絵や
土や
藻や
椅子や
マイクや
まな板や
人や
綿棒や
本や
扇風機や
コンクリートや
水や
袋や
京都や
奈良や
スプレーや
パズルや・・・

全部違うようで、全部、日常生活という統一された一つの流れの中で用いられている。
全てが何かしら関係し合って活きている。
だから、あれは無駄だ、これはダメだと切り捨てることなしに、わからなくても何か意味あると思って使うべきかな。
自分は自分で今話している相手はその人でしかない。何が言いたいかというと、自分と相手は完全には共通できないということだ。好きなもの嫌いなもの。バナナが好きだよ、犬は苦手だ。そういう単純なことは深く共通できるかもしれない。だけど、あの歌詞が心に沁みる、あの映画の空気感が子供の頃の微かな思い出を呼び起こして怖い、あの(いつもと変わらないはずの)街の匂いが今日はちょっと奇妙に不思議に脳の奥に響いてくる。といったことは相手にはそう簡単に理解できそうもない。反応できてもせいぜい愛想笑いだろう。お前に俺の気持ちがわかるか?!っていうセリフは自分の殻に閉じこもって子供のように喚く悲観的な表現に聞こえるけど、なんだか的を射ているとも思われる。悲しいことだけど、互いが本当の意味で解り合う、通じ合うことなんて万に一度くらいしか起こり得ないだろう。それだけ「解り合う」ということは困難を極めることなんだ。
俺の人生のバイブルとも言えるエヴァンゲリオンを解って欲しいとか、彼女の気持ちを代弁しているであろう世界の終わりを理解したいとか。そんなこといっても結局解るのは主観としての対象でしかないんだよね。22年間、その人と同じ人生を歩んでいれば同じ思いを持つことができたかもしれないけど、そんなことは不可能。それゆえ、一歩引いて、ゆっくりにじり寄るように、解ろうとすればいいんだ。
解る ではなく 解ろうとすることなんだ。そのほうがずっと現実的で、前向きな姿勢だと思うんだ。
この大学はもっと想像力溢れるような校舎を作るべきだ。あたらしいものを作るのはいいけれど。俺はうんざりしている。新築すればいいってもんじゃないよ。広いだけで何にも意味がない。といったら、大学を使いこなせない俺の言い訳になるかもしれないけど、それにしても広すぎる。広くするならそれによって生じる学生の通労のフォローをしてくれないと困ります。道路や廊下の壁や地面にファンタスティックな絵をクリエイティブな絵を描いたりして、廊下を歩くだけでも面白く歩けるようにしたりね。ぜひがんばってくださいね。