この投稿は、妾をもつほどに裕福な生活をしていた朝鮮人の男性が、ある時、知り合いに貸した4,000円もの大金(一般労働者の10年分の給与以上)が返ってこないことになり、1942年末に、朝鮮からビルマへの慰安婦団と一緒に渡海し、慰安所の経理・総務責任者として働くことになった男性が書いた日記からの抜粋です。
日本では、「慰安所 帳場管理人の日記」 という名前で紹介されることが多いですが、そもそもは、2000年初頭に、街の古物商で売られていたものをソウル近郊の博物館が発見し、中に慰安婦に関する記述があると思われた為、ソウル大学名誉教授の安(アン)・ピョン
(そう、韓国人は、戦前、戦中に使われていた旧字体のハングル文字は、最早、読めないのです。)
日記は30年間、毎日欠かさずに書かれていますが、以下は、公開されている1943年、1944年の中から、慰安婦に関する箇所、当時の世情の理解するのに役に立つと思う箇所のみを抜粋しています。
尚、日記には多くの人物が登場します。日本人の名前に見えますが、実際は、安教授らによって朝鮮人であることが特定されています。(正しくは、朝鮮人ではなく、日本人である半島人、と表現するべきでしょうが。)
◆は、ブログの管理者(自分)のコメントです。
1943年 (昭和 18 年) 1 月 1 日
大東亜聖戦、2 度目の昭和 18(1943)年の新春を迎え、1 億の民草は伏してどうか陛下のご健康であられますことと皇室の末永きご繁栄をお祝い申し上げる
◆最初から驚きます。これを書いているのは朝鮮人です。当時は日本人として生きていたことがよく分かります。
1 月 2 日土曜日、晴天、19/22
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた
1 月 4 日月曜日、晴天、19/21
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた
1 月 5 日火曜日、晴天、19/21
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて
夜 2 時過ぎに寝た
◆こんな感じで淡々と日記がかかれていきますが、以下は、該当する箇所のみ抜粋していく。
1 月 7 日木曜日、晴天、
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて
◆今後も次々に慰安所が登場しますが、各慰安所には、それぞれきちんとお店の名前がついていました。 さて、日記に本当に”慰安所”と書いてあったのか、どういう言葉だったのかは、分かりません。
1 月 9 日土曜日、晴天、20.70/22.00
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて
1 月 10 日日曜日、晴天、20.70/23.00
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて
1 月 12 日火曜日、晴天、19.5/23.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた
1 月 13 日水曜日、晴天、20.0/23.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起きて朝飯を食べた
1 月 16 日土曜日、晴天、21.0
朝、ビルマのアキャブ市慰安所の勘八倶楽部で起き、朝飯を食べて
◆4,000円でも大金なのに、32,000円の大金です。
1 月 18 日月曜日、晴天
朝、8 時半頃、私が乗っていた大発船はタンガップ埠頭に到着した。すぐ
1 月 19 日火曜日、晴天
朝、ビルマのタンガップで起き、朝飯を食べて、終日中村正之助上
1 月 21 日木曜日、晴天
朝、ビルマのタンガップの火村小隊で起き、朝飯を食べて同隊の自
1 月 23 日土曜日、晴天
朝、ビルマプローム市のチンロン家で起き、朝飯を食べてプローム
1 月 24 日日曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のビルマ人であるモンタン家で起きて野
銀行で許可用紙を得て申し込めばいいという。モンタンに行ってト
1 月 27 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起きて朝飯を食べた
1 月 28 日木曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起き、朝飯を食べて
1 月 29 日金曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のラングーン会館で起きて朝飯を食べた
1 月 30 日土曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起き
2 月 1 日月曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起き
◆この時は、まだ慰安所の帳場で働くということは決めておらず、現地の朝鮮人のネットワークを使って、色々な事業を検討しています。"入国”という概念があって、書類手続きをしないといけない。当時の軍の後方は、事務手続きを主とするお役所の世界です。
2 月 2 日火曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起き
2 月 3 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市ゴッドウィン路のラングーン会館で起き
2 月 10 日水曜日、晴天
朝、起きて金和氏と一緒に市場に出て朝飯を買って食べた。軍政監
2 月 20 日土曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた
2 月 23 日(旧暦 1 月 19 日)火曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた
2 月 24 日水曜日、晴天
朝、ビルマのラングーンの臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた。
2 月 25 日木曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市の臨時宿舍で起きて朝飯を買って食べた
2 月 28 日日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の桜倶楽部の金川氏の方で起きて朝飯を食べ
3 月 10 日水曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起きて朝飯を食べた。ラングー
◆この経緯は、慰安婦に選択の自由があったのか、という点で注目されている箇所です。
3 月 11 日木曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起きて朝飯を食べた。ラングー
3 月 12 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起き、朝飯を食べて終日遊び、
3 月 14 日日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、朝飯を食べた。金川氏
3 月 15 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。福本君
3 月 16 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏宅で起き、朝飯を食べて終日遊び、
◆どのように思われますか? 自分は、この記述によると、自由な選択は出来なかったのかと思います。でも、同時に、いきなり移動命令もしていない。慰安所経営者は、慰安婦は嫌だと表明は出来たのですから。 個人的には、これは昭和の会社員の転勤命令と一緒ではないかと思っています。 ’次の異動で、○○に転勤してくれるね。’と上司に言われたら、いやですとは、なかなか言えなかった。でも、絶対に言えなかったか、と言われれば出来た。 相応の代償を払うことになりますが。 そう思う理由は、次に該当した箇所で指摘します。
3 月 19 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、朝飯を食べて一日中遊
3 月 22 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べ、終日遊び
3 月 26 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。金川氏
3 月 28 日(旧暦、3 月 23 日)日曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起き、慰安所の文楽館に行っ
の主人の新井氏と一福亭の主人の山本氏と 3 人で、午前 10 時半頃、ビルマ人の乗合車に乗
ってラングーンに行った。帰国のため、ラングーン市のカマヨ(K
3 月 29 日月曜日、晴天
朝、ラングーン市カマヨの大原泰国氏の処で起き、市内の白水慰安
後、ラングーン会館に行って大山虎一氏に会った。大山氏と、軍政
は休業中の食油製造工場(中国人の陳瑞信が所有)を引き受けて経
大山氏の家に帰ってきて夕食を食べて大山氏と宿舎に戻って寝た。
3 月 30 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレー(Golden Valley、現在の Shwetaunggya)の宿舎で起き、プローム・ロード(Prome Road)503 にある陳瑞信のところへ行って食油製造工場の貸借の件について協議をした後、大山氏とラングーン会館に来て朝
3 月 31 日水曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて朝飯を食べた。
4 月 1 日木曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて朝飯を食べた。
◆今日から精油工場の経営者ですね。
4 月 3 日土曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて、日本サービスに臨時宿泊し
緒に来た一団の一人である大石氏と豊川に会って大山氏と支那人街
飯を食べた。アキャブの○桓君に手紙の返事と頼まれた物品を買っ
4 月 4 日日曜日、晴天
朝、ビルマのラングーン市のゴールデンバレーの宿舎で起き、大山
4 月 5 日月曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市桜倶楽部の金川氏のところで起きて朝飯を食
の○子は腹部の苦痛が大きく、午後に開腹手術するという。○子は
時も盲腹炎で手術をしたが、今回またも手術を受ける不幸の身の持
楽館に遊びに行ったら、ラングーンから大原氏が来ていたので、一
桜倶楽部に帰ってきて寝た。
4 月 6 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市桜倶楽部の金川氏の処で起きて朝飯を食べた
夕食を食べて桜倶楽部の金川氏の処に戻って寝た。先日にラングー
4 月 9 日金曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きてプローム・ロー
4 月 12 日月曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と彼の
の食堂へ行って大工を請じて修理することにし、明日から働くこと
◆やっぱり、進出した地域では、軍政部が役所の役割も果たしています。業務は多岐にわたりますね。
4 月 13 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏と青鳥食
4 月 15 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏と青鳥食堂を修理する
◆慰安所は移動しますね。
4 月 16 日金曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて豊川のところへ行って朝飯を
4 月 19 日月曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と青鳥食堂に少し寄
に来て朝飯を食べた。大山氏はカマヨで先日契約した製油工場の解
方に戻ってきたが、1 ヶ月分の家賃 500 円を支払って解約し、契約金のうち 500 円を返し
てもらった
◆精油工場の経営の話は、うまくいかなかったようですね、
4 月 20 日火曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏とラング
朝鮮から一緒に来た慰安所経営者の内薗氏がラングーン会館に来た
ンからマールメンに移されて営業中だという。
4 月 22 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、大山氏とラングーン会館で朝
川誠三の処へ行って大山氏が経営中の青鳥食堂の経営権と器具一切
氏に売り渡した
豊川、三田、大山などと菊水料理店に夕食を食べに行ったが、軍人
だということで、支那街に行って夕食を兼ねて料理を食べた。
4 月 24 日土曜日、晴天
朝、ラングーン市のゴールデンバレー宿舎で起き、大山氏とラング
べた。今回プローム方面に行ってきた文野・広田の両氏が言うには
の主人が女子二人を連れて出てきたが、途中で遭難にあって主人と
一人は重傷を負ったという。或いは家内の弟の○本氏ではないか
軍医の診断を受けたが、診断書は次回発行するという。カロー・ア
今般用務があってラングーンに来たので、一緒にラングーン会館で
一緒に寝た。
4 月 26 日月曜日、晴天
機関車の故障のため、駅に着いて 30 分余り遅滞し、結局プロームに電話をして他の機関車
が来たので運転して行ったが、朝 10 時頃にプローム駅に到着するはずだったのに、午後 6
時頃に着いた。慰安所の東亜官と蓬莱亭を尋ねて家内の弟の消息の
人の野沢氏と病院に行って家内の弟と一緒に行ってきた傷痍軍人に
4 月 27 日火曜日、晴天
今日も朝 10 時頃に到着するはずの列車が、途中の故障で午後 1 時頃に着いた。心が痛く、
胸が張り裂けそうなのに、車まで遅延するものだから死にそうだ。
故郷の家族に何の面目があって対面できるか。一緒に死ねずに生き
の不幸な消息を父母妻子が聞いたら、死にたいと思うはず。しかも
の青年なのだ。
4 月 28 日水曜日、晴天
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、ボーイに朝飯を
4 月 30 日金曜日、晴後夕曇
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起きて、大山氏と昨日
た住宅を視察し、また良い住宅がないかとビクトリア湖畔にある兵
平沼洋服屋に寄ってからラングーン会館に来て朝飯を食べた。ゴー
り、夕食を食べて寝た。
5 月 1 日土曜日、晴後少雷雨
朝、ラングーン市ゴールデンバレーの宿舎で起き、軍司令部の矢野
の弟一行の遭難の件について話した
したところ、タンガップまで行って状況を詳しく調べてきてくれる
5 月 2 日日曜日、晴天
午前 12 時頃プローム駅に着いて、蓬莱亭の野沢氏の処に行って朝飯兼昼飯
地点にまで出てタンガップ行きの軍部自動車の便乗を頼んでおいて
パダン(Padung)を出発し、曲がりくねったアラカン険路を
った後、二度とここは通らないと決めていたが、今般の不幸な出来
5 月 3 日月曜日、晴天
自動車の故障で夜 5 時頃から開明時まで車の中で横になっていて、再び運行した。12 時頃
にタンガップに無事到着し、まず患者療養所を尋ねて張○岳に会っ
情を話した。
不帰の客
内の弟の遭難のことを調べろという電報が、彼自身に届いたという
の事情を話して、悲しい怨情と遺骨その他処理の件について涙なが
く出発の支度をし、自動車輸送部に便乗許可を得て、張○岳を連れ
を越えてくねくねと曲がった道を通り抜けてパトンに向かった。こ
胸いっぱいの悲哀がアラカン山の雄大な姿に重なり、千秋が過ぎて
う。
◆移動してきていたのは、日記オーナーの家内の弟と慰安所で全般業務をしていた〇垣君、女児の〇〇、慰安婦の張〇岳さん、金〇梅さんの5名で、張〇岳さんだけが助かった、という事のようですね。
5 月 4 日火曜日、晴天
一晩中走った部隊の車は貨物車にもかかわらず、山道をよくも走っ
イラワジ川(Irawaddy River)を渡ってプロームにある蓬莱亭の野沢氏宅に入った。
をプロームで軍医に頼んで入院治療をするように、ビルマ人の看護
で夕食を食べた後、21 時発の車でラングーンに向かった。アラカン山路を心配していたが
神の助けか、無事に往復した。
5 月 6 日木曜日、晴天
朝、ゴールデンバレーの宿舎で起き、軍司令部副官室の山添准尉の
内の弟一行 4 名の不幸な出来事に対して、タンガップまで行ってきた事実を告げ
ーン会館で朝飯を食べて一日中遊び、夕食を食べてゴールデンバレ
5 月 10 日 朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて山本、新井の両氏の処に行って遊んだ。右両氏の家で夕食を食べて遊び、夜 1 時頃に金川氏宅に戻って寝た。ペグーの金川氏のところに向かった。山本代雄氏と中宗の両氏は大
5 月 11 日火曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて新井
て遊び、夕食を食べた後、少し遊んでから金川氏の家に帰ってきて
受けている張○岳(○子)の簡単服を新井、山本の両氏婦人に依頼
した。
5 月 13 日木曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起き、朝飯を食べて終日
ルマ人)は今般来日の途に就くことになり、今日夕方に送別宴会を
宅で夕食を食べて寝た。
5 月 14 日金曜日、晴天
朝、ビルマのペグー市の金川氏のところで起きて朝飯を食べた。新
一昨日ラングーンに行って今日帰ってきた。山本、新井の両氏の処
ペグー郊外を散歩し、帰ってきて夕食を食べた。夜 12 時頃まで遊び、金川氏の処に戻って
寝た。張○岳の簡単服を山本氏の奥さんから貰い受けておいた。ま
5 月 18 日火曜日、晴天
プローム行きの列車の中で夜を過ごし、10 時頃にプロームに着いた。蓬莱亭の野沢氏のとこ
ろに行って治療を頼んでいた張○岳に会った。その間よく治療を受
治療をしてくれた軍医に感謝の挨拶をして、食事とその他世話にな
に感謝のお礼をした。野沢氏の家で夕食を食べ、張○岳を連れてプ
列車でラングーンに向かった。
◆張〇岳さんは、ここまでで治療1か月ですね。 まだ、完治ではありませんが。
5 月 20 日木曜日、晴後少雨
朝、インセンの一富士楼の村山氏の家で起きて朝飯を食べた。軍司
処へ行った。まだ、アキャブから司令部へ、家内の弟の遭難の件の
商会の小山氏の処で新井、中宗、光山の三氏と遊んだ。小同人の家
た。
5 月 21 日金曜日、晴後曇雷雨
朝、ラングーン市プローム・ロードにある三益商会の小山氏の家で
ンセンの一富士楼の村山氏宅に来て遊び、ラングーン発午後 6 時のビルマ人の自動車に乗っ
て、新井、中宗、張○岳と一緒にペグーに向かった。自動車が途中
されて、やっと修理をしてきたが、ペグーに着いたら夜 1 時半頃だった。新井、山本氏宅で
ご飯を作って食べて寝た。
5 月 26 日水曜日、曇少雨天
朝、ビルマのペグー市の金川氏の処で起きて朝飯を食べた。新井、
を連れてラングーン市外のインセンに来て、一富士楼の村山氏の処
5 月 28 日金曜日、雨曇天
朝、ビルマのラングーン市内の白水慰安所の大原君の処で起きて朝
インセンに来たが、大原君は張○岳に慰問の挨拶をした後、ラング
の村山氏宅で夕食を食べて遊んで寝た。
5 月 30 日日曜日、曇後少雨
朝、ビルマのラングーン市にある白水の大原君の処で起き、朝飯を
張○岳を連れてインセンの村山氏宅に来た。午後 4 時頃、張○岳はペグーに向かって一人で
出発した。当分の間、○岳はペグーの金川氏宅に滞在することにし
べて寝た。
6 月 8 日火曜日、曇晴雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
山浩二君と野戦郵便局に寄ってから、正金銀行に行って村山氏の貯
行って送金に必要な証明書を貰い、午後 7 時頃、美松食堂に行って夕食を食べ、インセンに
帰ってきた。夜 1 時頃まで村山氏の慰安所で仕事をして、宿舎で寝た。シンガポール
氏から電報が届いた。
6 月 9 日水曜日、晴曇雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
二君とラングーン市内に行き、軍司令部副官部の山添准尉の処へ行
行って村山氏の送金をした後、私の貯金をした。支那街に寄って帰
けてインセンに帰ってきた。シンガポールの大山氏に返電を打った
6 月 11 日
朝、ビルマのラングーン市外のインセンの宿舎で起き、朝飯を食べ
岳が来て、金川氏からの手紙を持ってきたので読んだら、じきに来
をしてほしいという、張○岳の委託に対することだ。アキャブから
内の弟の遭難事件と我が慰安所のことを話して、小○子に送る手紙
ーに行こうと思ったが、時間が遅くて行けず、明日午前中に行くこ
6 月 16 日水
大原正吉君が来て、山本代雄氏に会ったといい、昨年貸し付けた
6 月 17 日木曜日
村山氏の慰安所である一富士楼には今般、松月館の慰安婦が三名
6 月 19 日土曜日、曇雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
ングーンに来て、地方人慰安所 を経営する三田氏がインセンの私のいるところに来て、遊
んで寝て行った。村山氏宅で夕食を食べ、夜 1 時頃に宿舎で寝た。
*現地の方を中心とした慰安所があったことが分かります。
6 月 20 日日曜日、曇少雨天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
所で帳場の仕事をした。村山氏宅で夕食を食べ、夜 2 時頃に寝た。光山寛治氏は今回の慰安
婦の再編成で、婦人を連れて帰国するという。
6 月 23 日水曜日、曇雨天
朝、インセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食べた。終日村山氏
し、夜 1 時頃に宿舎で寝た。
6 月 25 日金曜日、晴曇天
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
終日帳場の仕事をした。夕方にラシオ(Lashio)で慰安所を
に来て遊び、小山氏は帰り、大石氏は泊まった。大石氏も今般慰安
という。
◆慰安所の経営者が、慰安婦募集に帰国するんですね。 斡旋事業者(女げん)との役割分担も様々、という事でしょうか?
6 月 28 日月曜日、晴曇夜雨
朝、ラングーン市外のインセンの宿舎で起き、村山氏宅で朝飯を食
の金川氏が来て、遊んだりおしゃべりしたりして宿舎で一緒に寝た
の慰安婦の○子がアキャブで食堂をやっている葦原氏と一緒に来た
