人に何か気にさわることを言われることもある

「これはダメ」
「それは違うと思う」
「やらなくていいです」
などなど
ちょっとした言葉でも
言われたらショックってことあるよね

なんであの人は私にあんなこと言ってくるの?
何様のつもり?
ありえない、とか
「なんでよ?」って気持ちになる

よくあるよ、私も

まずはそう思っちゃう自分に気づいて
嫌な気持ちでい続けるのは止めたほうがいいらしい


人を変えることはできないし、
そういう言葉を吐いた人のために嫌なことを思う時間ももったいないし
(言った本人は気づいてないだろうしね)


もっと別次元にワープして
やるべきことに力を注ぎたいものだ

今日をどういうふうに
楽しく過ごそうか?
ってウキウキするもよし
ゴールや目的はそもそもどこだったのかって立ち返るのもよし

すぐにはできなくても
ちょっとずつさ
この社会、
もっと生きやすくならないかな

いま生きにくさを感じているなら、それは間違っていないのかも

いや、間違っているとかいないとかじゃなく、
何か自分の中に
何か感じるところがあって
それを無視することもできるけど
やっぱり感じたいということなのかも知れない
いま「怒らないこと2」(アルボムッレ・スマナサーラ著 サンガ)という本を読んでいます。

そこには「自我」、いわゆる「自分」とは幻想であって
自我というものは無いんだよと書かれています。

これはとっても新しい。
そしてびっくり。

じゃあこの自分ってなんなわけ?と思っちゃいますよね。
例えば足が痛い時、
私は足が痛い、ではなく
足に痛みがある、であり、そこに「私」はいない。
でも私たちは、「私」がいるという大前提で生きてるし、、と思うんですが、

私たちには、感覚(視覚とか聴覚)があるだけであって、それに対してその都度反応しているだけ。
便宜上、私という概念を作り出そうとしてしまうけれど、その時々で反応が違うこの生き物を一つの私に統合しようなんて、無理な話なのかも知れません。


あー、うまく説明できてないですね…


でもね、仮に著者の言うように自我がなかったら、なんかとてつもなく楽になるなと思ったんです!

というのはね、この世界は「無常」であるとも著書は言っているのです。
この本でいう無常とは、
物事は瞬間瞬間に変化しているということなんですね。
瞬間瞬間変化するのは
人間も同じです。

外部環境によって人間の五感(視覚とか聴覚)は逐一違う反応を起こす。
つまりは人間も刻々と変化する生き物なのです。

瞬間瞬間変化することに対して、「私が私が」と我を張って、いちいち反応していると大変なことになります。

疲れます。
気を使い過ぎます。
そして自分がはては壊れてしまうかも

そう考えると、自我をなくすまではいかなくても、
自我を少し薄めると楽かなぁと思う。

我を張り過ぎないで、
「ま、こんなものかな」、
とあっけらかんとしてスッと流しちゃうことも、
自分を壊さない秘訣かも知れませんね。


と、まだまだ理解不足で…、読んだ方は「?」が頭の中に入ってきちゃったことと思いますが、、もう一回この本読んでます。

発見があったらまたご報告します。
「あの人はああいうタイプよ」
「あの人、私は苦手」
「あの人、素敵な人よ」

まだ会ったことも
話したこともない「あの人」のことを
周りはいろいろ言うけれど

他人のあの人に対する評価や判断を気にしすぎちゃいけない。

自分がその人と会った時どう感じるか。
どんな印象を持つか。

すべてはそこにあるんじゃないかな。

そして、すぐにレッテルを貼らないこと。

人にはいろんな一面がある。
その時々の精神状態がある。

そうわきまえておけば、人間不信になるのを
ちょっと防げるかもね。

人と対峙する時は
偏見を超えて
ただの自分でもって向き合っていきたいものです。

仕事でも何でも
のめり込んでいくうち、
苦しくなって
何でこんなことしてたんだっけ??
となることがある。

何でだったっけ?
何をしたかったんだっけ?
誰のためにやりたかったの?
何を伝えたかったの?

たまに振り返って、
もう一度よく思い出してみないと
どんどんズレていって、やりたかったこととかけ離れていって
本末転倒になっちゃうんだな。

組織の中にいると特に
自分の仕事や活動が何の役に立ってるのか
分からなくなって
目の前の仕事に追われ、疲れてしまうんだね。
組織の歯車に過ぎないような錯覚に陥っちゃうんだ。


何かを成し遂げようと思ってやっているはずなのに…

そこんとこ、忘れないようにしなくちゃ。

知らない誰かに支えられ、知らない誰かを支えているかも知れないことをおもって。