細野牧郎のpropan movie的こころ

細野牧郎のpropan movie的こころ

映画制作団体 propan movie代表、細野牧郎の映画全般にまつわるブログ

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私事で恐縮だが、今年の7月に札幌を離れて東京に移住する。映画美学校で一から映画を学び直してくる為だ。これまで、幾つか映画を制作した。満足できている部分はあるが、満足できない部分はもっとある。現状に限界を感じて、環境を変える選択をした。ここで改めて、自分が映画に求めているもの、映画を通じて何を届けたいのかを再考したい。

これまで自分が映画から何を受け取っていたのかを端的に説明すると、それは大きな括りとして「豊かさ」とまとめてしまっていいと思う。この「豊かさ」とはそもそも何かを分析してみたい。漠然と感じ取っている抽象的な感情の為、うまく言葉にできないかもしれないが、できるだけ具体的な形として語ってみたいと思う。

記憶する最初の映画体験から遡ってみると、確か小学校の低学年の時に見たサモ・ハン・キンポーの「五福星」であった。脚本や芝居、構図などについては理解できないが、ただただ、サモ・ハンやジャッキーの肉体の躍動に興奮していた。もっと言うとアクションシーンにおける心地よいモンタージュを享受していたように思う。理屈ではなかった。体が反応した。キャラクターの心情やストーリーではない。原体験がそこから始まっている。

アクションとモンタージュ。どうも、その辺にヒントがありそうだ。思えば決してストーリーから「豊かさ」を受け取ってはいなかった。映画の中のある決定的瞬間が心を捉えて離さなかったりする。それは例えば、個人的なオールタイムベストとして挙げる事をためらわない名作「悪魔のいけにえ」において、レザーフェイスがハンマーを振り下ろし、男が倒れ、部屋にひきづり込んでドアを閉めるまでの一連のアクションとモンタージュ。ここに映画的な悦楽を享受していた。

何度も繰り返すが、理屈ではない。かつてデイビッド・クローネンバーグがホラー映画の定義をこう語っていた。それは脳に到達する前に内臓を貫くと。自分が映画に求めているものはまさにそれだと思う。また振り返ると、そもそもホラー映画に深く啓示されて映画にのめり込んだ。小学生の時は貪るようにホラー映画を見ていた。剥き出しの衝動がそこにあった。それはただひらすら心地良く、映画を通じて得たものだった。映画でしか味わえないものを味わい尽くす瞬間に「豊かさ」が現出する。言語化できない衝動や感性の発露がアクションとモンタージュによってもたらされるように思う。今まで無条件で好きになった映画はみんなそうだった。雑にまとめてしまえば、映画とは大なり小なりそういうものだと思う。

自分が作り手となった今、どこまでその部分を意識して突き詰めることができたであろうか。2014年に88分の長編映画を作った。それまで10年以上映画を作り続けた中での総決算だった。アクションとモンタージュという観点で考えた場合、もっとやれたのではないかという後悔が残る。そして、具体的にどこをどう修正すればいいかを理屈として理解できていない。

みっともないのでここには記さないが、ここまでやり続けて自信を持っている部分はある。その部分に漠然とした勝算は感じている。でも、先は長い。もっと次の段階に行くために学び直すのだ。東京に行って学び直した後の振り返りとして、現時点での精一杯の思いを恥を承知で書き綴った。学び直しの中で何を得るか、今から楽しみである。そして、予告として以上を踏まえた上での習作短編映画を制作予定である。いずれかの形で公開したいと考えているので、ここに記載していることと相違がないかを皆様に厳しくジャッジしていただきたい。

全ての豊かさを映画から享受し、自ら制作する映画で更に観客に豊かさを伝播してゆく。ただこれだけのことを死ぬまで続けたい。