ぷにゃのブログ〜東方神起と私〜

ぷにゃのブログ〜東方神起と私〜

東方神起について思ったことを、好きなように書いていきます。
言いたいいこと言い放題!ビバ自分の領域!

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ちょっとちゃんと補足しておかなければ、と思ったことがあります。


少し前に、私は耳のことについて、
「大切なのは気の持ち方」
「自分が前を向けるかどうか」
のようなことを書いたのですが、
これは自分で思うにはいいけど、
病気や障害で落ち込んでいる人には絶対言ってはいけないことだな、と。

病気や障害について、当事者と話をするのはすごく難しいことだと思います。

例えば、耳が聞こえなくなった人に対して、
「きっと治るよ。諦めないで」とか、
「信じていれば良くなるはずだよ」とか言うことが、
本人を励ましていることになるのか。

私はよくわからないです。
たまにこんな声を聞くんですよね。
「聞こえないことを受け入れて、新しい環境に慣れようとしているときに、
 こう言われるとどう気持ちを整理すればいいかわからなくなる」と。

その人がどの段階で治ることを諦め、
もしくは受け入れるのかというのは、周りからとても見えづらいです。

もう治らないだろうなと悟ること、
治るかもという期待を裏切られ続けるのに疲れること、
出来ないことは出来ないのだから、対処法を考えるしかないと思うこと、
人によってそれぞれタイミングが違います。

だから、病気や障害について他の人が触れるのはすごく気を使うことだと思う。

でも、私の場合は、触れて欲しくない、というのは全くありません。
私は「あなたは当事者じゃないから私の気持ちなんかわかるはずない」
っていう言葉が大嫌いです。

そんなこと言ったら、
失恋を歌うミュージシャンは人生で何十回も失恋しなきゃいけないし、
お医者さんは全部の病気にかからなきゃいけなくなる。

そうやって閉じた世界に引きこもり、傷を舐め合い、
誰もわかってくれないって嘆き続けるのは、逆に辛いことだと私は思います。

私の場合は、ですが、
私は今はどんな声をかけてくれても嬉しいです。

「治ると信じて」も
「奇跡が起きることを願ってます」も
「つらいね…」も、
どれも私の気持ちを慮って、考えてくれたこと、声をかけてくれたことだから、

それが何より嬉しい。

でも、みんながみんなそうじゃないってことを忘れちゃいけないと思うようにしています。


「受け入れる」ことについて、もう少し。

私は右耳が聞こえなくなった当初、
本屋さんに行くといつも医学書のコーナーに行っていました。
自分の病気の原因は何なのか、どんな治療法があるのか、
ひたすら治すこと、治ることについてばかり考えていました。

でも、二ヶ月ほど前からは、
障害のコーナーや福祉のコーナーに行くようになりました。
この状態でどう生きていくのがいいのか、
社会のことや先人たちの生き方を知りたいと思うようになりました。
これで私は自分の心の中の変化を知りました。


「もし、神様があなたの病気や障害を無くしてくれるって言ったらどうする?」
これはよく当事者に向けてなされる質問です。

「これが私なので、そんなことは望みません」
と答えられているのをよく聞くし、それが正しい、みたいな風潮もあります。

「障害は不便だけど、不幸じゃない」
「障害はひとつの個性だ」
そんなこともよく聞きます。

正直、少し前まで私は、これはただの強がりだと思っていました。
でも、最近はそうではないかな、と思ったりもします。

二ヶ月ほ前の私が、右耳が聞こえるようにしてあげる、と言われたら、
喜んでお願いしたと思います。
いや、今でもお願いするかな。
まだやっぱり辛いもの。

でも、ちょっと気持ちが変わりました。

以前、
「今まで自分が生きてきた30余年なんて大したものではないけど、
失ってみるととても愛しい」ということを書きました。
それと同じことが、右の聴力を失ってからの半年にも言える気がしてきたのです。

正直、今まで生きてきた中で一番辛い半年間だった。
でも、もしここでぽーんと耳を治してもらっちゃったら、
この半年間って何だったんだろうって思うと思うのです。

辛かったあの時を乗り越えて今の私がいる。
いや、「乗り越えて」は違うな。
あの時あっての今の私なのです。

人間ってそういうものなのかもなぁと思います。
今の自分を肯定するには、自分の通ってきた道を肯定するしかない。
今の自分を否定したいとしても、そしたらその否定しているお前は何者なのだ?となります。

もちろん、辛かったこと、後悔したこと、理不尽なこと、
出来れば避けたかったことは誰にでもあると思います。
それらの「こと」は憎んでもいいし、腹を立ててもいい。
ただ、「それらを通ってきたこと」は「それらを通ってきた自分」は、
否定することが出来ないし、受け入れてあげるしかないと思うのです。


「障害は不便だけど、不幸じゃない」
私はこの言葉が真理なのか、まだわかりません。
でも、障害がない人全てが幸福なわけではないことを考えると、
人の幸不幸は障害の有無によって決まることでないのは確かです。

「障害はひとつの個性だ」というのも、やっぱり真理かわかりません。
「個性だ」ということで、一見人を平等に見ているように思えますが、
それでもやはり障害があることで不便なことや出来ないこともあるわけで、
それを「個性」で片付けられてしまうと、本当の平等は得られない気がします。


私は内科の疾患で定期的に診てもらっている先生がいます。
耳を悪くしてすぐ、入院していた時に、
私はその先生に会いたくて、ちょっと無理を言って外出と外部診療を認めてもらいました。

その先生に耳のことを話すと、すごく驚いてショックを受けてくれて。
まだ落ち着いておらず、聞こえているかいないかさえうまく表現が出来ない私に、
さっと自然に筆談をしてくれたような先生です。

その先生が言ったのは、
「私は宗教にはあまり詳しくないけれど、神様は乗り越えられない試練を与えないから」

「だから大丈夫」

という言葉でした。

よく耳にする言葉だけれど、面と向かって言われたのは初めてで。
自分の担当でない病気について、軽率なことは言えなかったと思うのです。
「きっと良くなるよ」とか「頑張って」とか、治る可能性もわからないのに。

耳が悪くなってから、この言葉をかけられたのは初めてでした。
点滴治療で免疫力が落ちている私に、
先生が「お見舞い」と言ってマスクを2箱くださって、

私はその袋を下げながら帰り道にわんわん泣きました。


先日の診察の際に、その先生は、
「なってから半年が一番辛いはずだから。よく頑張りましたね」
と言ってくれました。
そうか、これからはもう少し楽になれるのかな。
そう思うと少し元気がわいてきました。


と同時に。

神様が試練を与えたのだとしたら、それは何でなのだろう、と。


ものすごく心当たりがあることが2つほど…。


私は、やたらと個性が大事、個性が大事と言って教育されてきた世代です。

なので、私は自分に個性がないのがすごくコンプレックスで。


これといった特技もないし特徴もないから、

何やってもダメだなってやる前にいろんなことを諦めて、

自分を納得させてきたところがあります。

なのに、何もやらない自分に自己嫌悪…みたいなことを繰り返していて。


でも、こうなってはそんなことを言ってられない。

何でも聞こえていた世界と、聞こえづらい世界の二つを知るということは、

他の人にはあまり出来ないことだし、

何より自分で対処法を考えないといけない立場に置かれることになったわけで。

考えさせられることも勉強しなきゃいけないこともたくさんある。


「何をしたらいいかわからない」とうじうじしてばっかりだったところに、

「今はこれをやれ!ここをどうにかしろ!」というのが明確に与えられて、

頑張る方向性というのが見えました。



もう一つは、人とのコミュニケーションについて。

私、人としゃべるのがとても苦手なんですよ…特に、初対面。

のくせ、人間が大好きで、人と関わることでしか得られないものがたくさんあると思ってて。

いつも「人に会いたいけど、怖いぃ」とかやっぱりうじうじしてました。


いや、でもこうなったら、人との付き合い方を見直すしかない。

大きい会合は諦めよう、もともと苦手だし。

聞こえづらいときは音声以外の意思疎通方法を考えよう。

読話(唇の動きを読むこと)かもしれないし、筆談かもしれないし、身振り手振りかもしれない。

そして、大切な人には出来ないことをちゃんと伝えよう。

初対面の人にも、必要であれば自分の要望をきちんと伝えられる人間になろう。



と強がってはみたものの、
いまだにめそめそ泣いたり、
「聞こえなかった…ずーん」
「知らないところ怖い!聞こえないから怖い!」
「話しかけられたのに気付かなくて無視したらどうしよう…」
「よく聞こえなかったのに聞き返す勇気ないよ、えーん」
とかそんな毎日なんですが…。

この前も東京ドームに雰囲気だけ味わいに行ったんですが、
ほんとトンペンさんってフレンドリーだから、
どこかに並んだりするたびに「話かけたらどうしよう、どうしよう」って気が気じゃなくて、
思いっ切り「話しかけないでオーラ」を出してしまいました…。
こういうのがダメなんだってば!


少しずつゆっくり出来るようになろうと思います。


先日の二人の涙を見て、
私は長らくああいう涙を流してないな…と思いました。
努力した人だけが流せる涙。
全力でやった人だけが流せる涙。

私も何かやらなければ。

毎回言ってる気がするけど。
今の私に必要で、出来るようになりたいこと、
ひとまず、読話と手話を習うことにしました。
同じ状況の友達も作りたい。

あとは中途半端なままになっていた韓国語と、
耳が聞こえなくなっても脳内で音楽が流せるように、
ピアノか何かで音感を取り戻しておきたい。
仕事全部やめちゃったし、しばらくは外で働くのは難しくても、
在宅ワークで少しくらいは収入が得られるようにしたい。

やることがいっぱいだ。



先日のMステスペシャル、良かったですね。

「サクラミチ」その他の感想はまた別に書きたいんですが、

二人の表情がそれぞれらしくて良かった。

ユノ、どこ見てたのかな。

チャンミンは目線に困り過ぎ。


「桜・卒業…人生の旅立ちスペシャル」だったらしいですが、

ちょくちょく紹介される名曲たちがやっぱり素晴らしくて。


チャンミン、レミオロメンの「3月9日」歌ってましたね。

歌えるんだ!びっくり。


瞳を閉じれば あなたが

まぶたのうらに いることで

どれほど強くなれたでしょう

あなたにとって私も そうでありたい


何か重なるところがあったのかもしれない。



今年の桜は4月3日の強風で散ってしまいましたが、

今までにない辛い春となった私は、一人でアホみたいにお花見に行きました。

五分咲き、八分咲き、満開、たくさん写真を撮りました。


体調を崩してから、数少ない友達がよく会いに来てくれます。

でも、やっぱり春なんですよね。

オーストラリアに帰国してしまう幼なじみ、

旦那様の転勤で遠くへ行ってしまう高校時代の友達、

結婚を決めて新生活に入る大学時代の友達。


出会った幼稚園の頃や高校、大学の頃を思い出し、

思い出が走馬灯のように駆け巡って、

なんかこれお迎えが来るパターンじゃないの!?って思ったり。


「春は出会いと別れの季節」とか言うけれど、

出会いは予期できないくせに、別れは予期できる。

だから別れのことばかり考えてしまう。

だから私は春があまり好きではありません。


みんな離れていっちゃうけど、

私は当分ここから動くことはないだろうから、

一人ここで木のようにどっしりしてようかな、と思います。

動けない者は動けない者なりの生き方があって、

新しい出会いは多くないけれど、

今まで出会った人たちを大切にするだけで十分かもしれないな。


そんなことを考えた春でした。


あぁ、でも寂しいな。春、辛い。

辛くなるとすぐ文章を書きたくなる。


お付き合いくださり、ありがとうございました^^