元号が変わって間もなく、父がこの世を去った。77歳。ステージ4の肺腺がんと告知されてから3年頑張ったが、どうしても口から飲み食いできなくなると、急速に痩せ衰えて逝ってしまった。


 けれど、あまりにもすんなりと日常生活に戻れてしまう、映画や小説の中の「息子」のように父の死を哀しめない自分がいる。そんな自分に対して人として何か欠けたものをモヤモヤ感じつつ2度目の月命日を迎えたころ、わだかまりの輪郭がくっきりと浮き彫りになってきた。晩節の父は、どうしてネット右翼的な思想に染まってしまったのだろうか? 

 

 


■遺品PCに残された多数の右傾コンテンツ


 遺品整理として父のノートパソコンの中を覗くのは、大きな心理的苦痛を伴う。ブラウザのブックマークを埋める、嫌韓嫌中のコンテンツ。偏向を通り越してまず「トンデモ」レベルな保守系まとめサイトの数々。生前の父は立ち歩けなくなる直前まで地域福祉や住民のネットワーク作りに奔走していたが、デスクトップにはそうした業務のファイルに交じって、ファイル名そのものが「嫌韓」とされたエクセルデータがあり、中身はYouTubeのテキスト動画リストだった。


 はじめは、あれ?という違和感程度だったように思う。末期がんの告知を受けた後、それまでは年に1度2度帰る程度だった実家に毎月顔を出して、月に1度の診断に車を出して同行するようになった。


 久々に帰った実家で、几帳面に整理された父の書斎のデスクや枕元に何げなく置かれた「正論」「Will」などの右傾雑誌の数々。その頃は、相変わらず知的好奇心の幅が広い男だなと思った程度だったのだ。


 父はとにかく多方面に好奇心を示す人物だったし、退職しても即座に語学留学で長らく中国に滞在するような向学心の塊だったからだが、そこから毎月顔を合わせるようになると、毎回のように僕は父の小さな言葉に傷つけられることになった。


 病院に少し声の大きな集団や服装に違和感のある人々がいると、「あれは中国人だな」とつぶやく。「最近はどこに行っても三国人ばっかりだ」と、誰に向かうでもなく言う。

「火病ってるなんて言うだろ。なんでも被害者感情に結びつけるのは心の病気だな」 

 
 中韓に向けての露骨な批判を口にする父に、言葉を失った。ファビョってるなんて言葉を使う時点でどんなコンテンツに触れているかがわかるし、あたかもそれが誰にでも通じる共通言語かのように語る時点で、閉鎖的なコミュニティの中で父が常識を失っていることを感じた。

 
 排外思想だけではなく、話題そのものが保守系まとめサイトのタイトルに出てきそうなワードで始まるようにもなった。テレビを見ながら、リベラル政党の女性議員に投げかけられる口汚い言葉は、「SAPIO」あたりの言説をコピーしたかのようだった。言葉の端々に「女だてらに」「しょせん女の脳は」とくるたびに、血圧が上がりそうになる。「シングルマザーが増えたって言うけど、それは安易に結婚して安易に離婚する女が増えただけだろう」 「自己責任がなくなって国がすべての責任を背負えばこの国は滅ぶな」 「ブラック企業がどうとか通勤がつらくて働きに行けないというのは甘えだな。僕らの世代で片道2時間半は当たり前だった」

 
 今春。いよいよ痩せ衰えた父を病院に送る車の車窓から、黄色い花が見事に咲き誇るのが見えた。

「お、チョウセンレンギョウ咲いた。あれうちの玄関にも植えたよ」

来年の開花時期には父は生きていないだろう。そんな気持ちを胸に僕が言うと、助手席の父は「チョウセンはつけなくてもいい」と返した。そうした父の言葉のすべてを、僕は黙ってスルーした。

 

 ちなみに僕の実家には、母が買ってきた僕の著作がすべて揃っている。テーマは殆どが、女性や若者と子どもの貧困問題。蔓延する自己責任論を払拭したい、見えないところで苦しんでいる声もない人々の言葉を代弁したい、そんな願いを込めて書いた書籍が並ぶ本棚のある実家のリビングで、父は偏向発言をつぶやき続けた。

 

 ベッドから起き上がって身体を縦にしていることが難しくなっても、枕元のノートパソコンから垂れ流されるのは、YouTubeのテキスト動画。薄暗い部屋の中、どこぞのブログやまとめサイトからペーストされたヘイトなテキストが平坦な音声で読み上げられる中、小さな寝息を立てる父の寝室は、ホラー映画のワンシーンみたいだった。

 

 そんな父に対し、最後の最後まで心を開かず、本音を自己開示しなかったのは、可愛げのある息子にはどうしてもなれなかった僕にできる、それが最後の親孝行だと思ったからだ。

 

 


■高度成長期を駆け抜けた昭和の会社員


 晩節の父は、がんと同時にヘイト思想の猛毒に侵されていた。けれど、かつての父は、世の中のあらゆる知識を求めるような、フラットな感覚の持ち主だったはずだ。子ども時代に我が家にあったジャンルを選ばぬ蔵書は、僕をいまの仕事に導いた大きな要因でもある。小学生から有吉佐和子の『複合汚染』やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読みふけることができ、「現代用語の基礎知識」や「イミダス」が当たり前のように毎年買ってあった。「わからないことをそのままにしない」「多くの人が言う『当たり前』を鵜呑みにしない」の家訓は、今も僕の芯を貫く根幹だ。

 

 父のことを好きではなかったが、高潔さと愉快さを兼ね備えた思慮深い人物だったとは思っている。ならばなおさら、どうしてそんなにも父は偏向してしまったのだろうか。父の死をあまり哀しめない中、心の隅で考え続けた。

 

 父は戦中生まれで、農村への疎開を経て終戦後は名古屋の戦災復興住宅に暮らした。押し入れの奥が土壁で、穴から向こう側が覗けたらしい。だが誰もが貧しい中、玄関先を訪れる飢えた戦災孤児にたびたび施しをする祖母は、父にとって誇りだったという。小さなころは、とにかく腹いっぱいになった記憶がなく、父とその兄が歩いた後にはカエルが一匹も残らなかったと笑っていた。

母とは大学時代に知り合い、それなりに熱烈な恋愛結婚をして、トイレや炊事場も共同のアパートから2人暮らしを始めた。月末に金がなくなるたびに母の実家に転がり込んだという。

 

 高度成長期を会社員として駆け抜け、昭和の歌に出てきそうな花壇のある小さな平屋を一軒建て、それを上手に転がして新興住宅地に綺麗な注文住宅を建てた。自家用車は小さなスバルが社用車の払い下げのコロナになり、クレスタから3ナンバーのプリメーラになった。

典型的な昭和の会社員像だろう。単身赴任が多くてほとんど家庭には不在なるも、博打はせず女遊びもなく酒は好きだが深酒はせず、母にも僕ら子どもにも経済的な不安を感じさせることがなかった。

 

 「徹底的に性格や生き方が合わない」という理由で僕は早々に家を飛び出て勝手に貧乏のどん底に落ち込んだ時期もあったが、それは父とは別の話だ。確かに僕との相性は良くなかった。けれど、元々の父のパーソナリティがそれほど毒々しいものであったとは、とても思えないのだ。

 

 


■古き良き美しいニッポンに対する喪失感

 

 父がこの世を去って、昔の父を思い出した。そしてそのことで、ようやく彼の気持ちに思いを馳せることが出来たように思う。

 

 ああ、たぶんこれだろう。

 父の中には、間違いなく大きな喪失感があったと思うのだ。父が喪失したように感じていたのは彼が子どもの頃に過ごしていた、若き日に見ていた「古き良きニッポン」だ。シンプルで、みんながちょっとずつ助け合わなくてはやっていけないぐらいにみんなちょっと貧しくて、たまに食べる外食のラーメンがとても贅沢で、仕事のあとに会社の仲間たちと飲む瓶ビールがとても冷えていて、頑張れば頑張っただけきちんとお給料に反映されていた、そんなニッポンを父は愛し、常に懐かしんでいた。


 父と母の住む実家は千葉県内の典型的なベッドタウンだが、毎月父を助手席に乗せて病院に向かう道は、ちょっとバイパス道を外れると車がすれ違うこともできない畦道や森林の中に迷い込む。「ガンが増悪しています」の言葉を主治医から聞くか聞かないか、毎月胃の痛くなるような検査発表の帰り道、父は敢えてそんな小道を走ることを望んだ。


 市街化されていない村落の中で祭られている小さな神社や、思いがけず現れる立派な寺院で車を停めて、季節の草花を見たり、苔むした石碑の碑文に指を這わせるのだ。


 同じように父は東京の路地裏や、小さな飲み屋を愛した。そして同じ空気の流れる台湾の屋台や昆明の夜市もまた愛していた。こうした旅先や、父が青春時代を過ごした目黒区内の地理を話すとき、父はとても饒舌になる。かつて住んでいた友達、かつて通った店、今はない景色、自転車で走り回った道のことを語る父。

 
 そんな時、痩せて尖っていく父の肩に、忌むべきヘイトジジイの影はなかった。村落の風景から子ども時代に過ごした名古屋の疎開先を、そして転勤の多かった祖父に連れられて過ごしたあちこちの地方の景色を、かつての東京の街を思い起こしていたのだろうと思う。

 
 その喪失感というか慕情のようなものは、僕にも少し理解のできる感情だ。僕自身は1973年生まれだから、バブル経済突入前の日本の記憶がある。母も父も実家は都心だったから、東京に子ども時代の景色がないことを、寂しく思うことがあるのだ。薄暗い夜の道、水たまりのある隘路や、赤ちょうちんから漂う焼き鳥の香り。古いゲームセンターのドアを開けた途端に身体を包むクーラーの冷気と煙草の煙とPSG音源。不謹慎ながら、東日本大震災後の計画停電で東京都内が薄暗くなった時は、心底ホッとしたものだ。

 
 もちろん、父が慕情を寄せていた景色と僕の思うものはまた違うだろう。そうしたシンプルだった時代の日本には、人権を認められず差別の対象になってきた多くの社会的弱者の涙があって、未発達な医療が救えなかった小さな命もあって、それこそ人口の半分である女性が自分の人生に自己決定権を持てなかった時代でもある。そんなことを考えると、どっかの為政者が言ってる「美しいニッポン」なんて絶対なかったし、幻想に過ぎないと断言したくなる。

 
 けれども、父の中では、古き良き美しいニッポンに対する慕情や喪失感は確実にあったのだ。その気持ちに思い至って、ようやく腑に落ちた。偏向言説者に変節したのちの父の中では、その美しかったニッポンに対する喪失感が、「それは何者かによって奪われた」「何かによって変えられてしまった」という被害者感情に置き換えられていた。その被害者感情こそが、以前の父からは感じられなかったものだったと気づいたとき、僕の中に「父は何者かに利用され、変えられたのだ」という答えが浮き彫りになってきた。

 
父は、その胸に抱えていた喪失感を、ビジネスに利用されたのだ。父の歴史を喰い荒らしてくれた輩がいたのだ。冷え冷えとしていた心の中に、猛然と怒りの感情が込み上げてきた。

 

 

 


■それでも「情報に触れていたかった」

 
 出版物にせよWEB上のものにせよ、ヘイトな右傾コンテンツの根本は、今や思想というより「商業」になっている。それは基本、金儲けの手段だ。商業的に瀕死状態にある紙媒体が、「最も紙媒体を消費し、最も金を持つ層」として高齢男性をターゲットにするのはマーケティング的には全く正しいこと。その層に響くコンテンツとして健康情報や「どのように死ぬか」と同列に「右傾コンテンツ」があるのも、やはりマーケットとして有望だからだ。

 
 売ることを優先した右傾コンテンツには容赦がない。古くからある保守言論本ならまだしも、粗製乱造されたネット右翼本はエビデンスに乏しく、「あなたたちが懐かしく思っている美しいニッポンが失われたのは、戦後のGHQ統治下で “作られた憲法” や、中韓による “歴史の改変” のせいである! ニッポンは失われたのではなく “奪われ捻じ曲げられた” のだ!」といった論調で読者の喪失感を被害者感情に昇華することで、大きなマーケットを生んできた。

 

 「どうしてこんな事になってしまったのだろう」と喪失感に沈むことより、視野に明確な敵の像を結んで被害者意識をぶちまけさせたほうが、人の快楽原則には忠実だからだ。

 
 父の偏向も、入り口はそんな出版物だったのだろう。けれども長引いた抗がん剤治療で徐々に衰えていく中、枕元の本は「正論」や「諸君」から「Will」や「Hanada」といった読みやすく過激なものへと移り、ついに父からはそうした出版物を買いに行く体力も、その活字を読み切る精神的体力すらも奪われていったようだった。

 
 買いに行かなくても手に入るのが、ネットのコンテンツ。そして文字を読まなくても音声で読み上げてくれるテキスト動画。衰弱するほどに、父の触れるコンテンツは粗悪なものに偏り、その衰弱の経緯は父のパソコンの中に刻まれている。

 
 父のブラウザのお気に入りは、古いものでは代表的右傾コンテンツである「チャンネル桜」の動画などが多かったが、末期に閲覧が多かったのは主にヘイトなテキスト動画が中心だった。

 
 言わずもがな、再生回数を収益根拠とするそれは「営利配信物」。最近は内容がオカルト・フェイクすぎてYouTube側から収益無効化の対象にされるほどの卑俗なコンテンツだが、もう父はそれを聞き流し関連動画を巡るだけで、そのファクトを調べる力すら残されていなかったのだろう。

 
 体力と共に認知や思考力が失われていく中、その醜い言説が父を蝕んでいった。

 
 それでも、それほどまでに弱っても、そんなに卑俗な内容のものであっても「情報に触れていたかった」。そんな父の知的モチベーションは確かにかつての父そのものだ。けれども、あの僕を傷つけ続けてきた偏向発言が、そうして衰える父を食い物にしたコンテンツの余波だと考えたら、僕の中にも少々抑え難い感情が湧き上がってくる。

 
 父と僕に本音を語りあう機会は、何をしても訪れなかったかもしれない。だとしても、せめて互いに共通する心情を分かち合うだけのゆとりが欲しかった。だが無念にも、毎月の通院付き添いという、なんとか作りだした父との時間は、こうした劣悪極まるコンテンツによって、醜く汚されてしまった。

 
 その時間はもう、取り返しがつかない。

 
 特に僕らの世代では、父と子の間の自然な距離感はなかなか望みづらいと聞く。企業戦士は家庭に不在でも許された時代、僕自身もほぼ母子家庭育ちのような認識がある。そんな距離感のある父親が「正月に実家に帰ったらネトウヨ化してました」というのは、ひとつ定番の経験になりつつあるだろう。

 
 そうした父らの背景には何があるのか。老いたる者が共通して抱える喪失感を巧みに利用するコンテンツや、認知と思考の衰えにつけ入る安易で卑俗な言説。そうしたものによって先鋭化させられたイデオロギーが父と僕を分断したならば、父も、そして息子の僕も、そんな下賤な銭稼ぎの被害者だったのかもしれない。

 
 貪欲な向学心を持ち、時代の波にそれなりに揉まれ、10年ぐらい同じセーターを着続けてご立派なコース料理よりラーメンと餃子を選んだ、どこにでもいるオヤジだった父を想う。こんな形で彼を失ったことを、息子はいま、初めて哀しく悔しく感じている。

 
 梅雨が開けるタイミングで納骨だ。墓石に語りかけたい言葉が、徐々に頭の中でまとまってきた。

 

 


鈴木大介(すずき・だいすけ)
 子どもや女性、若者の貧困問題をテーマにした取材活動をし『最貧困女子』(幻冬舎)などを代表作とするルポライターだったが、2015年に脳梗塞を発症して高次脳機能障害当事者に。その後は当事者としての自身を取材した闘病記『脳が壊れた』『脳は回復する』(いずれも新潮新書)や、夫婦での障害受容を描いた『されど愛しきお妻様』(講談社)などを出版する。著作『老人喰い』(ちくま新書)を原案とするテレビドラマ「スカム」がMBS毎日放送、TBS系列で放送中。

 

 

 

 

 

 

Daily SHINCHO
政治2019年7月25日掲載

 

 

 

 

 

 

 





ヤフーブログのサービスは、記事更新は今日で終わりになります。わたしのブログを訪れてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。クサいんですが、最後の更新は、わたしの座右の銘で閉めるというありふれた幕引きにしたいと思います。



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世にはわれわれの力の及ぶものと、及ばないものとがある。

われわれの力の及ぶものは、判断、努力、欲望、嫌悪など、ひとことでいえば、われわれの意志の所産のいっさいである。われわれの力の及ばないものは、われわれの肉体、財産、名誉、官職など、われわれの所為(せい)ではないいっさいのものである。

われわれの力の及ぶものは、その性質上、自由であり、禁止されることもなく、妨害されることもない。が、われわれの力の及ばないものは、無力で、隷属的で、妨害されやすく、他人の力の中にあるものである。

それゆえ、君が本来隷属的なものを自由なものと思い、他人のものを自分のものとみるならば、君は障害に遭い、悲哀と不安に陥り、ついには神を恨み、人をかこつことになるであろうことを忘れるな。

これに反して、君が、真に自分の所有するものを自分のものと思い、他人のものを他人のものと認めるならば、誰も君を強制したり、妨害したりはしないだろう。君は誰をも恨まず、非難せず、またどんな些細なことをも自分の意志に反してなす必要はないであろう。



(「幸福論」/ ヒルティ・著/ 第2章エピクテトスより)

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わたしたち日本人はこれまで、学校卒業後、終身会社員・役人となるのが人生の到達点、女ならばその妻に収まることが人生の到達点だと信じてきました。平成時代にそれが崩れて日本人は貧困になったという論調が今でも見られます。

しかし、小熊英二慶応大教授の最新刊「日本社会のしくみ」によれば、昭和時代でも、正社員となって定年まで勤めあげた人は、1950年代生まれの人びとで34%だったことが明らかにされました。この本はまだ読んでいる最中なので、ここから何か言うことはまだできませんが、終身雇用の身分であっても、日本人は決して「生まれてきてよかった、幸せ!」なんて思えなかったのです。

だって、いまでこそDVやモラハラは問題視されつつありますが、昭和30年第40年代は、「暴力は愛の証し」とさえみなされていたのです。最近問題になった、父親が娘を性的に搾取し続ける、などという事件も今と同じくらいあったのですが、表面化しないようにフタをされていました。男はこうあるべき、女はこうあるべきなどの規範の拘束力は今よりもっと強く、日本人はずっと息苦しかったのです。そしてそういう息苦しさのはけ口が、子どもに向かったり、社会に向かったりして、過干渉や暴力沙汰の深い原因となっています。

わたしたちは学歴を積み上げ、大企業や国家公務員の一員となるべく、そしてその中でも出世していくことで自分という人間に価値が生まれ、生きてきた甲斐というものがつくりあげられる、と信じてきましたが、上記引用文では、それこそが「自分の力の及ばないもの」であり、「他人に属するものである」ゆえ、それを得ようとすると、隷属しなければならず、他者への隷属は不満や不安、絶えず障害に遭い、人間への信頼が壊れ、神、運命、社会という漠然としたものを恨み、心理的に病ませてしまうものだと指摘しているのです。

人ひとりを評価する試験にしろ査定にしろ、それは他人が決めるものです。また、顧客の理不尽な要求や仕打ちにも、意見する会社はないでしょう。黙って耐えるのみです。「隷属」の典型例です。日本人が伝統的に従ってきた因習は「自分の力の及ばないもの」を得ようとさせるものなので、人間を不幸にするのです。

「自分の力の及ぶもの」、自分の意志、自分の感覚、自分の志向といったものを大切にすることが人を他者からの支配、ハラスメントから自由にします。「一人前であるためにはかくあるべし」という日本の伝統的価値観にとらわれず、それを断ち切り、自分を大切にすることが、社会を恨んだり、人への不信感から解放されるただ一つの道なのです。日本の伝統的価値観とされていた「終身雇用」を全うした人が昭和時代でも4割に届かなかったことは、「伝統」の権威に十分疑問を抱かせるものでしょう。他人からの中傷や侮辱を気に病むのは、他人の評価を追い求めてているからですが、「それはあの人の意見」と切り離して自分を信じるのは「自分の力の及ぼす」ところだからです。

日本の伝統は、実は伝統といえるほど古いものではなく、明治時代に伊藤博文たちがつくった教義が昭和の帝国陸海軍の精神主義で過激にされた滅私奉公をベースにしているものなので、人間を決して幸福にしません。この閉塞した日本の世の中の空気を打ち破るには「自分の力の及ぶもの」を大切にすることです。わたしは息をしている限り、それを訴え続けたいと決意しています。

ではみなさん、お元気で。


















◆傍観 その先にある損失

 内心に募る否定的な感情を、他者にぶつけて憂さを晴らそうとする人が増えているように感じる。その最悪の例が、京都での無差別放火殺人かもしれない。

 もちろん、そういうところまでいってしまう人は、まだ社会のごく一部だろう。だが犯罪行為ではなく、政治的なトピックの場合には「自分たちだけが正しく、相手だけが間違っている」という一部の過激な主張に、その外側にいながら何となく同調してしまう人が、市井の普通の人にも増えている感じがする。彼ら自身は否定的な感情を大人げなく他者にぶつけはしないのだが、誰かの排他的で視野の狭い行動を「そうはいっても相手の方がより悪いよな」と、何となく許してしまう。

 そういう人こそ気付かなければいけない。「相手側から自分たちがどう見えているか」についても考えないと、結局は自らの利益を損ねる可能性があることを。

 日本の韓国に対する、一部製品の輸出に関する優遇措置剥奪のニュースを、何となく肯定的に受け止めている人たちは典型例だろう。



    ◆   ◆    

 今回、日本政府には「韓国から第三国へ不正輸出が行われている可能性が否定できない」という表向きの理屈がある。しかし、文在寅(ムンジェイン)政権の経済失策で弱り切っている韓国国民の、心中の機微を理解しないままにさらにプライドを傷つけるのは、日本にとっておよそ得策とは思えない。

 日本だって自分が当事者でなければ「判官びいき」だ。だから分かると思うのだが、日本の理屈が世界から「弱い者いじめの自己正当化」とみなされる危険性は十分にある。

 駆け引きにしてもやり過ぎに見えることから考えて、外務省ではなく首相官邸-経済産業省ラインが主導したのだろうが、それで世界貿易機関(WTO)は通るのか。韓国による東北産水産物の輸入規制をWTOが是認したのは記憶に新しい。連敗した場合、政権に責任を取る覚悟はあるのだろうか。

 もちろん、コアな嫌韓層はそれでも満足だ。彼らには「韓国を懲らしめてやれ」という強い処罰感情がある。だがその根っこにあるのは、ストレスに満ちた日本社会の中で抱え込んだ個人的な敗北感を、自分が「強者」の側に立って攻撃することで発散したいという欲求ではないか。



    ◆   ◆    

 普通の国民は、嫌韓派の極論に「もっともな面もあるな」と何となく同調してしまってはいけない。

 そもそも嫌韓と反日の応酬で得をするのは誰なのか、考えてほしい。徴用工問題で被告にされている、日本企業の担当者は喜ぶだろうか。両国の関係がこじれるほど、いけにえにされていじめられるだけではないか。

 輸出規制の対象企業はどうか。韓国企業が日本に頼るリスクに気づき、独自の技術開発にまい進するほど、今の独占的地位を失う危険が大きい。それらに該当しないあるハイテクメーカー関係者も「韓国への輸出減で大損害だ」と漏らしていた。さらにいえば、韓国人観光客が減って九州の誰が得をするのだろう。

 半年前の当欄で「日韓の対立をあおって得をするのは(国内の不満を隣国に向けさせることで延命を図る、日韓双方の)政治家」と指摘した通りだ。そのせいで損をするのは国際競争でもうかっている側、すなわち韓国から昨年だけで2兆円の経常収支黒字を稼いだ、日本のハイテクメーカーと観光関係者である。

 かかる金銭的損害をもたらしたとしても、官邸関係者も、嫌韓の人たちも、決してその責任を取りはしない。一般国民はいつまで、彼らのことを「何となく許し続ける」のだろうか。




 【略歴】1964年、山口県徳山市(現周南市)生まれ。88年東京大法学部卒、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)入行。米コロンビア大経営大学院で経営学修士(MBA)取得。2012年1月から現職。著書に「デフレの正体」「里山資本主義」など。




2019/7/29 11:00
西日本新聞 オピニオン面




更新 2019/7/11 17:00 AERA




 参院選直前に開かれたG20で「外交の安倍」をアピールしようとした安倍首相。 だが主役の座は盟友のはずのトランプ大統領に奪われ、残ったのは「炎上」だけだ。




*  *  *

 昨日まで世界の主役だったはずの安倍晋三首相は、世界が注目する舞台に居合わせることさえできなかった。

 始まりは、6月29日午前8時前、トランプ大統領が大阪から発信したツイートだった。

「もし金委員長がこれを見ているなら、非武装地帯(DMZ)で握手して挨拶する用意がある」

 大阪で開催されていたG20大阪サミット最終日、プレスルームに詰めていた世界各国の報道陣が騒然となった瞬間だった。その2時間後、トランプ大統領の姿はサミット会場にあった。

「ツイッター見た?」

 会議が始まる前、トランプ大統領は、韓国の文在寅大統領に近付き、そう尋ねた。文氏が「はい」と応じると、トランプ氏は「一緒に努力しよう」と親指を立てたという。

 これが事実なら、事実上、わずか2時間の間に3回目の米朝首脳会談実現への流れが決まったことになる。

 もっとも泡を食ったのは日本政府だ。この時点で、G20終了後のトランプ大統領の行動を正確に把握していなかった。当然、米国が日本を脇に置いて、水面下で韓国と歴史的政治ショーの準備をしているとは夢にも思わなかっただろう。

 何しろ徴用工問題をきっかけに、日本と韓国の関係は悪化。日本政府は韓国が要請した首脳会談はおろか、略式会談にさえ応じなかった。日韓議員連盟に所属する国会議員からは「戦後最悪の日韓関係」との声も聞こえてくる。しかし、安倍首相は、現在の日韓関係をあらゆる意味で利用しようとしていると、政府関係者の一人は語る。

「世界の首脳が集まるサミットで、議長国である日本からも相手にされず、孤立している韓国というイメージを作る目的があった。そして、東アジアにおけるイニシアチブは日本にあることを、米国をはじめ世界の国々に見せつけようとしたのでしょう」

 一方、国内的には強気の姿勢を貫いた。サミットでは自由貿易の重要性を訴えながら、韓国に対しては、テレビやスマートフォンに使う半導体材料の輸出規制に踏み込んだのだ。徴用工問題に対する韓国への対抗措置と言われている。

 頭の中にあったのは、参議院選挙だ。

「韓国に対して、どのような態度をとれば支持者が喜ぶかわかっている。とくに憲法改正を念頭に、力強い防衛と外交を選挙公約に掲げる安倍政権としては、現在の日韓関係は選挙が終わるまではむしろ好都合なのです」(同政府関係者)

 トランプ大統領が公式の場で、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と、南北朝鮮を隔てる軍事境界線沿いのDMZで面会する可能性があると発言したのは、G20閉幕後の記者会見の場だった。

「これから文大統領とソウルに行く」

 翌日、トランプ大統領はソウルでの米韓首脳会談を経て、DMZにある板門店へと向かった。日本はこれをただ見守るしかなかった。

 文大統領に促されるようにして、軍事境界線へと向かうトランプ大統領。そして、軍事境界線を挟んだ反対側に立つ金委員長。そして次の瞬間、トランプ大統領は現職の米大統領として初めて、軍事境界線を越えた。トランプ大統領、金委員長、そして安倍首相がG20で徹底的に袖にした文大統領の3人が並んで歩く様子は、大々的に世界に発信された。

 外務省関係者は、この場に日本がいなかったことについて、皮肉を交えて、こう語る。

「トランプ頼みしかない、官邸主導の外交の行き詰まりなんです。米国からも、全く何も知らされていないというのは、日本が軽んじられていると見られても仕方がない。せめて、日韓首脳会談を開催するべきだった。北朝鮮をめぐり、日本は完全にイニシアチブを失った。結局、拉致問題はこれまで以上に米国頼みです」

 北朝鮮をめぐる朝鮮半島の非核化を訴えている核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の川崎哲国際運営委員は「米朝首脳による歴史的な面会は朝鮮半島および、東アジアの平和に向けた重要な一歩」としながらも、トランプ大統領の行動は、常に大統領選挙を意識した行動原理に基づいていると解説する。

「トランプ大統領は、軍事境界線を軽々と越え、朝鮮戦争の終結にも言及していますが、イランの核合意からは一方的に離脱し、米ロ間の中距離核戦力(INF)全廃条約も反故にした。これらは『脱オバマ』という大統領選挙を意識した一貫した行動原理なのです」

 そして、こう続ける。

「朝鮮半島の運命を、極めて一方的で単独行動主義の米朝首脳の手に委ねておくことはできません。特に核兵器に関しては、朝鮮半島全体の包括的、検証可能で不可逆的な非核化を達成する必要があります」

 G20の成果を大々的に宣伝し、参議院選挙に向けてアピールしたかった安倍首相だったが、主役の座は完全にトランプ大統領に奪われてしまった。結局、G20で最も話題になったのは、大阪城の復元時にエレベーターを設置したのは「大きなミス」とした自らのスピーチ。「バリアフリーという概念を持っていないのか」と批判が殺到し、与党内では「オウンゴール」という声もある。(編集部・中原一歩)




※AERA 2019年7月15日号より抜粋

事件 月ヶ瀬村とは? 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や丘崎誠人!
今は消滅している奈良県月ヶ瀬村で、1997年5月、女子中学生が殺害されるという痛ましい殺人事件が起こりました。村社会の闇ともいえる村八分や差別が引き金となったと言われる奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要や犯人である丘崎誠人の人物像にせまります。




■月ヶ瀬村とは?月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要など

 奈良県にかつて存在していた、奈良県月ヶ瀬村という村はご存じでしょうか。この村で村八分と差別が引き金となった、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおきました。

 1997年5月4日、奈良県月ヶ瀬村で月ヶ瀬村に住む、中学2年生だった浦久保充代さん(当時13歳)が、卓球大会帰宅途中に行方不明となりました。村人、警察による懸命な捜索の結果、充代さんのスニーカーが見つかり、付近の道路にはスリップしたような不自然なタイヤ痕、ガードレールには血痕が付着していました。

 さらに近くの西部浄化センターの公衆トイレでは、切り裂かれた充代さんの体操着と血だらけのダウンベストが発見されました。警察はひき逃げや事件に巻き込まれた可能性が高いとして捜査を開始、同年7月23日に月ヶ瀬村に住む当時25歳だった丘崎誠人が逮捕されました。
 
 丘崎誠人は、車で通りかかった帰宅途中の充代さんに「乗っていくか」と声をかけたところ、無視をされて憤慨し激高、そして殺害に至ったとのことです。これが現在、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として日本の犯罪史に名を刻むこととなりました。



■月ヶ瀬村とは?

 月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおこった月ヶ瀬村は、今はもう存在してはいません。それでは今現在の月ヶ瀬村はどこにあるのでしょうか。

 今は存在していない月ヶ瀬村は、2005年(平成17年)4月Ⅰ日、山辺郡都祁村とともに奈良市へ編入されたことから消滅しました。現在は奈良市月ヶ瀬にあたります。
 
 梅まつりが開催され、梅の花が咲き誇る自然豊かなこの地で、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件が起こりました。



■月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要

 犯人である丘崎誠人がおこした月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要は一体どんなものだったのでしょうか。
 
 1997年5月4日月ヶ瀬村に住む中学2年女子が行方不明に

 月ヶ瀬村に住む中学2年生浦久保充代さん(当時13歳)が行方不明となったのは1997年5月4日の事でした。卓球大会の帰宅途中に行方がわからなくなったのです。

 家族が警察へ通報し通学路周辺を捜索

 「夕食の時間になっても充代が帰らない」卓球大会を終えて、帰宅予定時間を大幅にこえても帰ってこない充代さんを心配した母親の博子さん(当時42歳)は午後8時頃に学校へと連絡しました。
 
 事態を重く見た学校関係者、村民、警察による捜索が開始されました。そして、充代さんは見つからないまま最悪の事態へと発展してしまうのです。

 自宅近くの県道で女子中学生の靴を発見

 通学路や充代さん宅の周辺を捜索していると、帰り道の村道脇の川で、充代さんが登校時履いていた物とされるスニーカーが発見されました。

 そして、付近の道路にはスリップによるタイヤ痕が見つかり、さらにはガードレールに血痕が付着しているのが見つかりました。そのため、奈良署は充代さんが交通事故に遭い、その後連れ去られたのではないかとみて、捜査を開始したのです。

 近くの公衆トイレより切り裂かれ血痕がついた衣類が発見

 捜査を開始して、同日夜には西部浄化センターの公衆トイレで、切り裂かれた充代さんの体操着と血だらけのダウンベストが発見され、事件は深刻さを増す一方でした。住民も少なく、訪ねてくる人も限られてくる小さな村で起こった行方不明事件は、瞬く間に村中に広まり、すぐに犯人ではないかと疑われる男が浮上しました。
 
 充代さんを捜索していた人々の中にも、その男の姿はありました。

  犯人と疑われるその男は、丘崎誠人(当時25歳)、浦久保充代さん宅からほど近い場所に住んでいました。
 早い段階から疑いの目は向けられており、自分だけが周囲から違う目で見られていることに気づいていたのか、丘崎まは逃げも隠れもせず、あらか様に疑うマスコミの前で吠えるように威嚇しました。

 よれたTシャツに短パン、サンダル履きの痩せたひげ面の丘崎誠人は、瞬く間にワイドショーの格好の餌食となり、独占インタビューを申し出るマスコミが後を絶たなかったというそうです。

 同村で無職の丘崎誠人が逮捕

 充代さんを跳ねたと思われる車は、早い段階で、そのスリップのタイヤ痕から大型の4輪駆動車であると言うことが特定されていました。

 周辺の該当者はおよそ5千台、その中に丘崎誠人が所有する車(三菱ストラーダ)が含まれていました。しかし所有しているだけでは、充代さんを跳ねて連れ去るという事件を起こしたという裏付けが出来ずに、周囲で丘崎誠人を疑う声が大きくとも逮捕までには至りませんでした。
 
 事件が大きく動いたのは7月に入った頃、丘崎誠人が所有する車を売却したのです。警察はすぐに売却した車を任意提出してもらい、車内の捜索を始めました。

 すると座席のシートから血痕を発見され、充代さんと同じDNAの血痕と判明し、そして、先に発見されていた充代さんの血痕が付着したダウンベストから毛髪がついていた事がわかり、その毛髪が丘崎誠人と同じAB型であることが判明したため逮捕に踏み切ったのです。
 
 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として充代さんが行方不明になって、すでに2ヶ月以上が経過していて季節は春から夏になった7月23日の深夜3時に丘崎誠人は未成年者略取の疑い(このときまだ充代さんは見つかっておらず、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件ではない)で逮捕されました。
 
 連日詰めかけていたマスコミの怒号や丘崎誠人の家族の叫び声に、辺りは地獄絵図のようでした。
 
 発見された被害者

 逮捕された丘崎誠人により、今だ行方不明のままだった浦久保充代さんの遺体が、無残な姿で発見されることとなります。
 
 丘崎誠の供述により被害者が発見される

 丘崎誠人の逮捕により事件が解明されるだろうと思われましたが、充代さんの所在は依然として行方不明のままでした。

 丘崎誠人は逮捕されてから警察の取り調べに応じず、黙秘を続けていましたが、8月1日に何故か突然、事件に関する自供を始めて、三重県上野市の山中から充代さんが変わり果てた姿で遺体となって発見されたのです。奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件として連日多くの報道がされました。
 
 取り調べに応じた理由

 その後の調べで、充代さんは跳ねられ、意識が朦朧としているところ、首を絞められて、それでも絶命しなかったため、その辺に転がっていた大きめの石で顔や、頭を殴り死亡させました。後に頭蓋骨骨折による脳挫傷で死亡していたことがわかりました。
 
 報道によると、取り調べの刑事から、「お盆までに返してやらんか」等の説得に応じたという話や、たまたま隣にいた別の事件の犯人から諭されたという話がありました。そこで心を入れ替えたのか、供述の前日にひげを剃り、意を決したように取り調べに応じたそうです



■丘崎誠人の生い立ちや経歴

 丘崎誠人はが犯行に至るまでに歪んでしまった人格、たまりにたまった恨み辛みは一体どのように形成されていったのでしょうか。生い立ちを見てみましょう。

 朝鮮人と日本人のハーフ

 丘崎誠人の両親は日本人と朝鮮人のハーフで、元より良く思われてなかった二人はダムの労働者として働いていた父親が母親と出会い、内縁関係を続けたまま、村人が物置小屋として使っていた小屋に住み始めました。この頃から、村八分による差別が続くのです。
 
 お風呂もトイレもない物置小屋のような家

 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の背景には丘崎誠人という人物の背景が大きく関わってきます。逮捕前から丘崎誠人は、暴れ怒声を浴びせるという姿を晒し続けていたため、凶暴な常軌を逸した男というイメージが付きまとっていました。

 しかし、事件が解明されていくにあたり、事件の元となる要因は丘崎誠人だけではなく丘崎家そのものに対する、村社会の闇である村八分による差別ではないかと言われ始めました。
 
 丘崎家は家族7人で風呂もトイレもない林の中にある物置小屋のようなところに住んでおりかなり劣悪な環境で育ったとされています。丘崎家は月ヶ瀬村の住民から「チョーセン、チョーセン」と言われ酷い差別を受けていたそうです。

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 丘崎家は村八分だった

 当時の月ヶ瀬村はお茶農家ばかりの村で、別の仕事をしていた丘崎家は村に馴染まない存在だったそうです。さらに月ヶ瀬村の与力制度があり、それに入るには、二人の紹介者がいないと入ることが許されないという厳しい決まりがありました。
 
 昔から住む住民たちの結束が固い月ヶ瀬村で、よそ者であり差別対象である丘崎家は長年月ヶ瀬村に住んでいるにも関わらず、村の与力制度に入ることを許されず、村八分であり差別される状態が続きました。
 
 村で火事が起こったり、祭りなどで現金が無くなった時など、真っ先に丘崎家が疑われるなど、止まぬ差別に丘崎誠人は月ヶ瀬村住人に対し激しい憎悪を持っていったと言えます。

 中学で不登校に

 差別を受け続けていた丘崎誠人は次第に心を病み、誰も近づくこと無く、学校では友達も出来ずに、一人で過ごすうちに、中学2年生になる頃には不登校になってしまいました。
 
 教師がえこひいきという差別をしていて、決定的になったのは花瓶を割った際に丘崎誠人の言い分だけは聞いてもらえず、体罰をするということです。そこがら一切、登校することが出来なくなりました。

 その間、教師が家を訪ねたのが2・3回で、卒業証書はクラスメートに、給食のパンでも届けさせるような感じで届けさせました。
 
 丘崎誠人は、あまりの悔しさから、翌日卒業証書を破り捨て、燃やそうです。ますます丘崎誠人は心が荒んでいきました。

 中学卒業後は奈良県内の測量事務所でアルバイト

 中学を出た丘崎誠人は、同級生らに「この村が嫌いや、出て行ったら二度と戻らん」と話しました。そして、ついに村を出る事にしました。奈良県内にある測量事務所でアルバイトを始めるのです。

 大阪の専門学校へ通うが卒業できず

 測量事務所でアルバイトをして半年ほどがたった頃、丘崎誠人は大阪の専門学校に入学しました。しかし卒業することができずに専門学校を中退、次々と居場所を転々とする丘崎誠人は東京に移り住みます。啖呵を切って月ヶ瀬村でた丘崎誠人にとって現実はそう甘くはありませんでした。
 
 東京へ上京して住み込みの見習い調理師として勤務

 大阪の専門学校を中退した丘崎誠人は、東京で見習い勤務として働き始めました。しかしここでも長くは続きませんでした。
 
 遅刻を繰り返し、注意されるとカッとなって怒りだす丘崎誠人は仕事をすぐに放り出すようになります。丘崎誠人の両親が放任タイプであったため他人から叱られるという経験が乏しく、それが後々の丘崎誠人の人生に暗い影を落とすことになりました。

 1年で仕事を辞めて月ヶ瀬村へ戻る

 住み込みの仕事が合わず丘崎誠人はわずか1年で仕事を辞めて月ヶ瀬村に戻ってきました。18歳頃までは月ヶ瀬村の実家でぶらぶらと過ごしていました。

 しかし、親戚が営む左官会社で修行を始めても、遅刻は常習、些細なことを注意するとすぐに不機嫌になり、またしても続かず、親戚の口添えで働いた工務店でも同じ事の繰り返しでした。
やがて働かなくなり、差別がはびこる忌み嫌う月ヶ瀬村で、テレビゲーム・ビデオ・車ばかりにのめり込み遊んで暮らすようになりました。
 
 そして殺人事件へ

 運命の歯車が狂った1997年5月4日、いつもの通り道で丘崎誠人は、帰宅途中の浦久保充代さんと出くわし、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件へと発展してしまうのです。
 
 蓄積された恨みが爆発

 丘崎誠人は事件の二ヶ月前に、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の引き金となる車、三菱ストラーダを購入。
 
 5月4日、丘崎誠人はなんとなくウキウキした気持ちで車を運転していました。ふと見ると、B地区に帰る途中の充代さんが歩いていました。B地区までまだ距離がある、坂もある、あの子を家まで送ってやろう・・・。ふとそんな親切心、好意が自然と生まれました。
 
 気軽な思いで「乗っていくか」と声をかけたところ、被害者の充代さんは被告人である丘崎誠人をちらっと見ただけで、呼びかけを無視し、返事もしませんでした。

 そして、今まで受けてきた差別による恨みが一気に爆発して、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件を引き起こしてしまうのです。



■月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の判決は?

 逮捕された丘崎誠人の供述により、今まで行方不明だった浦久保充代さんの遺体が見つかり、丘崎誠人は殺人・遺体遺棄の罪で裁判にかけられることとなりました。
 
 殺害動機は差別や村八分による怒り

 奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件を引き起こした被告人である丘崎誠人は、被害者の浦久保充代さんに親切心で声をかけたのに無視をされ、激高ししました。そして、歩いている充代さんの背後から車で轢いた後、発覚を恐れて近くの公衆トイレで頭部と顔を、石を使い数回に渡り殴って殺害しました。
 
 記録によると丘崎誠人の供述で

 「顔見知りの私が親切に声をかけているのですから、せめてお爺さんが迎えに来ますから結構ですとか、家がすぐそこですので結構ですとか一言断ってくれたら、腹が立つ事は無かった」

 「このようにして自分を無視した充代さんとB地区全体の人間に対する憎しみが一緒になり、頭の中がパニックになった」

 「そんな腹立たしい気持ちで車を走らせているとき、完全にキレてしまい、許さん、車を当てて連れ去ってしまおう、最低でも見動き出来ないようにしてやろう。」

 「月ヶ瀬村の者が一人でもいなくなれば村の全員が心配して恨みがはらせる絶好の機械や、チャンスやと考えた」

 「俺や家族をよそ者扱いする村の人間、風習、しきたり、すべてがが嫌いだった。」
 
「幼少の頃から貧しい家に育ち嵩地区の他の家と同レベルの生活をする事が出来なかった事に加え母親が文盲で、しかも父母の姓が異なるということで、他人とは異なるという認識を持っていた。」
丘崎誠人はこう語りました。

 無視をされたことにより、自分に対する差別の現れ今まで蓄積されてきた差別に対する怒り、恨み辛みが爆発し、暴走したあげくに犯行に至ったということでした。



■丘崎誠人への判決は無期懲役

 丘崎誠人には弁護士が3人付きました。その中の一人、高野弁護士は、丁寧に時には情熱的に丘崎に向き合い、心の声中を一つ一つ探って行きました。しかし、丘崎誠人は、心をとざし、検察はもちろん弁護人にも最後まで心を開きませんでした。

 事件発生から3年後の2000年6月、大阪高裁は一審判決を破棄し、丘崎誠人に対して無期懲役の判決が下されました。
 
 高野弁護士始め弁護団が、殺害した事実については争わないとしながらも、その背景にある差別を抜きで語るのであれば承服し得ないとして、控訴審での無期懲役を不服とし、最高裁に上告しました。

 そして、上告を進める弁護団に対し、丘崎誠人は判決を聞いても動揺するそぶりも見せず、上告を勝手に取り下げ、無期懲役が確定しました。



■2001年9月4日収監先の独居房で自殺

 丘崎誠人は刑が確定したその日から、およそ1年後の2001年9月4日、自分のランニングシャツを独居房の窓枠にかけて首をつっているのを巡回中の刑務官が発見しました。
 
 病院に運ばれましたが、意識不明の状態が続き、8日未明に死亡が確認されました。遺書はありませんでした。当時は就寝前の自由時間で巡回が15分に1回という状況の中での自殺でした。

 自殺を図ったのは、丘崎誠人が、充代さんを殺害した月命日だったのです。これが彼の償いの方法だったのでしょうか、今となっては解明する術はありませんが、村社会の闇、差別に苦しみ引き起こされた、なんとも者悲しい、これが奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の全貌です。
 


■月ヶ瀬村の現在は

 今だなお語り継がれる、月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の舞台となった月ヶ瀬村の現在はどうなっているのかというと、現在は名前を変えて存在しています。

 市町村合併により奈良市の一部に

 1889年(明治22年)4月1日、町村制の施行に伴い、尾山村・長引村・桃香野村・月瀬村の区域をもって月瀬村が発足しました。

 そして長く月日を経過し、1968年(昭和43年)月瀬村が改称して月ヶ瀬村となります。月ヶ瀬村女子中学生殺人事件がおきてから、8年後の2005年(平成17年)4月1日奈良市に編入し、同日月ヶ瀬村は廃村しました。現在は奈良県奈良市月ヶ瀬として存在しています。
 


■村八分と差別による殺人を犯した悲しき鬼、丘崎誠人

 丘崎誠人が独房で自殺をするという結末に至った月ヶ瀬村女子中学生殺人事件は、村八分や差別により恨みや怒りが引き金となっておこった、とても悲しい事件でした。
 
 一人の人間の人格形成までを蝕んだ差別は村社会における闇の部分でもありました。丘崎誠人は独房で自殺に至るまで何を思い、どう被害者の充代さんに償ったのか、犯人が自殺した今は誰にも知られる事も無く語り告げられて行くのです。


2019年04月15日公開
2019年04月15日更新

 

こちらより転載。



 学校で運動部の指導者による暴力がなくならない。心身に傷を負い、命を落とす子までいる。心得違いの指導者をなぜ放置しているのか。暴力と決別する明確な意志が指導現場に必要だ。

 全国優勝経験のある兵庫の高校バレーボール部で4月、10回以上平手打ちされた生徒が鼓膜を損傷し、意識を一時失った。茨城でも卓球部顧問から「殺すぞ」などと暴言を浴び、女子中学生が自殺した。部活中の体罰は2017年度、全国の中学校で62件、高校で118件に上っている。

 社会問題となったのは、大阪市の高校バスケットボール部で体罰を受けた生徒の自殺が明らかになった13年。国は体罰禁止の徹底を通知し、高体連や日本オリンピック委員会なども「根絶宣言」を出した。指導ガイドラインも示されたが、今も根絶には程遠い。

 県内では12~13年度、体罰をした公立校の計17人が懲戒処分された。県教委は教員らへの研修や講習を続け、処分数は減っている。それでも体罰はなくならない。

 昨年は高校バレーボール界をけん引してきた指導者が複数の部員への体罰を理由に私立高校を辞めた。今年も別の私立高校野球部で元プロ選手の監督の体罰が明らかになり、公立校でも3年ぶりに中学校の教諭が処分されている。

 暴力が繰り返されるのは、強豪校を中心に指導者らの意識や体質が変わらないからではないか。

 多くは選手時代に活躍したり、有力選手を育成したりした経験や自負がある。厳しさに耐えた自身の道のりを成功体験と思い、体罰を否定しきれないのだろう。自分の熱意に応えられない子に怒りを爆発させ、人格を否定する言動の裏に、勝利ばかりを追い求める偏った価値観を感じる。

 保護者の一部も「強くなるのなら」と容認していないか。指導者に「はい」としか言えない異様な環境で、心を守るために思考を止め、表情すら失ってしまう子もいる。主体性を尊重する指導でこそ力は伸びるはずだ。

 学校側の甘さも気になる。体罰を「行き過ぎた指導」と説明するケースがあるが、体罰は法律で禁じられ、指導ではない。違法行為をごまかしているに過ぎない。

 これから全国大会の予選が本格化する。27年の国民スポーツ大会(国体)県内開催に向け、選手強化も始まっている。競技力向上だけでなく、適切な指導で競技を続ける子を増やして裾野を広げないと、少子化で加入が減ってきた部活動の未来も危うくなる。




信濃毎日新聞(5月25日)
MYurita@



4月に入って入社式の方も多いと思います。ここで2011年と1986年の入社式の様子の違いを日経新聞の記事からひとつ: 規格品化がとまらないのは何故かをちゃんと考えて取り組まないといけませんね。若者世代に原因を求める言説は気持ちいいかもしれないけど,無責任だよ。

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変な国だよ日本さん@



国民健康保険料、介護保険料が上がり、病院での窓口負担が大きくなり介護認定が厳しくなった。年金受給額が下がり電気、ガス水道料金が上がる。大企業の法人税が下がり内部留保が膨らむ。何の役にもたたないミサイル戦闘機に10兆以上つぎ込み、株価を維持する為、45兆円株にぶち込む。安倍の6年間。
「友人に絶交されました…」 鴻上尚史が指摘する原因“無意識の優越感”とは

AERAdot 更新 2019/4/9 16:00 dot.



 鴻上尚史の人生相談。高校時代からの友人に、絶交を言い渡されたという28歳の女性。ずっと彼女のためにと悩み相談にのってきた自分のなにがわるかったのかと混乱する相談者に、鴻上尚史が答えた「深追い」の罪。




【相談24】 友人に絶交されました(28歳 女性 さやか)




 高校時代からの友人に絶交されました。友人は家庭環境に恵まれておらず、両親の愛情を感じられないようで、高校時代からとても辛いと言っていました。でも、いつもなるべく話を聞いて解決できるよう言葉をかけてきたつもりで、大学が別々になってからもずっと続く友達だと思っていました。

 でも友人は違いました。大学生、社会人になるにつれ、だんだん連絡が薄くなっていったというか。でも時々メールで連絡はとっていました。最近、久しぶりに会おうよと誘って、夕食をいっしょに食べたのですが、近況などを聞いているうちに、なんかちょっと友人の雰囲気がおかしいなと。そしたら翌日、ラインに「あなたとは絶交します、もう二度と私に関わらないで」と入っていたのです。驚いた私は電話をかけたり、ラインで理由を何度も聞いたのですが、返事はきませんでした。1週間ほどして、メールが届き、思いもよらないことがたくさん書いてありました。

 結局、「さやかはいつも上から目線で、話したくもないのに人の家のこととか根掘り葉掘り聞いてきて高校時代から苦痛だった、とくに『子どもを愛さない親なんているわけない、A子の思い込みだ』という言葉にどれだけ私が傷ついたか。さやかの家柄自慢も、もううんざり。独りよがりのアドバイスで親友のふりをされても迷惑だから、二度と連絡してくるな」という、本当にA子が書いたのか、というきつい内容のメールでした。

 私はこんなふうに思われていたなんてと驚き、家柄自慢なんてしたつもりはないのにと、ショックでした。時に厳しいことも言ったかもしれないけど、A子のためと思って言ってきたことが恨まれる事態になっていたのです。

 いつも相談者の悩みに的確で優しいアドバイスをしている鴻上さんをスゴイと思います。私はなにがいけなかったのか、わかりません。どうしたらA子に私の真意を理解してもらえるでしょうか。人の相談にはどうのるべきだったのでしょうか。




【鴻上さんの答え】


 さやかさん。混乱していますね。確かに、よかれと思ってやってきたことがうまく届かない時は悲しいですね。

 人のことを思い、良い人生を送って欲しいと、さやかさんは思っているんですよね。とても優しい人だと思います。

 でも、よかれと思ってアドバイスすることは簡単なことではない、ということを言いますね。うまく、この意味がさやかさんに伝わるといいのですが。

 まず、さやかさんは「人の相談にはどうのるべきだったのでしょうか」と書いていますが、高校時代から最近まで、相談は、いつもA子さんから来ましたか? それとも、A子さんが苦しそうだから、さやかさんの方から「どうしたの? 何があったの?」と話しかけましたか?

 どっちの方が多かったですか?

 A子さんが「さやか、相談に乗ってくれない?」と言って話しかけてきた回数と、「A子、どうしたの? なんでも聞くよ」とA子さんに話しかけた回数、どっちが多かったですか?

 ひょっとしたら、さやかさんの方から「どうしたの? 何があったの?」と話しかけた回数の方が多かったんじゃないでしょうか。

 それがなにか問題なのと思いましたか? 僕は、それはとても重要な問題だと思っているのです。

 もちろん、さやかさんは、A子さんの状態を心配して声をかけたんですよね。顔色が悪かったり、悲しそうだったりしたら、何があったか、自分に何ができるか知りたくなりますからね。

 でもね、悩みごとについて、自分から事情を説明しようと思うことと、周りから説明を促されて話すことは、大きく違います。

 僕は、今、たまたま人生相談のアドバイスをしていますが、日常からこんなことをしているのではありません。

 誰かと一緒に飲みに行って「何か相談ある?」なんてことは絶対に言いません。そんな人はうっとうしいじゃないですか。相手の顔色があんまり悪かったら、「どうしたの?」とは聞きますが、相手が何も語りたくないようなら、そこでやめます。それ以上は踏み込みません。たとえ、どんなに親しい友人でも、です。

 そして、「相談があるんだけど」と言われた場合だけ、相談に乗ります。相手が話す気持ちになってないのに、「話してみて」「相談に乗るよ」「何でも言って」と言うのは、相手を苦しめることになると思っているのです。

 だって、話すということは、自分の苦しみをもう一度確認することです。やっかいな状況と向き合うことです。それは、ある程度の精神的強さがないとできません。

 その精神的準備が整ってないのに、「話して」と促されて話すのは、とてもつらいことです。ですから、僕は相手が話したくないようなら、深追いしません。

 ま、簡単な言葉で言えば、「余計なお世話」はやめようと思っているのです。

 そして、アドバイスをしても、それを最終的に実行するかどうかは、本人の問題だと思っているのです。

 僕は、さやかさんの文章の「いつもなるべく話を聞いて解決できるよう言葉をかけてきたつもり」や「時に厳しいことも言ったかもしれないけど、A子のためと思って言ってきた」という表現が気になります。

「なるべく話を聞いて」あげることは素敵なことですが、「解決できるよう」にというのは、本人の問題です。どんな解決策を選ぶか、何をもって解決とするか、そもそも解決したいのか、話を聞いて欲しいだけなのかは、A子さん本人が決めることです。

 また、「厳しいことも言う」のはアリですが、「A子のためと思って」という表現は、僕には少し過剰なお節介を感じます。無理解な親は、いつも「あなたのためと思って」と言いますからね。

「不幸な人がいたら、話を聞いてあげて、一緒に解決策を考える」ということを、さやかさんは当り前だと思っていますか?

 でも、それは、不幸な人に「接する人」側から見た当り前で、不幸な人側の当り前ではない可能性が高いのです。「不幸な人は、自分を不幸な人だと思われることが嫌で、一緒に解決策を考えて欲しいなんて求めてない」なんて場合もありますからね。

 さやかさんは、「家柄自慢」をしたつもりはないと思います。でも、立場が違えば、ただ事実を語っただけで自慢と取られます。だって、プロポーション抜群の人が自分のサイズを、太っている人の前でただ語るだけでも、自慢していると思われるでしょう。

 体型にコンプレックスを感じている人の前で、どうしてもサイズを語らないといけない特別な事情がない限り、それは自慢だと取られます。

「子どもを愛さない親なんているわけない、A子の思い込みだ」という言葉は覚えていますか? そんな言葉を言った記憶がない、と書かれてないということは、言ったということでしょうか。

 残念ながら、子どもを愛さない親はたくさんいます。『ほがらか人生相談』にも、そういう親の問題は多く寄せられます。親だから子どもを愛して当然というのは誤解です。

 もし、「独りよがりのアドバイス」というものがあるとすると、それは、相手の事情を想像しないまま、自分の当り前だけを前提にするアドバイスのことです。

 さて、さやかさん。

 ここまでの文章を読んで、「A子は、私が『どうしたの?』と聞いたら、いろいろと話してくれた、とても嫌がっているようには見えなかった」と、思ったでしょうか。

 内心、嫌だと思いながら、それでも相手に頼って話してしまうことはあります。

 僕は、39歳でロンドンの演劇学校に留学した時、「英語の戦場」で本当に苦しい思いをしました。

 授業中より、休み時間が地獄でした。20歳前後の若者の口語で早口の英語は、大部分が分かりませんでした。それでも、留学して半年ぐらいはなんとか食らいつこうとがんばりました。最初は、クラスメイトも気を使って、ゆっくり言ったり、簡単な言い方をしたり、繰り返したりしてくれましたが、やがて、かまわなくなりました。

 だんだんと、休み時間、独りでいることが多くなりました。そこで休んだり仮眠を取ったりして、集中力を回復させて、授業に使おうとしたのです。

 でも、そうすると、淋しくなります。誰かに話しかけて欲しくなります。複雑な議論はできなくても、「調子はどうだい?」とか「ランチは何を食べるの?」なんてなにげない会話がしたいと心底思うようになります。

 そんな中、クラスメイトであるイギリス人男性が時々、話しかけてくれました。

 ですが、彼には「かわいそうなアジア人をなぐさめている」という雰囲気がありました。イギリスの中流階級出身の白人として、クラスで唯一のアジア人を心配しているという匂いでした。

 別に自慢げとか偉そうな態度を取っていたわけではないです。彼の名誉のために言っておけば、彼はとても優しい人でした。だから、話しかけてくれたのです。

 でも、どこか、「かわいそうなアジア人には優しく接しよう」という意識を感じました。それは、無意識の優越感だと思います。

 本人に言っても、キョトンとしたまま、「だって、君はかわいそうだから」と答えるような雰囲気でした。

 さやかさん。僕は生まれて初めて「人間として見下されるとはこういうことか」と感じました。

 でもね、それでも、話しかけられることは嬉しかったのです。淋しさが紛れるから、たとえ、見下されていると感じていても、独りぽつんと中庭のベンチにいる僕に声をかけてくれることは嬉しかったのです。

 これは、強烈な体験でした。あきらかに「かわいそう」と見下されている相手からでも、話しかけられると嬉しいという感覚。生まれて初めて経験する、予想もつかない感覚でした。

 そして、すぐに、日本で例えば、道に迷っている目の不自由な人に「どうしました?」と話しかける時、僕には無意識の優越感がなかったのかと考えました。

 お年寄りに話しかける時、ハンディキャップを持った人に話しかける時、対等な関係ではなく、「あなたを守りますよ」という無意識に見下す意識がなかったのかと。

 たぶん、あったんじゃないかと思いました。

 さやかさん。僕の言いたいことが分かるでしょうか?

「私にはそんな優越感なんてない」と思っていますか? 確かに、意識的な優越感はないと思います。

 でも、「かわいそう。何かしてあげたい」と思うことは、とても気をつけないと相手を無意識に見下すことになるのです。

 おそらく高校時代のA子さんは、ロンドンの時の僕のように、「見下されていると感じるけれど、話しかけてくれて嬉しい」という状態だったんじゃないかと思います。

 そして、高校を卒業し、大学を経験し、社会人になって、対等に話してくれる人とA子さんは出会ったのでしょう。自分のことを不幸な家庭の出身で「かわいそう」だと思わない、アドバイスをしないといけないと思わない、身構えない人と知り合ったのでしょう。

 だから、もうさやかさんと話したくないと感じたのだと思います。それを二人で夕食を食べながら確認したのです。

 相手を「かわいそう」と思った段階で、対等な人間関係は結べないと思います。「あなたのためにしている」と思った場合も同じです。

 さやかさん。きつい言い方になったでしょうか。さやかさんが優しい人だということは明らかです。そして、幸福な家庭で育った人だということも。A子さんのことを本当に心配していることもよく分かります。

 でも、これからは、「相談があるの」と言われない限り、自分から「根掘り葉掘り」聞くことはやめた方がいいと思います。そして、アドバイスしても、それを採用するかしないかは、相手が決めることだと思った方がいいです。

 蛇足なんですが、この無意識な優越感をこじらせた人を主人公に、アガサ・クリスティーが小説を書いています。『春にして君を離れ』という作品です。クリスティーですが、ミステリーではありません。

 完璧な母親だと思っていた女性が、旅の途中、ふと自分と娘達との関係、夫との関係に疑問を持つ話です。

 蛇足ですから、無理に読む必要はありません。ただ、さやかさんのような悩みと驚きは、決して、珍しいものではないということです。

 A子さんとの関係は、残念ながら復活することは難しいと思います。A子さんは、さやかさんが優しくないとは思ってないのです。そういう意味では、真意は伝わっています。ただ、その優しさの伝え方が嫌だと感じているのです。

 でもね、さやかさん。落ち込むことはないと思います。

 ずっと先、さやかさんが「対等な人間関係」に敏感になった時に、A子さんと話す機会があれば、また友人関係が復活するかもしれません。

 それまでは、A子さんのことを忘れて、さやかさん自身の人生を生きることを勧めます。対等な人間関係に自覚的になれば、素敵な友人とたくさん出会うと思いますから。




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高校時代、「なんだこの髪は」って校門で生活指導の先生に胸倉を掴まれた。地毛ですって伝えても、信じて貰えなくて生活指導室に連れていかれて、子供の頃の写真を提出して地毛登録をしろと言われた。子供の頃の写真も同じ髪ですよ?生まれた時からこの髪ですから。


自分が髪の毛を染めて校則違反をしたなら怒られるのも分かるけど、生まれてから何もしていないし、両親から貰った物を、何故そんなに悪だと決めつけて責められたのか。今でも理解できないな~。


地毛だから仕方がないけど、夏休みや冬休みの長期休暇明けは必ず髪色を見せにくるように、って、言われたよな~(笑)地毛だから仕方がないって何?!?!