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02・15
09:06
若い頃司馬遼太郎の
「国盗り物語」「関が原」「城塞」
と時系列で夢中になって
戦国小説を読み進んだ記憶が懐かしかった。
信長、秀吉、家康の3英傑が出現した
戦国時代の歴史は何度読んでも面白い。
その興奮した気持ちが忘れられず3年前に
同じ順番で同じ本を読み返した。
時空を超えて、戦国時代に身を置いて
英雄の生き様を間近で覗き見ている臨床感が
忘れられなかったのだろうと思う。
今はまだ時々雪が舞って寒い日が続いているが
やがては春が訪れる。
1598年、春、現在の花見の原型とされる
醍醐の花見の後、
秀吉は急激に体調を崩し始め、
8月18日、午前2時、
当番の坊主が様子を見に行ったら
既に息は無く、誰に看取られる事無く、
訪れた死神に抵抗する力も失せ
そのまま黄泉の国に連れ去られた。
62年の波乱に満ちた人生を秘っそりと閉じたので有る。
遺骸は、稲妻の青光りが大地を打つ大雨の中、
大柄な下僕に背負われ
伏見城から密かに阿弥陀ヶ峰に運ばれた。
そして無造作に埋葬された。
この時、ひとり息子の秀頼は僅か5歳で有る。
秀吉は残された遺児、秀頼の行く末を案じ
安らかに眠る事すら許されなかったで有ろう。
だが、それは本当だろうか。
確かに秀吉は、息を引き取る3ヶ月前
徳川家康・前田利家・前田利長
宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら
五大老及びその嫡男らと
前田玄以・長束正家に宛てた
十一箇条からなる遺言書を出し、
血判を持って返答させている。
しかし、自分は兼ねてより、
この遺児、秀頼に対し、
果たして秀頼は本当に秀吉の実子なのかと言う
限りなく灰色に近い
疑念に満ちた視線を向けている。
これは当時、宣教師として日本に滞在し
本国ポルトガルに報告書として書き記した
ルイス・フロイスの記録「日本史」にも
秀頼が秀吉の子などとは誰も信じていない。
と書かれている事でも解る。
少なくとも、ルイス・フロイスは
交流が有った諸大名や
付き合いの有る豪商などの口から出た
噂話を書き記したのだと思われる。
つまり、秀頼が秀吉の実子で無い事は
公然の秘密だった疑いが持たれる。
まず、体格の違いが一番疑惑を招いている。
秀吉の身長は、残された具足から推定して
150㎝もなかったと思われる。
それに比べて秀頼は、身長6尺5寸、体重43貫
身長197cm、体重163kgだったとの説が有り、
多少の誇張を差し引いても
関取並みの巨漢で有る。
だが、淀君の父親が、
大柄な浅井長政で有る事から
隔世遺伝の働きによる産物だとも言え
これをして
秀頼は秀吉の子ではないとは言い切れない。
では、秀吉に子種が無かったのかと言うと、
史実として長浜城主時代に、
正室ねねの侍女に手を出し、
長男(石松丸)をもうけている。
ただし、この子は夭折している。
秀吉には記録に有るだけで
16人とも17人とも言われる大勢の側室が居た。
好色で有名な秀吉だから
一夜限りの女性は数限りなく存在している。
その側室が子供を生み難い体質だった
かと言うとそうでもない。
側室、摩阿は秀吉の死後、
公家、万里小路充房との間に子供を生んでいるし
側室、京極竜子は
秀吉の側室になる前に2児を生んでいる。
つまり、秀吉には長浜城主時代に
子供が出来ただけと言う事になる。
淀殿をおいては。
最初に淀殿との間に生まれたのは
1589年、鶴松で有る。
だが、僅か3歳でこの世を去っている。
この時、秀吉53歳と言う高齢である。
二度目がこの秀頼で有り、
1593年、秀吉は57歳となっていた。
普通常識的に考えても秀吉の子で有る事は疑わしい。
どうやら最初の子、鶴松は
秀吉公認で、参籠と称して神社に篭り
他人の男の子種を受けたらしいので有る。
宗教的な儀式に見せ、
酒や妙な薬を飲んで陶酔状態の中、
淀殿は「何処の誰だか解らぬ男の子種」
で受胎したので有る。
「何処の誰だか解らぬ男の子種」
と言うのは大事なポイントで後に、
「あれは俺の子だ」と主張できる男ではいけない。
だが、それにより生まれた子
鶴松は僅か3歳で死んでしまう。
さて、問題は、秀頼の時は
どんな状況での受胎だったのか。
1592年、秀吉は朝鮮出兵の為九州に赴いている時に
淀殿は突然、懐妊する。
秀吉は、淀殿が、今度は自分の承諾無しに勝手に
「受胎」の儀式をしたのだと悟り大阪帰陣直後から
淀殿の「受胎」の儀式に関わった
多くの人々を逮捕し処刑している。
と、服部英雄氏著
「河原ノ者・非人・秀吉」には有る。
だが、自分は歴史好きの人たちの通説通り
秀頼の父親は、淀殿の身の回りの世話をしていた
大野治長ではないかと言う説を取りたい。
この辺りの二人の微妙な関係は
司馬遼太郎氏著「城塞」に詳しいので
興味有る人は一読をお勧めする。
少なくとも、秀吉に身に覚えは無かった。
しかも、子種が少ない己の体質を
自覚していた秀吉は
秀頼は自分の子では無いと断言できた。
しかし、彼は秀頼を自分の子として認知し、
天下を秀頼に譲り渡そうとした。
自身の死の直前まで。
だが、そう仮定すると辻褄が合わなくなる
大事件が歴史的に起こっている。
豊臣秀次失脚と切腹、一族粛清の大参事で有る。
少なくとも関白豊臣秀次は秀吉の姉の子供なので
血縁関係に有る。
血縁者を一族もろとも粛清しどこの誰とも解らぬ男
との間に生まれた秀頼を
自分の子として後継者に据えた
秀吉の心中が自分には図り兼ねる。
この辺りの心境と真相は
秀吉の胸先三寸に治められたまま
歴史の闇の中に葬られている。
1615年、5月8日、
大坂城は炎に包まれて遂に落城し、
豊臣秀頼・淀殿母子は自刃して果てる。
豊臣政権は奇しくも
秀吉が残した時世の句の如く
「なにわの事は夢のまた夢」
と化し終焉を迎えたので有る。
そして嘗て秀吉が信長一族を
政権から追い出し滅ぼしたように
家康が豊臣一族を滅ぼし
徳川政権が確立し以後200年以上に渡り
日本国を統治するのである。
秀頼の本当の父親ではないかと嫌疑を掛けられた
大野治長も大坂城落城時に、
豊臣秀頼・淀殿母子と共に自刃している。
秀頼23歳の時で有る。
大阪城が炎上する直前、
秀頼の正妻、千姫は家康の厳命で
戦火を逃れ助かっている。
秀頼と千姫の間に子供は生まれていない。
だが、秀頼には
大阪城で奉公していた娘との間で生まれた
幼名を国松と名乗っていた男子が居た。
1615年、5月8日、
父、秀頼と当時まだ8歳だった息子、国松は
落城が迫った大阪城の城内の一角で、
今生の別れの盃を交わしたに違いない。
自分なら、この不憫な息子に対して
いったいどんな励ましの言葉を
掛けてやる事が出来るだろうか。
考えてみただけで熱いものが込み上げて来る。
だが、大阪城は既に凄まじい炎を吹き上げ
秀頼は自刃する刻に急かされている。
「国松!生きろ!」
と一こと言うのが精一杯だったかも知れない。
国松は後ろ髪引かれながらも
乳母&側近4名とともに大坂城を無事脱出し、
一路、京都方面へ向かって逃走を図る。
恐らく国松は逃走する夜道の途中で足を止め
大阪城を振り返り
炎上し崩れ落ちる大要塞の断末魔の景色を
幼い二つの眼に映し出したに違いない。
しかし、5月21日、
国松は伏見に潜伏しているところを
徳川側の武将に発見されてしまう。
そして5月23日、
背中に罪状が書かれた板を背負い
京中を引き回しされた上で
六条河原に引っ立てられ無常にも斬首されている。
秀頼には同じ娘との間にもうひとり娘が居る。
国松の姉になるのだと思う。
天秀尼と言う。
この娘の命は、何と
秀頼の正妻である千姫が家康に助命を直訴し
尼にする条件で命を救われている。
千姫は2代将軍秀忠と江の長女として生を受け、
僅か7歳で秀頼に嫁いでいる。
家康に取っては孫で有り
家康の政略で結婚を強いられ徳川家のお家事情で
家康に夫を殺されたので有る。
そして千姫は
自分の夫が別の娘に生ませた子供の命を
救っている。
千姫にそうさせたのは
秀頼に対する強い思いからだったのか
或いは、自分を含めて天下の事情で
人の命を簡単に左右させないと言う
強い憤りと抗議の行動だったのか
いずれにしてもこの事実で
千姫はひとかどの人間ではなかった
人なりが窺い知れる。
天秀尼が捕まった事により
秀頼の息子、国松の存在が家康に伝わった。
家康に国松捜索を言い渡されたのは
細川忠興で有る。
明智光秀の娘、ガラシャ夫人の夫で有る。
この細川忠興が家臣に
国松捜索を命じた手紙が近年発見されている。
この手紙には実は
驚愕の事実が他にも書かれていたので有る。
手紙には『秀頼様御子様御一人は十、
御一人は七つに御成候…』で有ると書かれている。
捜索するべき者は、一人は10歳の男子
もう一人は7歳の男子で有ると書かれているのだ。
つまり、斬首された国松には
弟が存在していたと手紙は告発している。
だが、徳川軍の大捜査網の中で
長男国松は捕縛されたものの
この7歳の弟はまだ見つかっていない。
つまり、7歳の弟は
歴史の闇の中へ見事逃げ切ったと言う事になる。
大阪城が落城して、それから77年の月日が流れた。
その時、歴史の闇の中に紛れた筈の弟は
突然として歴史の表舞台に躍り出る。
名を求厭上人と言う。
1692年、80歳で自身の臨終が
近づきつつある事を悟った求厭上人は
身の回りの世話をする坊主に
突然、自分の出自を語り始めたので有る。
「自分は豊臣秀頼の次男で有る。」と。
大阪城落城時には3歳で
家康のお膝元の江戸に潜伏し
「やがて浄土宗の寺、増上寺に入った。」と。
この逸話は1702年に書き起こされ
時代により書き増しされ全75巻の
「本朝高僧伝」の中に書かれている。
恐らく、この求厭上人が
臨終の際に語ったとされる逸話は
長年、眉唾話として黙殺されていた筈である。
所が、近年、
細川忠興の手紙が発見され求厭上人と闇に消えた
謎の弟のシルエットがピタリと一致したので有る。
考えてみれば余程の確信が無ければ
自分は秀頼の息子だったとは語れない。
しかも、大阪城が落城した時
7歳と言われていた少年が
実は当時3歳だったと言う新しき証言に
自分は思わず全身に鳥肌を立てた。
時は300年程下った1980年、昭和55年の事で有る。
大阪城三ノ丸跡の発掘調査が行われた。
豊臣時代の陶磁器、漆器、屋根瓦などが
うじゃうじゃと出土する中で
ひとつの髑髏が発見された。
専門家の鑑定によると
髑髏の主の推定年齢は20歳から30歳。
頭蓋骨の右顎は何かの衝撃を受けて割れていた。
この髑髏の近くから秀頼の愛馬、
太平楽と思われる馬の骨も流出し
専門家はこの髑髏の主を秀頼と認定している。
割れた頭蓋骨の右顎は
介錯の折に日本刀で割られた跡と
認定されたので有る。
その他に2人分の頭蓋骨も出土している。
もしかすると、その内の一人は、
父親説が最も有力視されていた
大野長治の髑髏で有るのかも知れない。
大阪城が焼け落ち戦が終焉した時、
徳川軍の武将は血眼になって
秀頼の首を捜索したが
遂ぞ発見する事は出来なかった。
名将、真田幸村とともに
九州薩摩藩に逃れたなる
最もらしい逸話も残されているが
そうした風説も
秀頼の首発見により完全に打ち消された。
秀吉を骨抜きにし歴史を翻弄させた
淀の君の遺骨もきっと
同じ敷地内の何処かで眠っている事だろう。
だが、近代兵器による戦争は
そんなロマンの一欠けらも残さず
形有るもの全てを灰としてしまう事だろう。
忍び寄っていた戦火の影は
日増しにはっきりと見て取れる様になった。
仮想敵国は既に仮想では無くなり
軍靴の響きも段々とはっきり
我が耳でも聞き取れる様になった。
いつの時代でも
自分の信念を貫く生き方は難しい。
自分の決断が本当に正しかったのか、
それはやってみないとわからない。
人生は常に今が本番で有って
出たとこ勝負なのだ。
それもこれも含めて、気が付いた時には
自分は既に老境に差し掛かっていた。

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