*昭和六年二月、東京の片隅に生まれた

兄弟は居なかった


父親は、昭和16年の戦争に出掛けたまま、帰る事は無かった

戦時中の限られた生活の中で、少年は大きくなった

友達も出来た

少年達は、製材所の手伝いをしながら、家計を助け勉強も頑張った

友達は、終戦間近に材木下敷きなって亡くなった

空襲での火災に、母親は捲き込まれて焼失した

葬式も無いまま、町内会の手で火葬にされて手元には、少しの遺灰が残っただけだった


焼け野原を歩いていたら、ヤクザの様な男達から声を掛けられた

「おい!兄ちゃん!住む家と食事が付いて、ひと月働いて2円!どうだ?」

少年は、何でも良かった、家と食事が付いていたのが嬉しかった


海岸の傍の家

少年の仕事は、海水を汲んでは、ドラム缶の中に入れる事だけだ

だが、重労働だった事は間違いは無かった


暫く経って、社長が、ラーメンを創る!からと、塩造りから、ラーメン研究班に移動した


間も無く、東京郊外(下町)に大型団地の開発が始まると、直ぐに応募した


会社での役職付くようになると、社長の薦めで結婚した

団地での夫婦生活で、女の子が誕生した

(色々な出来事を見せられたが、省きます。)


やがて、娘は、縁談が纏まり結婚して、出て行った


夫婦二人、穏やかで静かに月日が過ぎた

が、昭和55年の春、妻が、癌で他界した

葬儀を終えて、娘夫婦から同居の申し出は断った


特に、出掛ける用事も無く、買い物以外は外に出る事は無かった


体力は衰え、気力も無くなると、ほぼ寝たきりになって行った

食事は、デリバリーで済ます

チラシで、健康に良いと書いてあるのを信じて購入はして見たが、何も変わら無かった


平成19年秋

ベッドで眠り、そのまま二度と目覚める事は無かった


●かなり簡略したが、ある男が、私に見せた映像だ

先に亡くなった妻にも会えては居なかった

寂しい自縛霊になって、私に出逢った