色んな感情の波動があるのが人間
怒りなどの負の感情を押し込めるのは
その波動を止めてることになり不自然。
あの2人の
物事の良い面しかみようとしない姿に
違和感を感じていたのか。
オーガニックライフもアーユルヴェーダも
いい面もあれば悪い面もある。
そういう真理を見ようとせず
いい面ばかり妄信している
その姿そのものに違和感を感じる。
本当はわかってるくせに。
怖くてみれてないだけでしょ?
わたしが感じていた違和感は
そういうことだったのだ。
でもそれは彼女たちへの違和感ではなく
白だけであろうとする
自分への警告かもしれない。
珠玉混同
何でもありなのがあなたでしょ?
玉虫色で
どんな色にもなりうる。
それがあなたで
あなたの魅力。
未熟なエゴは愚かにも
黒い自分を恐れて表に出そうとしないけれど
本当のわたしは
別にそれは黒でも何でもなく
単なるわたしの一部でしかないと思っている
周りを馬鹿にするなよ。
お前が隠そうとしてるその黒い面は
ちゃんと相手に伝わってるよ。
バレてないと思ってるのは
自分だけ
という愚かなコント。
自分の駄目だと勝手に思ってる部分を
認めるところから
豊かな人生は始まる。
敬遠していた他人を
自然と受け入れられるようになる。
結局敬遠していたのは
他人ではなく
同じようなキャラを持っている
自分自身だった
と気づく。
そもそもそういう人なんだからさ
諦めて認めちゃいなよ。
ということです。
無学は無知ではない。
それぞれ今世のテーマが違うだけだ。
わたしの今世のテーマは
わたしの中の食や化粧品などの悪と正義を
無くすことかな。
身体に対して優等生で居られない
自分を許すことかな。
結局、自分がどうしたいかだよ。
自分が選ぶんだよ。
波動が高い低いって言うけど
それは他人の定規。
波動が感じれないならそれはそれでいい。
大切なのは「わたしにとって」どうなのか。
お金的に全部自然栽培にできなくていい。
お金を理由にすることを
責めなくていい。
それもひとつの選択肢だよ。
良いもの>お金とするのが正義
としがちだけど
自分がお金優先にしたいならそれでいい。
落第ではない。
わたしは人の定規で生きることを
手放したいのだ。
自然栽培の野菜を食べれる人は
野菜からも選ばれている気がする
という話を聞いたことがあるけど
選ばれてないからその人の価値がない
わけではなく
ただそれぞれの
今世のストーリーが違うだけ。
ある人は自然栽培に
触れ合うストーリーを選び
ある人は選ばなかった
ただそういうことだと思う。
だから
食べれる人が偉い。
食べれない人は
人間的価値が低く価値がない。
ということにはならないと思っている。
病気も同様で。
食生活に無頓着で
仮にそのせいで病気になったとしても
それでその人に価値がない
ということにはならない。
自然栽培やオーガニックを
至上主義にしていると
陥りやすい上下論じゃないだろうか。
気を付ける>無頓着
無頓着は悪とまでみなすこと。
自然栽培やオーガニックは
あくまでライフスタイル。
選びたい人が選ぶもの。
人によっては生きる上で
必要不可欠な場合もあるけど
それも今世のストーリーがそうだった
というだけで
全ての人が絶対に選ばなければならない
選ぶことが絶対的に正しいこと
ではない。
食生活も生き方も単なるポリシー
選びたいスタイルなだけであって
選ばなければならないスタイルではない。
選ばなければバチが当たるスタイルではない。
バチがあたると思い出した時点で
ライフスタイルではなく宗教だ。
そうなると
はじめは幸せで始めたライフスタイルが
守らなければバチがあたる
恐怖に基づく宗教になってしまう。
そうなると幸せじゃなくて義務。
わたしはなぜ始めたのか忘れてしまう。