半年以上ブログをサボっておりました(∀`*ゞ)エヘヘ
考えてみると叔父の葬儀から一遍、生活が変わってしまいました。
ホントに大変な一年でした。
何度弱音を吐いた事やら・・・
その度に思う事があります。
こんな時祖母だったらどうだったんだろうと・・・
私の一番最初の記憶は、朝起きるといつも祖母の背中でした。
両親共働きだったので、祖母は私を背負って朝から炊事、庭の手入れ、家事、仕事をしていました。
なので私は、明治生まれの祖母の影響を多分に受けていると思います。
実家に帰るといつも祖母の古いアルバムを見るのが楽しみなのです。
多分、大正か昭和初期から始まっているアルバムかと・・・
一番最初は祖母の新婚旅行の写真と思われる写真が貼られているのです・・十和田湖!
最初の方のページは私の父が写っていないので、推測するに大正時代かと・・・
昔、家で作ったネブタの写真など貴重な写真がいっぱいあります。
何故か去年、叔父の葬儀で帰った時に、いつもは読み飛ばしていた新聞の記事をじっくり読んでみました。
それは戦時中で祖母の事が書かれていました。
祖母はその頃、炭問屋(?)を営んでいました。
戦前ですので、貴重なエネルギーです。
山では炭焼き職人を何人も使って。
その記事自体の内容はちょっと忘れてしまったのですが・・・
その数年前に夫を事故で亡くして、女一人で炭焼き職人さん達の力を借りて、何か成し遂げたって話だったかな・・・何かってww(昔の口語体?の文章なのでイマイチ把握できず)
確か、戦中だったのでお国の為にしたと言う話だったような・・・ww
まーそれはいいんだけど・・・(よくない?w)
私が思ったのは、
夫(祖父)が亡くなる前後に、続けて子供3人(父の兄、姉)を結核で亡くし、続けざまに4人家族を失っている。
祖母は、よく家の為に働いてくれた3人の子供の事をずっと可哀想な事をしたと言っておりました。(そして言う事を聞かない、父を含め3人の子供が何故残ったのかと・・・w)
もし、私だったら・・・と考えると、想像も出来ない・・・
頼りたい旦那も亡くし、女手一つで商売を切り盛りし、残された子供も育てなければならない・・・私だったら耐えられそうにもない・・・
何故私がこの記事に目が止まったかと言うと、その記事が書かれた頃は、祖母は私と同じ位の年齢かと思ったから。
なので、弱音を吐く度に祖母はもっと大変だったんだ。こんな事で弱音を吐いてはいけない。こんな時祖母だったらどうしただろう?
といつも祖母に置き換えて考えていました。
あの記事を見つけたのも、今後起こる事を予見していたのかも・・・
お陰で何とかここまでやって来ました。
でも私はまだまだ弱い・・・
もっと精神的に図太くならなきゃ・・・
(そう見えないと思いますがw)
少し話はそれますが、祖母は戦時中のそんな大変な時に、炭焼き職人の息子さんを援助して帝大に入れたのです。
2年前に亡くなりましたが、有名な大学教授になり、経済学の一人者、そして小説家。
その自叙伝にも祖母の事が書かれていました。
青森に帰って来る度に家に来ては祖母に
「おばさんのお陰で大学に入る事が出来、ここまでやって来れました」と手を取って話す姿が今でも焼き付いています。
そして夏のネブタ祭りの時は、足腰の悪い祖母を支えて、祭りを見せてあげたり・・・
普通の人には出来ない所作。
自叙伝を読んでみると、ホントに貧しい生活だったようです。
家で炭焼き職人をしていたのですが、東京に行く事になり、東京では息子達が優秀だった為、学校に行かせてあげたいと祖母に頼んだようです。
確か、息子二人が帝大(東大)に入ったはず・・兄の方は早く亡くなったけど・・
そして援助してあげた恩返しは、祖母が死ぬまで続きました。
ホントに昔の人は立派だったな・・・と・・・
私だったら自分の生活も精一杯なのに、そんな事出来るだろうか・・・
(父もその次辺りの大学なのだが、祖母は帝大は知ってるけど、父の大学は知らないらしく学費は父が払っていたので、いつも父は「何であの人には援助して、俺には・・」とこぼしていましたwなので兄が受験の時頼んだらどうだ?と言われたけど、父がきっぱり断った!頑固者!アフォーw)
そして今でも私は祖母の恩恵に預かっています。
今も何故か私名義の定期が出て来たり・・・ホント不思議!
もう亡くなって何十年も経ってるのに。
去年1年は、私にとっては大変だったけど、こんな事で弱音を吐いたらダメだな・・・
今年一年も色々学ぶ事になると思います。
去年よりももっと強い人間になりたいと思います。
P.S. いつもアホな事ばかり言ってるのにつまらない事を書いてすみませんwすぐ戻りますからww
では、今年一年もよろしく♪

