【トリップ茶道】
私は、二年ほど前の梅雨時、とある保守系代議士の紹介である秘密の゙茶会″へ招かれた。
茶会というのは、文字通り、茶室に入って茶道の流儀にのっとって茶を楽しむ、茶の湯の会のことである。
秘密の茶会であるから、あまり詳しく書くことはできないのだが、郵送されてきた案内状をたよりに、とある茶道家元の邸宅へ行くと、打ち水のしてある露地へ案内された。
砂利を打った中に飛び石関守石といったものが配置された風情ある風景の向こうに小さな一棟の茶室が見える。
「露地」とは、茶室と結び付いた庭のことで、法華経の世界では、そこは煩悩から抜け出した悟りの場所である―というようなことを、案内係の若い茶人は私に教えてくれた。
「露地は浄土の象徴で、その奥にある茶室は、浄土の中のさらなる浄土を意味し、路地の飛び石づたいに一歩一歩足を進めることは、即ち、極楽浄土への道そのものなのです―」
若い茶人は深い静けさをたたえた瞳でからぶきの小さな茶室のまえに到ると振り返って私の目の中をのぞきこみ、もう一度同じ言葉を繰り返した。
は、はい。私は反射的にうなずいたのだが、その実、その段階では茶人の言うことの本当の意味はまったく理解できていなかったのだと、今にして思う。
にじり口から腰をかがめて茶室に入ると、そこは四畳半の広さであった。拘置所や刑務所の独房が三畳半であるから、四畳半というのは、ひとつの催しが行われる空間としてはいかにも狭いが、茶の湯の世界では、その狭い空間で茶をたしなむことによって、人は空間と時間を越えて無限の宇宙に通じることが出来るとされている。
茶道を、婦女子のための単なる礼儀作法のお稽古ごと、と考えている人も多いと思うが、私はそう捉らえてはいない。
静寂の支配する茶室という非日常的な空間に身を置いて精神を極限まで研ぎ澄まし、作法通りの同じ所作を、何年も何十年も繰り返し繰り返し反復し続けることで、人はある種の「境地」に達することができるのではないか…。
私は茶道が人間の精神にもたらす可能性に期待して、秘密茶会へ招かれたその日まで、約二年半にわたって茶の湯に精進していたのだが、しかし、私はそれまで一度たりとも、茶席において、その境地に到ることは出来ていなかった。
招かれた茶室の床には白雪芥子が活けられていた。目を移すと壁に、歴史的茶人の書が墨痕鮮やかに飾られていたのだが、その掛け軸の詳しい説明はこの茶会の匿名性にもとると思われるので省略させていただきたい。
香炉、釜、水指し、茶杓などもとても由緒のある銘品であったのだが、それも詳しい描写を遠慮させていただく。
席の内には私の他に招かれた客が三人いた。いずれも50年配の立派な紳士達であったが、茶席はまず、香を聞くことからはじまった。
漢方薬を練ってこしらえてあると思われる褐色の香が薫かれると、今まで聞いたことのないような鮮烈な香りが席内に漂う。客人達は無言で順次香炉をまわし、顔を近づけて香を聞く。
鮮烈かつ深い香りだった。
その後も、作法通りに粛々と所作が繰り広げられた。茶杓、茶筅が静かに動き、湯が汲まれ、そして茶がたてられる。
静かだが、日常から逸脱した茶室ならではの時間。
ゆっくりした、しかし張り詰めた雰囲気の中、私は家元のたてた茶をすすり、正面を見た。
白雪芥子の花が美しかった。
客それぞれが家元の茶を順次いただく間、私は心を静かにし、いつもね茶席でもそうするように精神を集中させ、境地を垣間見ようと、じっと無心で床にある芥子の花を見据えていた。
すると、その時である。予想だにしなかったことだが、突然、芥子の花がぐにゃり、と曲がった。
あっ! うっかりあげそうになった小さな悲鳴をあやうく飲み込むと、今度は壁に掛けてある書がゆっくりと生きもののように動き出し、私はまるである種の幻覚系薬物をキメているかのような錯覚に襲われた。
と同時に、オピウムを吸った時のような深くあたたかい充足感に全身が包まれはじめた。
お、お、おや、いったい私はど、どうしたと言うのだろう?全身がぐらり、と傾き、天井の板目が私を吸い込むかのようにぽっかりと開いて見えた。
私は、二年ほど前の梅雨時、とある保守系代議士の紹介である秘密の゙茶会″へ招かれた。
茶会というのは、文字通り、茶室に入って茶道の流儀にのっとって茶を楽しむ、茶の湯の会のことである。
秘密の茶会であるから、あまり詳しく書くことはできないのだが、郵送されてきた案内状をたよりに、とある茶道家元の邸宅へ行くと、打ち水のしてある露地へ案内された。
砂利を打った中に飛び石関守石といったものが配置された風情ある風景の向こうに小さな一棟の茶室が見える。
「露地」とは、茶室と結び付いた庭のことで、法華経の世界では、そこは煩悩から抜け出した悟りの場所である―というようなことを、案内係の若い茶人は私に教えてくれた。
「露地は浄土の象徴で、その奥にある茶室は、浄土の中のさらなる浄土を意味し、路地の飛び石づたいに一歩一歩足を進めることは、即ち、極楽浄土への道そのものなのです―」
若い茶人は深い静けさをたたえた瞳でからぶきの小さな茶室のまえに到ると振り返って私の目の中をのぞきこみ、もう一度同じ言葉を繰り返した。
は、はい。私は反射的にうなずいたのだが、その実、その段階では茶人の言うことの本当の意味はまったく理解できていなかったのだと、今にして思う。
にじり口から腰をかがめて茶室に入ると、そこは四畳半の広さであった。拘置所や刑務所の独房が三畳半であるから、四畳半というのは、ひとつの催しが行われる空間としてはいかにも狭いが、茶の湯の世界では、その狭い空間で茶をたしなむことによって、人は空間と時間を越えて無限の宇宙に通じることが出来るとされている。
茶道を、婦女子のための単なる礼儀作法のお稽古ごと、と考えている人も多いと思うが、私はそう捉らえてはいない。
静寂の支配する茶室という非日常的な空間に身を置いて精神を極限まで研ぎ澄まし、作法通りの同じ所作を、何年も何十年も繰り返し繰り返し反復し続けることで、人はある種の「境地」に達することができるのではないか…。
私は茶道が人間の精神にもたらす可能性に期待して、秘密茶会へ招かれたその日まで、約二年半にわたって茶の湯に精進していたのだが、しかし、私はそれまで一度たりとも、茶席において、その境地に到ることは出来ていなかった。
招かれた茶室の床には白雪芥子が活けられていた。目を移すと壁に、歴史的茶人の書が墨痕鮮やかに飾られていたのだが、その掛け軸の詳しい説明はこの茶会の匿名性にもとると思われるので省略させていただきたい。
香炉、釜、水指し、茶杓などもとても由緒のある銘品であったのだが、それも詳しい描写を遠慮させていただく。
席の内には私の他に招かれた客が三人いた。いずれも50年配の立派な紳士達であったが、茶席はまず、香を聞くことからはじまった。
漢方薬を練ってこしらえてあると思われる褐色の香が薫かれると、今まで聞いたことのないような鮮烈な香りが席内に漂う。客人達は無言で順次香炉をまわし、顔を近づけて香を聞く。
鮮烈かつ深い香りだった。
その後も、作法通りに粛々と所作が繰り広げられた。茶杓、茶筅が静かに動き、湯が汲まれ、そして茶がたてられる。
静かだが、日常から逸脱した茶室ならではの時間。
ゆっくりした、しかし張り詰めた雰囲気の中、私は家元のたてた茶をすすり、正面を見た。
白雪芥子の花が美しかった。
客それぞれが家元の茶を順次いただく間、私は心を静かにし、いつもね茶席でもそうするように精神を集中させ、境地を垣間見ようと、じっと無心で床にある芥子の花を見据えていた。
すると、その時である。予想だにしなかったことだが、突然、芥子の花がぐにゃり、と曲がった。
あっ! うっかりあげそうになった小さな悲鳴をあやうく飲み込むと、今度は壁に掛けてある書がゆっくりと生きもののように動き出し、私はまるである種の幻覚系薬物をキメているかのような錯覚に襲われた。
と同時に、オピウムを吸った時のような深くあたたかい充足感に全身が包まれはじめた。
お、お、おや、いったい私はど、どうしたと言うのだろう?全身がぐらり、と傾き、天井の板目が私を吸い込むかのようにぽっかりと開いて見えた。