おいらの個人事だが、自分の記憶の為に残したい。
昨年令和5年12月5日に母がこの世を去った。
朝、一般人よりは遅い7時半に起きて、毎日の日課である
廊下のカーテンを開け、障子のガラスを上げて部屋の中に
明かりを一気に取り込む。ベッドで寝ているお袋の目を覚ます様
一連の流れだ。
その日は、振り向くとお袋がベッドを起こした状態で片方の目を
開けて座っていたので思わずうわっとなった。
何だもう起きているのかと思いきや全く動かない。え?っと思って
肩をゆすると何か冷たい。
ああ
と思いながらも嫁さんを呼びに行く。嫁さんも何か察したようで
直ぐに走ってお袋の部屋に行って涙を見せながら家族全員を呼ぶ。
その後、介護士さんへ連絡し、救急車を呼び警察を呼んだ。
救急車を呼んで、お袋の元へ案内したまでは覚えているが、その後は
警察の聞き取りに忙殺され、お袋の遺体は一旦警察署へと運ばれた。
その後、暫く嫁さんとおいらは質問されて答え続けた。
一連の事が終わってお袋の寝ていた部屋に行った時には、物抜けの
空だった。昼近くでその後どういう事をしたかは忘れたが、
直ぐ主だった親戚に連絡して昼食を取りながら警察からの連絡を待った。
順序は前後しているかもしれないが、互助会に入っている葬儀屋さんを
呼び、警察から事件性が無いものとして遺体を回収することになり、
葬儀屋さんが自宅まで運んでくれる事となった。
そうそう、自宅で家族葬にするか葬儀場にするかで話し合って親父殿の
意向で自宅で一番大きい部屋に安置された。あっという間に葬儀の
日取りや火葬日など決めてもらい、後は葬儀屋さんの言うとおりに
進んでいった。勿論意識はあるので、騙されないように葬儀費用とか
その段階で話し合いをして、まあそれくらいかかるかという妥協点で
仮の費用が決まった。おいらたちに盲点な家族葬でも焼香に来る人は
いるという事で、金額の半分くらいのお返しが妥当という事も教わり、
引き物も10人分用意した。まさかそんなに来ないってと思って返品も
可能だという事で用意したが、結局最後の一個まで使う事となった。
式が終わるまでにひと悶着あったのは、親父殿が家族葬だからと頑なに
いうので親戚の人に断りを入れていたら親戚の人が一人も来ないと
大げんかになった。家族とは通常一緒に暮らしている5人で、お袋が
亡くなったから4人でしょ?と最初はショックでイカレタのかと思って
いたら親戚までが家族という認識だったらしく、何回も断っていた
嫁さんの両親に急遽来てもらうことになった。その他の親戚は師走で
遠い地域に住んでいることもあって通夜の前と、葬儀後に来てもらった。
お袋が91歳、親父殿が87歳という事もあって親戚はもう先に亡くなって
いる人がほとんど。両家の特に親しくしていた家の若い人たちがまだ
繋がりがあって来てくれた。親父殿の時はもっと減るだろうなあ。
耳の聞こえない親父殿に代わって最初から喪主を務めた。
お袋の納棺式や火葬など色々終えて、納骨は雪の消えた春という事に
なっている。墓は平成10年においらと嫁さんが結婚後に親父殿が
建てた。いわゆる宗家と呼ばれる家の人達の古い石を砕いて墓の下に
敷き詰めて新しく墓を造った。その墓にはまだ誰も名が刻まれて
いないが、お袋が一番となった。
運動の集まりを毎週土曜日に参加していて忘年会がお袋の亡くなる週の
次に予定されていた。お袋が11月の中頃から食事が全く取れなくなって、
もしかしたら今年いっぱいが限界かと思っていた。
なので、不参加を伝えて気分も下がっていたので土曜日は休んだ。
5日に亡くなって葬儀が忘年会の日に当たったのには驚いた。
おいらが予定していて欠席した日を自分の葬式でちゃんと埋めたのだから。
亡くなった時間も朝5時くらいだったらしく、前の晩に嫁さんが
食事代わりに甘酒を口にさせたらいつもより多く飲んだそうだ。
甘酒は子供が体にいいと聞き、買ってきてそれを毎日飲ませていたようだ。
その日は嫁さんが少し遅く部屋の電気を消しに行き、甘酒を飲ませ、
温かいタオルで顔を拭いてあげたらすごく気持ちよさそうにしていたそうだ。
嫁さんが一瞬なんかいつもと違うと感じて皆を起こそうかと悩んだらしいが、
朝おいらが起こしに行って発見するまで静かにスーッと逝ったようだった。
家業を家でそのままこなしながら葬儀を完了させ、正月休みに入るまで
変わらぬ日常で過ごせたのは家族葬にしたお陰かもしれない。
家族が一丸となって、何もしない正月を過ごした。
元旦になって能登の地震があり、死者が出た。お袋は家族に見守られながら
3年以上の寝たきりを家で過ごして静かに逝けた。能登の方の最後は悲しい。
1か月違いで先に母を失う悲しみを経験したが、今も苦しんでいる能登の方に
比べたら大往生で送り出せたと思う。
どの方も苦しまずにあの世へ辿り着いて欲しいと思った。