グラムロックの雄デヴィッド・ボウイの名を知ったのは今から45年以上も前の小5の時に生まれて初めて買ったLPレコードで、のはずだからロックを聴き始める前、もしかしたら初めて知った海外ミュージャンだったかも知れない。
生まれて初めて買ったレコードというのは恥ずかしながらずうとるびのファースト・ライブ。
ずうとるびは笑点メンバーの山田隆夫を中心とするちびっこ大喜利メンバーで結成したアイドルグループというのは有名な話だが、そのライブ盤でメンバーの新井康弘がボウイのサフラゲットシティを歌っており、見開きジャケットのインナー真ん中辺りに位置したボウイ張りの姿で歌う彼のポートレートと「デビッドボウイそこぬけの新井クン」なんてコメントが印象的だった。
それから2年後、当時夢中になったベイ・シティ・ローラーズのアルバム「恋のゲーム」のプロデューサーがボウイをプロデュースした経歴があるハリー・マズリンであったことと、このアルバムラストにボウイのカバーである炎の反逆(REBEL REBEL)が収めらていたので、かなり早い段階からデヴィッド・ボウイの名は知っていたということ。
そういえばベイ・シティ・ローラーズの解散後、彼らをグラムロックのカテゴリーで再評価しているレビューもいくつか見かけたことがある。
まぁ、そんな早い段階からデヴィッド・ボウイの名は知っていたにも関わらず彼の音楽に直接触れるようなことはなく、彼のレコードを初めて買うまでには1983年に大ヒットしたレッツ・ダンスのシングルレコードまで待つことに。
米英でともにチャート1位を獲得したこの曲は、当時どこのディスコに行っても必ず流されていて、就職したての18歳の若き青年は、ロック好きが高じてということではなく、単なるヒットソングとして手にしたはず。その証拠に、このシングルをきっかけに彼のアルバムに触手を伸ばすなんてことはなかったのだから。
その後、現在に至るまでロック好きという割にデヴィッド・ボウイの音楽に触れることが、いや触れようとしなかったのは、単にそういう気分であっただけということなのだろう。
ここまで記したように、その名が知れ渡った超有名なロックアーティストでありながら長年触れることがなかったデヴィッド・ボウイ。それが何のきっかけだったかは忘れたが(いや、ロック雑誌で目にしたトラビスのメンバーの一人がデヴィッド・ボウイによく似ていたのが心に引っかかってだったのかも・・・)、YouTubeでSTARMANを歌う彼の姿を目にして釘付けになった。いや、もう一人、そのバックでベースを弾くゲイル・アン・ドロシーとともにというのが正解か。
目にしたのは90年代後半、もしくは00年代前半と思われるステージ。自分のイメージの中にあったグラムロックの雄として活躍していた頃の中性的なボウイでもなく、レッツダンスの頃やティンマシーンの頃のようなダンディなボウイでもなく、そこにいたのは派手さはないのに何とも言えぬ色気が伝わってくる50歳を過ぎたロックシンガー。そしてその後ろでキュロットスカートに裸足でスティングレイのベースを弾くスキンヘッドの女性。所謂お色気とは対局の位置にある姿なのに、何故かそのベースを弾く姿がなんとも言えぬほどにセクシー。
激しさはないが、そこにあったのは確かにロック。
それからはこの二人の姿を追ってYouTubeを検索しまくり、CDを何枚か手に入れ、この頃のライブを求めてブートにまで手を出し、というのはいつもの流れ。まぁ、二人のロックする姿がそれだけ素晴らしいものだったということ。
あまりに遅れてボウイ(とドロシー)の魅力の虜になってしまったのだが、この後は、これも遅れてグラムロックに手を染めることになるのか...は、やっぱりこれからの気分次第ってところかな。
それにしても、ドロシー既発のソロアルバムはどれも手を出すのを躊躇ってしまうほどの価格になってるのが残念。