18歳で高校を卒業し、すぐに今の会社に入社したということは、この3月でまるまる40年間勤務していることになる。
思えば遠くへ来たもんだ、というか、よくもここまで長く勤めることができたもんだと我ながら感心もするが、途中何度か辞めようかと考えたことがなかったわけではない。
30代の頃には新聞の求人欄に目を通す日々を送ったなんてこともあったし。
まぁ、せっかく40年も働いてきたのだから、入社した1983年から40年間、それぞれの日々の暮らしと、それぞれの年に聴いてきたロックを振り返るのも悪くないだろう。
ということで、まずは1983年(昭和58年)から。
入社して最初に配属になった人口2万人にも満たない小さな町の独身寮。そこであてがわれた部屋は四畳半一間。とにかく早く家を出たい一心の自分にはそれだけでも充分だった。
ただ、いかんせん田舎町。レコードを買うにしても小さな電器屋かスーパーの中にあるレコードコーナーだけ。自分が聴きたいロックなやつなんかそうそうあるわけもなく、予約するか取り寄せするか、100㎞離れた札幌まで行くか、あとは通販で買うしか手立てはなかった。それでもディスコもコンビニも映画館もない町で有り余る時間を過ごすにはロックを聴くくらいしか愉しみはなかった。
で、通販で手に入れたはずのHOT & COOLはスタークラブ初のフルアルバムにしてライブ盤。
10代のパンク好きな若者がこのアルバムにときめかないわけがなく、レコードが擦り切れるくらい聴きまくってはいたが、SHIT!と吐き捨てたくても大自然の中では、あまりにも侘しすぎて…。
HOT & COOL同様シティロッカーレコードから通販で買ったはずの45回転30㎝EPアレルギー作用(プロセス)。
スター・クラブの70’S直系パンクとは違った、少しニューウェイブの匂いも感じさせるアンダーグラウンド感が堪らなかった。スリリングなギターのWake UPがお気に入りだったが、U子の奏でる地を這うようなベースも好きだった。
その後、メジャーからリリースされたEl Doladも買って聴いたが、アレルギー作用ほどに心を震わせることはなかった。
同じくシティ・ロッカーからリリースされたオートモッドのれくぅいえむ。
ジュネのバックを固めるボウイの布袋寅泰、高橋まこと、パーソンズの渡邉貢という豪華メンバーにかなり期待していたが、所謂デカダン、ポジパンなサウンドが自分の嗜好とは合わなかったのは、オート・モッドといえばラスト・パンク・ヒーローで決まりの自分なのだから仕方あるまい。
スターリンのメジャー第二弾「虫」はピクチャレコードがジャケットになっていたっけ。
ピストルズ寄りだったSTOP JAPからハードコア的に進化したサウンドはかなり絶賛されていたはずだが、自分には全くピンとこなかった。その後のFish Innの深さは大好きだったけど。
同じくリリースを楽しみにしていたのにピンとこなかったのがゼルダのカルナヴァル。
前作プロデュースのモモヨと袂を分かち、ムーン・ライダースの白井良明と手を組んだのが自分的にはダメだったのか、思い込みというのは恐ろしい。
この年の夏によく聴いていた12インチ専用レーベルShanShanからリリースされたルースターズのC.M.C。
サマービーチに爆弾が落ちるさまは、穏やかな田舎町の風景で聴くには不釣り合いだった。
その秋リリースされたDISの凍えるようなジャケットに映るのは3人だけ。
ドラムの池畑が脱退して制作されたアルバムは、それまでとは一転、大江の不調に歩調を合わせるかの如くサイケデリックなサウンドへと変貌。
雪深い町に響くエコーのような静かなサウンドに浸る日々を過ごした思い出。
この後のバンド内のトラブルを暗示していたかのようなアルバムタイトルのARBのトラブル中毒。
ラストに収められたファクトリーは、初めての社会人生活の中で、組合というある種政治的ともいえる組織に属することも受け入れなければならなかった自分に、お前は権力側と労働者側どちらの立場を志すんだ?と重く問いかけてくるナンバーだった。
入社後すぐにリリースされたモッズのミニ・アルバムGANG ROCKERは、初めての社会人生活に馴染めていない青年を奮い立たせるには充分すぎるほどのパワーが充満した一枚だった。
この後行われたFILEツアーは、故郷函館、列車で1時間ちょっとの札幌、どちらの公演に駆けつけたかの記憶が曖昧。
その後の夏から秋にかけて日立マクセルのカセット・テープのCM出演、ゴールデンタイムの歌番組トップ・テン出演、シングル激しい雨がのヒットで、モッズが日本のロックをメジャーに押し上げた功績は計り知れない。
CMのコピー「音が言葉より痛かった」は秀逸。
クリント・イーストウッド主演のマカロニ・ウエスタン映画「奴らを高く吊るせ!」にインスパイアされたアルバム・タイトルのHANS UP。
急激な人気上昇に加え、当時はまだ西部劇のカッコよさがわかっていなかった自分には少しだけモッズの存在が遠くに感じながらも、2階建ての独身寮の1階部分が雪で埋まってしまうほどの真冬によく聴いたことは、当時の部屋で撮った写真が証明している。
初回の1983年は少し長くなったけど、こんな感じで40年分を辿っていけたら。
よかったらまたお付き合いください。