車でラングーンの大寺を見物した。夕食を買って食べて寝た。

2 月 24 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーンの臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた。大山氏と一緒に床屋へ行って顔剃りをした。また大山氏と昨日未明に撃墜された英国機の残骸を見物した。この英国機はラングーン市外から 10 キロ地点の水田広野に激突して爆破された重爆撃機で、とても大きかった。未発の爆弾も 5、6 個落ちていた。

2 月 25 日木曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた。臨時宿舍で宿泊している岡田、金和、大山など 3 人と記念撮影をした。大山氏とタボイ(Tavoy、現在の Dawei)まで旅行することを約束し、ビルマ人の乗合車でペグー(Pegu、現在の Bago)に着いた。慰安所文楽館の新井方で少し休んだ後、慰安所を経営する同郷人の金川氏を尋ねた。嬉しく会って話して遊び、夕食を食べて同氏の家で寝た。

2 月 28 日日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の桜倶楽部の金川氏の方で起きて朝飯を食べた。慰安所文楽館へ行って遊んでから夕食を食べて、文楽館の大原泰国氏の処で寝た。この文楽慰安所は私と一緒に来た朝鮮忠州の人・新井清次氏が経営している。

3 月 10 日水曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起きて朝飯を食べた。ラングーンの金沢君がマンダレーからの帰り道にペグーに立ち寄って私がいると思って尋ねてきた。終日遊んで夕食を食べて寝た。55 師団から金川氏の慰安所をマンダレー近くのイェウ(Ye-U)という所に移転しろという命令があり、今日、某所の部隊長が来て、行こうと言っていたが、慰安婦一同は絶対反対で、行けないとのこと

 

◆この経緯は、慰安婦に選択の自由があったのか、という点で注目されている箇所です。

 

3 月 11 日木曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起きて朝飯を食べた。ラングーンで製菓業をやっている福本君が来て一緒に遊んだ。終日遊んで夕食を食べて寝た。

3 月 12 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起き、朝飯を食べて終日遊び、夕食を食べて寝た。金川氏は今日、師団連絡所に呼ばれたが、帰ってきて言うには、16 日頃には移動先のイェウに向かって出発するという。

3 月 14 日日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、朝飯を食べた。金川氏は司令部の命令に逆らえず、慰安所をイェウに移すことになり、この 18 日には出発するという。終日遊び、夕食を食べて寝た。

3 月 15 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。福本君がビルマ映画を観に行こうというので、彼の製菓店に寄ってから一緒に映画館へ行った。ルマ式映画は、意味はよく分からないが、映像の出来栄えは良かった。福本君の接待で夕食を食べ、文楽館に行ってカラウから来た豊川氏に会って先日の手紙が伝達事情を聞いたり、遊んだりしてから金川氏の処に戻って寝た。

3 月 16 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起き、朝飯を食べて終日遊び、夕食を食べて寝た。金川氏は、師団の連絡所から今度はイェウ方面への移動をしばらく中止し、当分の間ペグーにそのまま残るように言われたという。昨年 3 月 5 日に釜山で手術を受けた腹部の傷口が化膿したようで、硬くてちくちくと痛み、再手術の心配がある

 

◆どのように思われますか? 自分は、この記述によると、自由な選択は出来なかったのかと思います。でも、同時に、いきなり移動命令もしていない。慰安所経営者は、慰安婦は嫌だと表明は出来たのですから。 個人的には、これは昭和の会社員の転勤命令と一緒ではないかと思っています。 ’次の異動で、○○に転勤してくれるね。’と上司に言われたら、いやですとは、なかなか言えなかった。でも、絶対に言えなかったか、と言われれば出来た。 相応の代償を払うことになりますが。 そう思う理由は、次に該当した箇所で指摘します。

 

3 月 19 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、朝飯を食べて一日中遊び、夕食を食べて寝た。アキャブの家内の弟と新井君の両人が慰安所のことで忙しく、困っていると思うと、一日も早く帰らなければと思うが、余りにも道が険しく遠いので、途中の苦労を考えると、それも大変でまだまだ思いだけだ。義理を考えると、行かないわけにはいかない。

 


3 月 22 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べ、終日遊び、夕食を食べて寝た。カロー近くのアンバン(Aungban)に向かう軍人に金井慰安所の烏川○子宛の手紙を託した。

3 月 26 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。金川氏の慰安所一同と記念撮影をした。また私一人の写真と、金川氏と金川栄周君の 3 人で撮影をした。夕暮れに文楽館へ行って遊び、そこで夕食を食べて金川氏の家に帰ってきて寝た。翌月の初めにはペグー市の慰安所、2~3 ヶ所が別の所に移動するいう。

3 月 28 日(旧暦、3 月 23 日)日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、慰安所の文楽館に行って朝飯を食べた。文楽館
の主人の新井氏と一福亭の主人の山本氏と 3 人で、午前 10 時半頃、ビルマ人の乗合車に乗
ってラングーンに行った。帰国のため、ラングーン市のカマヨ(Kamayut)に臨時滞在中の新井清次氏夫婦と大邱人の大原泰国氏を訪問し、同氏の処で夕食を食べて寝た。文楽館主人の新井氏と一福亭主人の山本氏は夜汽車でペグーに帰った。

3 月 29 日月曜日、晴天
朝、ラングーン市カマヨの大原泰国氏の処で起き、市内の白水慰安所に行って朝飯を食べた
後、ラングーン会館に行って大山虎一氏に会った。大山氏と、軍政監部の前に設置され、今
は休業中の食油製造工場(中国人の陳瑞信が所有)を引き受けて経できるよう、鑑定し、
大山氏の家に帰ってきて夕食を食べて大山氏と宿舎に戻って寝た。

3 月 30 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレー(Golden Valley、現在の Shwetaunggya)の宿舎で起き、プローム・ロード(Prome Road)503 にある陳瑞信のところへ行って食油製造工場の貸借の件について協議をした後、大山氏とラングーン会館に来て朝飯を食べた。大山氏の家で夕食を食べてから大山氏と宿舎に戻って寝た。

3 月 31 日水曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて朝飯を食べた。大山氏とプローム・ロードの陳瑞信の家に行ってから、カマヨにある大原泰国の処へ行ってしばらく遊び、陳瑞信の家にまた行き工場と家屋の賃借の件で契約をしようとしたが、明日に持ち越して大山氏の家に帰ってきて夕食を食べ、宿舎に戻って寝た。

4 月 1 日木曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて朝飯を食べた。プローム・ロードの陳瑞信の家に行って工場家屋を毎月 500 円で借りる賃貸借契約を結び、保証金として 1,000 円を支払った。大山氏と菊水料理店がどこにあるか探した後、大山氏の家に帰ってきて夕食を食べて宿舎に戻って寝た。今日から大山氏と食堂と製油工場を共同経営することを約束し、事業準備を進めることを決定した。

 

◆今日から精油工場の経営者ですね。


4 月 3 日土曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて、日本サービスに臨時宿泊している、昨年朝鮮から一
緒に来た一団の一人である大石氏と豊川に会って大山氏と支那人街に行って一丸荘食堂で朝
飯を食べた。アキャブの○桓君に手紙の返事と頼まれた物品を買って送るため、アキャブから来た軍人が来るというのでラングーン会館で待っていたが、結局来なかったので、軍人の広沢氏の宿舎に行って託し、ラングーン会館に戻ってきて夕食を食べた後、宿舎に帰ってきて遊んだ。製油工場を大山、豊川、大石と私の四人で共同経営することを今日再び約束をし、進行中だ。

4 月 4 日日曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏と支那街およびスレー・パゴダ(Sule Pagoda)街を通った。大山氏の経営していた青鳥食堂も大修理をしなければならないようだ。ラングーン会館で朝飯を食べた。午後 3 時にメニゴン(May Ni Gone)でビルマ人のバスに乗ってペグーに到着し、桜倶楽部の金川氏の処へ来て、夕食を食べて寝た。

 


4 月 5 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市桜倶楽部の金川氏のところで起きて朝飯を食べた。桜倶楽部の慰安婦
の○子は腹部の苦痛が大きく、午後に開腹手術するという。○子は昨年、マンダレーにいた
時も盲腹炎で手術をしたが、今回またも手術を受ける不幸の身の持ち主だ。
夕食を食べて文
楽館に遊びに行ったら、ラングーンから大原氏が来ていたので、一緒に夜 12 時頃まで遊び、
桜倶楽部に帰ってきて寝た。

4 月 6 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市桜倶楽部の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。文楽館に行って遊び、
夕食を食べて桜倶楽部の金川氏の処に戻って寝た。先日にラングーンでビルマ新聞を見たら、東京市を東京都に名称を改正したという。

4 月 9 日金曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きてプローム・ロード工場に行って朝飯を食べ、大山氏とラングーン会館に行って大山氏が経営していた青鳥食堂の家主であるインド人の処へ行って家屋の再修理をするように付託した。工場へ行って夕食を食べ、大山氏とゴールデンバレー宿舎に戻って寝た。

4 月 12 日月曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と彼の家に行ってから市内の彼
の食堂へ行って大工を請じて修理することにし、明日から働くことにした。食堂から大山氏の家に行って朝飯を食べて、大山氏と軍政部へ行って電気工業許可願を提出した。大山氏宅で夕食を食べ、平沼洋服屋に行って洋服を直した後、工場にしばらく寄ってから宿舎に帰ってきて寝た。

 

◆やっぱり、進出した地域では、軍政部が役所の役割も果たしています。業務は多岐にわたりますね。


4 月 13 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏と青鳥食堂に行ってから、ラングーン会館に戻り、朝飯を食べて遊んでから、夕食を食べて宿舎に戻って寝た。ビルマ人は今日から 16 日まで水祭り を行なうが、街で通り掛かりの人に水をかける慣習がある。誰に水をかけても抗議もせず、笑って通り過ぎる。

4 月 15 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏と青鳥食堂を修理するところに行って、使用人のビルマ人ソーリンを連れて電気商のインド人のところに行ってからラングーン会館に戻り、朝飯を食べた。大山氏とまた電気器具商人の家に行った。ラングーン会館で遊び、夕食を食べて宿舎に帰ってきて寝た。ペグーの慰安所の乙女亭、文楽館、将校倶楽部など 3、4 軒の慰安所は今般アキャブ地方に移され、今日乙女亭の松本氏がラングーンに来て、帰り道に会った。桜倶楽部の金川氏はペグーにいることになったという。

 

◆慰安所は移動しますね。


4 月 16 日金曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて豊川のところへ行って朝飯を食べた。カマヨ電気器具商を探したが見つからず、帰り道に三益食堂でペグー文楽館の主人夫婦に会った。アキャブに移されることになり、そちらに向かっている途中だという。大山氏宅で夕食を食べて宿舎に戻って寝た。ラングーン市内各処にペスト病が発生し、兵丁は一人も外出できない。

4 月 19 日月曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と青鳥食堂に少し寄ってからラングーン会館
に来て朝飯を食べた。大山氏はカマヨで先日契約した製油工場の解約のために行ってから夕
方に戻ってきたが、1 ヶ月分の家賃 500 円を支払って解約し、契約金のうち 500 円を返し
てもらった
という。夕食を食べて大山氏と宿舎で寝た。

 

◆精油工場の経営の話は、うまくいかなかったようですね、


4 月 20 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏とラングーン会館で朝飯を食べた。
朝鮮から一緒に来た慰安所経営者の内薗氏がラングーン会館に来た。内薗氏の案内で東洋韓食堂で夕食の接待を受け、内薗とゴールデンバレーの宿舎に戻って寝た。内薗氏はラングー
ンからマールメンに移されて営業中だという。

4 月 22 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏とラングーン会館で朝飯を食べた。大山氏と豊
川誠三の処へ行って大山氏が経営中の青鳥食堂の経営権と器具一切を代金 6,500 円で豊川
氏に売り渡した
。軍政監部警察課に行って帰国許可の件について問い合わせをした。大石、
豊川、三田、大山などと菊水料理店に夕食を食べに行ったが、軍人・軍属以外は出入り禁止
だということで、支那街に行って夕食を兼ねて料理を食べた。

4 月 24 日土曜日、晴天
朝、ラングーン市のゴールデンバレー宿舎で起き、大山氏とラングーン会館に来て朝飯を食
べた。今回プローム方面に行ってきた文野・広田の両氏が言うにはアキャブ方面で慰安所
の主人が女子二人を連れて出てきたが、途中で遭難にあって主人と女子一人は死んで、残り
一人は重傷を負ったという。或いは家内の弟の○本氏ではないか
配だ。兵站病院医務室の
軍医の診断を受けたが、診断書は次回発行するという。カロー・アウンバンにいる金井氏が、
今般用務があってラングーンに来たので、一緒にラングーン会館で夕食を食べて宿舎に戻り、
一緒に寝た。

4 月 26 日月曜日、晴天
機関車の故障のため、駅に着いて 30 分余り遅滞し、結局プロームに電話をして他の機関車
が来たので運転して行ったが、朝 10 時頃にプローム駅に到着するはずだったのに、午後 6
時頃に着いた。慰安所の東亜官と蓬莱亭を尋ねて家内の弟の消息の大略を聞いて、蓬莱館主
人の野沢氏と病院に行って家内の弟と一緒に行ってきた傷痍軍人に聞いたところ
、確実なことが分かってきた。しかも○桓君と女子 2 人を合わせて 4 人だ。胸が詰まる感じでどうしようもない。午後 9 時 10 分発の列車でプロームを出発。

4 月 27 日火曜日、晴天
今日も朝 10 時頃に到着するはずの列車が、途中の故障で午後 1 時頃に着いた。心が痛く、
胸が張り裂けそうなのに、車まで遅延するものだから死にそうだ。これをどうしたら良いか。
故郷の家族に何の面目があって対面できるか。一緒に死ねずに生きているのが間違いだ。こ
の不幸な消息を父母妻子が聞いたら、死にたいと思うはず。しかも○桓君は 24 歳の前途洋々
の青年なのだ。


4 月 28 日水曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、ボーイに朝飯を作らせて食べた。終日どこにも出かけず、家内の弟の不幸な運命をかこって嘆息した。数万里の他国で激浪と戦いながら、ビルマまで来て無事過ごしていたが、帰国の途中に遭った不幸、実に胸が痛む。私一人で故郷に帰ることを考えると全くあまりのことにあきれてしまう

4 月 30 日金曜日、晴後夕曇
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と昨日ビルマ人のモソインと見
た住宅を視察し、また良い住宅がないかとビクトリア湖畔にある兵站管理の一家屋を見て、
平沼洋服屋に寄ってからラングーン会館に来て朝飯を食べた。ゴールデンバレーの宿舎で戻
り、夕食を食べて寝た。

5 月 1 日土曜日、晴後少雷雨
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、軍司令部の矢野少佐副官と面会して家内
の弟一行の遭難の件について話した
ら、山添准尉副官に相談しろというので、山添副官に話
したところ、タンガップまで行って状況を詳しく調べてきてくれるということだ。行ってくることにして、ラングーン駅を 20 時発の列車で出発した。

5 月 2 日日曜日、晴天
午前 12 時頃プローム駅に着いて、蓬莱亭の野沢氏の処に行って朝飯兼昼飯を食べた。渡河
地点にまで出てタンガップ行きの軍部自動車の便乗を頼んでおいて、河を渡って、20 時頃に
パダン(Padung)を出発し、曲がりくねったアラカン険路を夜間運行で通る。1 月に一度通
った後、二度とここは通らないと決めていたが、今般の不幸な出来事でまたも来てしまった

5 月 3 日月曜日、晴天
自動車の故障で夜 5 時頃から開明時まで車の中で横になっていて、再び運行した。12 時頃
にタンガップに無事到着し、まず患者療養所を尋ねて張○岳に会って悲しみを禁じえない事
情を話した。
遭難の事情もよく分かった。家内の弟と○桓君、女児の○○、金○梅の 4 人は
不帰の客
となったという。アキャブ司令部からアキャブ方面に赴任して行く山口中尉に、家
内の弟の遭難のことを調べろという電報が、彼自身に届いたという。療養所に来たので遭難
の事情を話して、悲しい怨情と遺骨その他処理の件について涙ながらに嘆願した。一日も早
く出発の支度をし、自動車輸送部に便乗許可を得て、張○岳を連れて、またもアラカン山道
を越えてくねくねと曲がった道を通り抜けてパトンに向かった。この道が余りにも切なく、
胸いっぱいの悲哀がアラカン山の雄大な姿に重なり、千秋が過ぎても消えることはないだろ
う。

 

◆移動してきていたのは、日記オーナーの家内の弟と慰安所で全般業務をしていた〇垣君、女児の〇〇、慰安婦の張〇岳さん、金〇梅さんの5名で、張〇岳さんだけが助かった、という事のようですね。

 


5 月 4 日火曜日、晴天
一晩中走った部隊の車は貨物車にもかかわらず、山道をよくも走って無事パトンに着いた。
イラワジ川(Irawaddy River)を渡ってプロームにある蓬莱亭の野沢氏宅に入った。負傷者
をプロームで軍医に頼んで入院治療をするように、ビルマ人の看護婦一人をつけて
、蓬莱亭
で夕食を食べた後、21 時発の車でラングーンに向かった。アラカン山路を心配していたが
神の助けか、無事に往復した。


5 月 6 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、軍司令部副官室の山添准尉のところに行って今回の家
内の弟一行 4 名の不幸な出来事に対して、タンガップまで行ってきた事実を告げた。ラング
ーン会館で朝飯を食べて一日中遊び、夕食を食べてゴールデンバレーの宿舎に戻って寝た。

 

5 月 10 日  朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて山本、新井の両氏の処に行って遊んだ。右両氏の家で夕食を食べて遊び、夜 1 時頃に金川氏宅に戻って寝た。ペグーの金川氏のところに向かった。山本代雄氏と中宗の両氏は大福餅業を開始していた.。

 

5 月 11 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて新井、山本の両氏の処へ行っ
て遊び、夕食を食べた後、少し遊んでから金川氏の家に帰ってきて寝た。プロームで治療を
受けている張○岳(○子)の簡単服を新井、山本の両氏婦人に依頼し、作ってもらうことに
した。

5 月 13 日木曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて終日遊んだ。ペグー県知事(ビ
ルマ人)は今般来日の途に就く
ことになり、今日夕方に送別宴会を開催したという。金川氏
宅で夕食を食べて寝た。

5 月 14 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起きて朝飯を食べた。新井、山本、中宗の三氏は、
一昨日ラングーンに行って今日帰ってきた。山本、新井の両氏の処へ行って遊び、中宗氏と
ペグー郊外を散歩し、帰ってきて夕食を食べた。夜 12 時頃まで遊び、金川氏の処に戻って
寝た。張○岳の簡単服を山本氏の奥さんから貰い受けておいた。また女子内衣 4 枚をくれたので、貰ってきた。

5 月 18 日火曜日、晴天
プローム行きの列車の中で夜を過ごし、10 時頃にプロームに着いた。蓬莱亭の野沢氏のとこ
ろに行って治療を頼んでいた張○岳に会った。その間よく治療を受けてかなり治っていた。
治療をしてくれた軍医に感謝の挨拶をして、食事とその他世話になったことについて野沢氏
に感謝のお礼をした。野沢氏の家で夕食を食べ、張○岳を連れてプローム駅発の 21 時半の
列車でラングーンに向かった。

 

◆張〇岳さんは、ここまでで治療1か月ですね。 まだ、完治ではありませんが。

5 月 20 日木曜日、晴後少雨
朝、インセンの一富士楼の村山氏の家で起きて朝飯を食べた。軍司令部副官部の山添准尉の
処へ行った。まだ、アキャブから司令部へ、家内の弟の遭難の件の報告がないという。三益
商会の小山氏の処で新井、中宗、光山の三氏と遊んだ。小同人の家で夕食を食べて遊んで寝
た。

5 月 21 日金曜日、晴後曇雷雨
朝、ラングーン市プローム・ロードにある三益商会の小山氏の家で起き、朝飯を食べた。イ
ンセンの一富士楼の村山氏宅に来て遊び、ラングーン発午後 6 時のビルマ人の自動車に乗っ
て、新井、中宗、張○岳と一緒にペグーに向かった。自動車が途中で故障し、5 時間も待た
されて、やっと修理をしてきたが、ペグーに着いたら夜 1 時半頃だった。新井、山本氏宅で
ご飯を作って食べて寝た。

5 月 26 日水曜日、曇少雨天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。新井、山本の両氏夫婦と張○岳
を連れてラングーン市外のインセンに来て、一富士楼の村山氏の処で夕食を食べて寝た

5 月 28 日金曜日、雨曇天
朝、ビルマのラングーン市内の白水慰安所の大原君の処で起きて朝飯を食べた。大原夫婦と
インセンに来たが、大原君は張○岳に慰問の挨拶をした後、ラングーンに戻った。インセン
の村山氏宅で夕食を食べて遊んで寝た。

5 月 30 日日曜日、曇後少雨
朝、ビルマのラングーン市にある白水の大原君の処で起き、朝飯を食べるの食べないのして、
張○岳を連れてインセンの村山氏宅に来た。午後 4 時頃、張○岳はペグーに向かって一人で
出発した。当分の間、○岳はペグーの金川氏宅に滞在
することにした。村山氏宅で夕食を食
べて寝た。


6 月 8 日火曜日、曇晴雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。村山氏の長男の村
山浩二君と野戦郵便局に寄ってから、正金銀行に行って村山氏の貯金をした
。航空司令部に
行って送金に必要な証明書を貰い、午後 7 時頃、美松食堂に行って夕食を食べ、インセンに
帰ってきた。夜 1 時頃まで村山氏の慰安所で仕事をして、宿舎で寝た。シンガポールの大山
氏から電報が届いた。

6 月 9 日水曜日、晴曇雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。村山氏の長男の浩
二君とラングーン市内に行き、軍司令部副官部の山添准尉の処へ行ってから、野戦郵便隊に
行って村山氏の送金をした後、私の貯金をした。
支那街に寄って帰路、原田歯科で治療を受
けてインセンに帰ってきた。シンガポールの大山氏に返電を打った

6 月 11 日
朝、ビルマのラングーン市外のインセンの宿舎で起き、朝飯を食べた。ペグーに行った張○
岳が来て、金川氏からの手紙を持ってきたので読んだら、じきに来るか、○岳の帰りに返事
をしてほしいという、張○岳の委託に対することだ。アキャブから来た憲兵が来たので、家
内の弟の遭難事件と我が慰安所のことを話して、小○子に送る手紙を託した。張○岳とペグ
ーに行こうと思ったが、時間が遅くて行けず、明日午前中に行くことにした。

 

6 月 16 日水

大原正吉君が来て、山本代雄氏に会ったといい、昨年貸し付けたお金を取りに行こうというので、山本氏の処に行ってその間の事情を話し、400 円を返してもらって、インセンに帰ってきた。山本氏は今般帰国るという。

6 月 17 日木曜日     

村山氏の慰安所である一富士楼には今般、松月館の慰安婦が三名来て営業をすることになった。


6 月 19 日土曜日、曇雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。今般タボイからラ
ングーンに来て、地方人慰安所 を経営する三田氏がインセンの私のいるところに来て、遊
んで寝て行った。村山氏宅で夕食を食べ、夜 1 時頃に宿舎で寝た。

 

*現地の方を中心とした慰安所があったことが分かります。


6 月 20 日日曜日、曇少雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べて、終日村山氏の慰安
所で帳場の仕事をした。村山氏宅で夕食を食べ、夜 2 時頃に寝た。光山寛治氏は今回の慰安
婦の再編成で、婦人を連れて帰国するという。


6 月 23 日水曜日、曇雨天
朝、インセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。終日村山氏の慰安所で帳場の仕事を
し、夜 1 時頃に宿舎で寝た。

6 月 25 日金曜日、晴曇天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。村山氏の慰安所で
終日帳場の仕事をした。夕方にラシオ(Lashio)で慰安所を経営する大石氏が小山氏と一緒
に来て遊び、小山氏は帰り、大石氏は泊まった。大石氏も今般慰安婦募集のために帰国する
という。

 

◆慰安所の経営者が、慰安婦募集に帰国するんですね。 斡旋事業者(女げん)との役割分担も様々、という事でしょうか?


6 月 28 日月曜日、晴曇夜雨
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。ペグーの桜倶楽部
の金川氏が来て、遊んだりおしゃべりしたりして宿舎で一緒に寝たアキャブの我が慰安所
の慰安婦の○子がアキャブで食堂をやっている葦原氏と一緒に来た
連隊の移動と共に葦原も移動し、タウンジー(Taunggyi)で経営するという。アキャブに対する消息を葦原氏から詳しく聴いた。慰安所の女子達も部隊と共に 1、2 ヶ月後に出るようだ。