す早いもので明日で母が旅立ってから12年になる。
今日は、13回忌の法要。
伯父や叔母達も高齢となったので、
私達姉弟とその家族で。
あいにく、全員そろうことができなかったけれど、近いので全員集合はまたの機会に。
お坊さんのお経の間。
母との思い出が走馬灯のように浮かびあがった。
母が一生懸命、自転車に乗れるように練習していた姿。
父の看病の為に毎日、私達の食事を用意をして病院に通っていた頃の姿。
父を亡くしてから、私達姉弟を育ててくれた姿。
子育てが一段落してから、一緒に行った旅行の思い出。(マチュ・ピチュに一緒に行けなかったのは残念だった。)
等々
母に、ああしろ、こうしろと言われた記憶は私にはない。
私に言うと100倍になって反論するからと、思っていたのかも(笑)
一つ一つ思い出すたびに頬に涙がつたっていた。
特に私がうつ病の時のことを思い出した時は、嗚咽を堪えるのに必死だった。
母はいつもと変わらず、私に接していてくれていた。
いつも優しい眼差しで、見守っていてくれた。
私が希死念慮におそわれ
電車に飛び込もうと何度となく
試みようとするが、出来ずにホームから改札に戻るといつも必ず母は迎えにきてくれていた。
心配な顔一つ見せず、帰路も何か言うでもなくただ側にいてくれた。
母は癌を患った。
度重なる抗がん治療を乗り越え、ドクターからそろそろ通院の間隔を延ばしましょうと言われてから数ヶ月後、骨盤への転移がみつかった。
痛みは相当なものなのだと思った。
母はとても我慢強い人だった。
それでも我慢できずにドクターにどうにかして欲しいと言った。
ドクターの提案は、右足を切断すること。
しかし、切断しても幻視痛が起こる可能性があるので痛みが完全に無くなるとは言いきれないとのことだった。
それでもと、母は可能性にかけ右足切断を選んだ。
しばらくは、痛みはおさまったが
幻視痛は起きた。
癌の進行は再発前より数段に早く、
痛み止めわ打っても酷い時は数分しかもたなかった。
私は、毎日病院に通っていた。
その間、私のことを考えて弟は毎日行くことを反対した。
しかし、看護師さんから母が夜中に私の名前を呼んでいることを聞いていた私は、弟とぶつかり、じゃあ行かないと言い数日行かなかったが、このままもし母に何かあったら後悔すると思った。
私は、なんと言われようと毎日行くことを告げ通院を再開した。
母の痛みが落ちついて一時退院することができた。
しかし、数日もすると発熱がおさまらず再び入院。
その時ドクターから、もう家に帰れる保証はないと告げられた。
病院食も喉を通らなくなり、毎日スープを作って持って行っていたものも通らなくなる。
日に日に衰弱していく母。
そんなある日
ボツりと
【もう、大丈夫だよね?】と。
一瞬頭が真っ白になるも
【絶対無理!】と答える私。
まだ私はその頃、うつ病の薬が手放せない状態でいた。
母はあんなに自分が辛いのに
それでも心配していてくれていたことを思い知った。
その後、母の願いであった
痛みからの解放
延命治療はしないことを
尊重した。
母の最期は
とても安らかな表情だった。
父が亡くなってから泣きごとも言わずに、子供5人を育てあげてくれた母。
今、こうして姉弟が仲良くしていられるのは母のおかげだと思っています。
母が旅立つ瞬間は
『ありがとう』しか言えなかった。
母の深い愛を再び思い出した。
そんな1日でした。
お母さん、ありがとう。
私達姉弟、あなたの孫達は
大丈夫です😊