痛覚の鋭い人、というのがいる。
その人は、他人の数倍痛みを感じるから、人が耐えられるような痛みも耐えられない。痛がり方を見たら『そんなに?』『大袈裟な』と言われたりするかもしれない。
でも大袈裟ではない証拠に、その人は他人なら耐えられるはずの痛みのレベルでショック死しそうになったことがある。
本人にしかわからない痛み。
そこには確かに存在する痛み。
悩みのレベルとかもそうだと思っていて。
それほどの悩みじゃないとか、表現が大袈裟とか、言われる筋合いはなくて。
わかんない、本当に芝居して気を引こうとしてる人もいるかもしんない。
でもそれは、そうしないと表現しきれないほど辛いから芝居しちゃったりとか、他人には茶番に見えても本人には真実だったりすると思ってて。
死にたい死にたいって、どうせ死なないんでしょ?
そう思っても、ならどうして、この人は私に死にたいと訴えるんだろう。そして、死ぬことと、死にたいは、別だろう、とか。
私は、考えるわけです。
母が、いつも
『あんたとやってく人は大変だよ』
と言います。
それを、私は、大袈裟だなあってずっと思っていましたが、最近気がつきました。
私は感情表現がすげー極端だと。
今まで言われた言葉に
『悲劇のヒロインぶってる』
『芝居がかってる』
が、あります。
もちろん無自覚だったので、なんでそんなこと言うのかなーと思ってたんですが。
私にとっては本当のことでも、他人には多分信じられない。
『それほどじゃないでしょ?』
『大袈裟な』
最近、ようやく、わかりました。
そのズレにやっと気がつきました。
私が物事を悲観的にとらえてしまったり、『普通ならそんなに落ち込まない』ことで深く悲しんでいたりすると、それは他人にとって大袈裟で、時には攻撃に見える。
自分が悪いと言うことで私に罪の意識を抱かせる作戦なのかしら?
でも実は私はそんなに考えられない。
本音と建前を使い分けられないから。
感情の触れ幅がでかい。
みたい。
そして物事を悲観的にとらえがち。
冷静になってからわかることも沢山ある。感情が振れてるときはその波のただ中にいるからわからないことも、冷静になればわかる。
というか頭のどこかでわかりながら感情に流されるという感覚が近いかも。
思い込んでしまう。
その、思い込んでる状態と、冷静なときとのギャップもまた、私が『気をひくために演技してる』と思われる原因なんだろう。
認識したから、これから少し落ち着く、かもしれない。
認識は私を変えてゆくから。
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