まだ冷え込むものの、 日も大分長くなり、春らしい日差しが差し込むようになったパリ。冬眠からそろそろ目覚めようかと言う氣に最近ようやく思えるようになってきた。



友人からカリブ海にあるフランスの海外県、グアドループやマルティニークからのフランス本土への移住についてのドキュメンタリー上映会&ディスカッションがあると聞いたので、昨夜行ってきた。




こういう上映会とかディスカッションって高校時代からよく足を運んでたんだけど、フランスに来てからはフランス語でってのが敷居が高すぎて敬遠しがち。でも、今回はマルティニーク出身の父親を持つ息子にも関係のあることだからね。




20時からだと書いてあったが、フランスだし、時間通りには始まらないよね、と1時間遅れで会場へ。




去年、恩師のギタリストの追悼コンサートをしたLa  Flèche d’or. 超満員でサイコーのバイブスだったなと感慨に浸りながら入口に入ろうとすると、黒人男性に声を掛けられ荷物チェックかなと手提げを開けて見せたらナンパだった。爆笑




既に上映会は始まっていた。立ち見客が溢れてる。観客の殆どはカリブ黒人。画面には時代は違うけど、懐かしいマルティニークの風景。トリニダードからセントルシアを経て、ひとりでマルティニークに到着時のことを思い出し、感極まって泣きそうになる。爆笑




ドキュメンタリーのタイトルは”L’avenir est ailleurs” 直訳すると、未来は他の場所に。




フランス領だったグアドループもマルティニークも1946年にフランスの海外県という位置づけに表向きはなった。でも、今もベケと呼ばれる植民地時代の支配者層の子孫や白人たちが富を搾取して、奴隷の子孫の島民たちは仕事にありつけないことも多く、貧しい暮らしをしてる人たちが多いのが現状。ユーロが導入されてからはますます物価が上がって生活が厳しくなったって聞くよ。




1960年代、フランス本土では単純労働者が不足していた。本土に来ればバラ色の人生が待ってるかのような国の謳い文句を信じて、多くの若者たちが郵便配達員、税関職員、国鉄職員、清掃員などの仕事を目当てに、片道の船の切符を握り締めて移住してきた。が、待っていた現実は




国に騙されて中南米に移民して行った昔の日本人たちと同じような感じだな。





↑「若者よ、国を去るな!BUMIDOMにNOを。」


↑マルティニーク出身の詩人、作家、政治家だったエメ・セザールも登場。フランス文学界でネグリチュード運動を牽引して、植民地主義を批判していたことで知られる。




上映会が終わる頃に仲良し2人組のDJの友達が私に氣づいて声を掛けてきた。ひとりは両親共にマルティニーク、もうひとりはお父さんがマルティニーク島出身で、2人ともこちら生まれの2世。2人とも移民1世の親たちの苦労を聞いて育ったと言う。




私と同い年のうちの息子の父親は移民1世。90年代終わりに移住してきたんだったかな。当時から住宅難のパリに着くと、まずは手っ取り早く国にアパートを見つけてもらうためにいきなりのホームレス生活。寒さに震えながらホームレスの仲間同士で体をくっつけて寝てたそう。30年以上経ってもBUMIDOM時代さながらやん。(私も日本で出産して息子が10か月になる頃にこちらにやって来たらいきなりアパートがないとこからスタートしてびっくりしたよ。)



彼がどこまで息子に移民1世としての自分の苦労や先祖たちの歴史について話してるか分からないので、私もなるべく理解を深めて息子に伝えたいと思ってる。学校では全く教えてもらえない裏社会の授業も含めてね。




母子ホームレス時代に自分かわいそうモードになった時に爆笑聴いて、とことん落ちてた(落ちるだけ落ちたら後は上がるしかないからね爆笑)↓聴きながらバス停まで。

↑“Mwen domi dewo” 直訳すると、私は外で寝る。




フランス国籍ある、なしに関わらず今も大変な移民たちの暮らし。うちの近所にも昔の私たち母子みたいに住まいが見つからずに、国から部屋を充てがってもらってる移民たちの暮らすボロ宿があって、頭にジュースの入ったカゴを乗せて、赤ん坊をおぶって日銭を稼ぎに出かけるアフリカンママを見かけたりもしたよ。




そんなことを考えながらバスに飛び乗ったので、氣付いた時には反対方面の終点に着いててびっくりした。バスの運転手さんに「逆走したのか」と笑われて最終バスで引き返して、結局家に着いたら1時回ってた。日付けが変わる頃には家に着いてるはずだったのに爆笑 





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