どうも~
出雲の神社・磐座個人ガイドの岡本です
HPはこちら💁♀️
先日は歴史や神社、神様にとっても興味がある素敵なお母さま、娘さんをご案内してきました
出雲井(いずもい)神社→三屋(みとや)神社→昼食→熊野大社→神魂(かもす)神社→神魂神社奥宮
三屋(みとや)神社に行ってみたいと言われたのは初めてでしたので、ここをチョイスされるとは、「ほほぅ」と思ったところでした
あまり目立った神社ではありませんが、出雲の歴史を知ると思わずみなさんも「ほほぅ」とうなることでしょう
三屋神社(みとやじんじゃ)
島根県雲南市三刀屋町給下865
御祭神:大己貴命(オオナムチノミコト)
合祀・配祀:須佐之男命(スサノオノミコト)、櫛名田比売命(クシナダヒメ)、足名椎命(アシナヅチ)、手名椎命(テナヅチ)
出雲国風土記に「御門屋社(みとやのやしろ)」と記される古社です
三屋神社の古代ハス
社殿の写真は撮り忘れた🥲
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由緒
社号の由来は所造天下大神大穴持命が八十神を出雲の青垣の内に置かじと詔うて追い払い給うてから此処に宮居を定め国土御経営の端緒を御開きになったので、その御魂が高天層に神留りましてから後出雲国造の祖先の出雲臣や神門臣等がこの地に大神の御陵を営み、また神社を創建してその御神地を定め神戸を置いて大神の宮の御料を調達することになったので、社号を大神の宮垣の御門としてその神戸とに因んで御門屋神社と号けたものである。
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「所造天下大神大穴持命(あめのしたつくらししおおかみおおなもちのみこと)」
と書いてあります
これは二つの敬称がくっついています
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
と
大穴持命(おおなもちのみこと)
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)とは、出雲風土記のお話しを書いた、当時の出雲国造・出雲臣広嶋さんが、出雲王家をよいしょして褒め殺しのために用いた大げさな敬称だそうです
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以下出雲と蘇我王国参照
旧出雲王家には秘密の情報機関(散家)があったから、出雲国造が出雲神話を作って、官史(古事記)に書かせたことは知られていた。
それで国造が嘘を書かせたか確かめるために、国造に写しを見せるように、向家(東出雲王家)が要求した。
国造は必ず見せると約束した。しかし見せるのが10年以上遅れた。
遅れた理由は、日本書記ができてから、それに合わせて出雲風土記を書き直すためであった。
733(天平5)年に、『改訂出雲国風土記』を出雲臣広嶋が作った。これはイズモ国内向けに作られたものであった。そして向家に渡された。
これが中央政府に提出されていたら、中央貴族たちの怒りを買い、国造の名称の使用は禁じられたであろう。
新しい風土記には、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)という大袈裟な表現が幾度も出てくる。それはヤマト政権の権力者をしのぐ感じがある。
この表現は大国主を尊敬しているわけではない。過度なお世辞を使い、それを喜ぶ人を陰で仲間とあざ笑うのである。出雲風土記には嘘を書いたけれども、大国主を褒めて書いたから見逃してほしい、という考えがあった
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そして、御祭神の漢字は
「大己貴命(オオナムチノミコト)」
風土記の漢字は
「大穴持命(おおなもちのみこと)」
になっています
どちらも元の漢字が変えて書いてあるので、本来の意味がわからなくなっているそうです。
古代出雲王国では
王様・主王の役職名を『大名持(おおなもち)』
副王の役職名を『少名彦(すくなひこ)』
と言っていました
『名』というのは『王様』を表します
古代出雲王国は、二王制でしたので
東出雲王家(向家または富家)、西出雲王家(郷戸家または神門臣家)のそれぞれの当主が交代で主王に就任しました
副王には、主王の出身家ではない王家の若殿が就任しました
ですので、古事記に出てくるスクナヒコナはカミムスヒの指の間から落ちた子・小さい神様として出てきますが、本来の『少名彦(スクナヒコ)』は、身長が小さいのではなくて、年が若い王様という事になります
ちなみに『彦』は『王子』という意味です
古代はよく、○○ヒコと付く名前が登場しますが、王子・若殿という意味だったんですね。
さてさて、実は、
三屋神社と出雲大社は、神紋が一緒なんですよ
二重竜鱗枠に剣花菱
(一般には、二重亀甲剣花菱)
それにはこんな訳がありました
紀元前220年頃
8代目大名持・八千矛ヤチホコ(大国主)、
8代目少名彦・八重波津身ヤエナミツミ(事代主)の時でした
徐福たち渡来集団が出雲にやってきました
ちなみに、現在は「事代主」という漢字が使われていますが当て字だそうで、正しい意味では「言治主」であり、武力でなく言葉で統治する王という意味だそうです
徐福渡来の前年、紀元前219年に先遣隊として穂日(ホヒ)、武夷鳥(タケヒナドリ)親子が、後にやってくる徐福たちの上陸の許可を求めにやってきていました
「我々は、徐福という方の命令を受けてきました。徐福はシャントン(山東)省の方士(道教の師)です。大勢の秦族の少年少女を連れて、出雲王国へ来る予定です。
子供たちばかりを連れて来ますので、貴国に危険は及びません。
彼らが到着する時に、攻撃することなく上陸を許可していただけるようお願いします。」
そこで八千矛王(大国主)は出雲八重垣(出雲の掟・憲法)を守ることを条件に許可しました
先遣隊のホヒ親子は西出雲王家にそのまま住み、神門臣家にそのまま仕えることになったそうです
そして、出雲王国始まって以来、前代未聞の大事件が起きたのです
八千矛王(大国主)と八重波津身(事代主)が誘拐され、洞窟に閉じ込められ、餓死されました
実行犯はホヒ親子で、指令は徐福でした
主王と副王を同時に失うといあまりの出来事に出雲人は嘆き悲しみ、怒りでいっぱいになったそうです
その後、出雲人の約半数が、渡来人との共生を嫌い奈良(ヤマト)へ移住していきます
その時の八千矛王(大国主)の御神霊を神門臣家(西出雲王家)によりお祀りしていた社が
「三屋神社」
になります
何百年後に出雲大社(716年創建)を建てた時に、八千矛王(大国主)の御神霊を移したそうです
ですので、「三屋神社」は元出雲という事になります
それで、杵築大社(現・出雲大社)の神紋も三屋神社と同じになったのです
ちなみに現在の本殿、拝殿、鳥居は貞享2年(1685年・5代将軍徳川綱吉公の時代)に再建されたそうです
こういういきさつがある古社ですので、興味がある方はぜひ訪れてみてください