ネルソン・マンデラ氏の若き弁護士時代は、聖人とはカケ離れた無類のオンナ好き。
ヤンチャな遊び人だった。ヤり手のエリートだよね。

その後の過酷な収監生活がクローズアップされることが多いが、
彼が欧米のリーダーに人気があるのは、人生の甘いも酸っぱいも知ってるところかもね。
http://thepage.jp/detail/20140427-00000007-wordleaf
===
ネルソン・マンデラ氏については、黒人の自由と平等のために身を投げ打った「聖人」というイメージが強くあります。しかし、マンデラ氏も一人の人間です。彼の90歳のパーティーで、妻グラサ・マシェルが「彼は断じて聖人なんかじゃない!」とニューズウィーク記者に証言したように、意外と人間的な側面も持っています。その知られざるエピソードをいくつか紹介します。

アメ車を乗りこなし、レストラン通いを楽しむ解放活動家

 監獄に収監される前の30代後半、マンデラは弁護士として成功を収め、人々の注目を集めていました。出で立ちは、ダブルのピンストライプのスーツ。大きなアメリカ製の車を運転してレストラン通いを楽しんでおり、解放活動家ながら華やかさにあふれていました。当時のマンデラ氏は色男で通っており、多くの女性を泣かせたようです。

 それでも、やはり反アパルトヘイト活動には妥協がなく、経営コンサルタントの大前研一氏によると、イギリスのサッチャー元首相も、一時期はマンデラ氏を「テロリスト」と呼んでいました。

独房での過酷な暮らしぶり

 マンデラ氏は、27年の監獄生活のうち、18年をロベン島で過ごしました。ロベン島は極端な気候で、夏は焼けるように熱く、冬は極寒。独房は特に寒く、暖房の類は何もないところでした。同じくこの島に収監された活動家によると、マンデラ氏の独房はコンクリート造り。外壁は灰色の石で、広さは約2メートル四方、高さは2・7メートル。明かりは40ワットの電球が一つのみ。最初は寝具とマットのほかはまったく家具がなく、ベンチもテーブルも何もなかったといいます。手紙は月に3通出すことができ、3通受け取れました。また、面会は月二回。一回30分、二人に面会できたそうです。

活動家の同志が見たマンデラの変化

 活動家の仲間の一人によると、マンデラ氏も始めの頃は、政治的主張をする時は、感情のままに怒りを爆発させていました。ところが監獄では怒りをほとんど完璧にコントロールするようになったそうです。「彼は明らかに修練を積んで、怒りを押し殺すという思慮深い方針をとってきた」と指摘します。

 マンデラ氏は、監獄では仲間を心から思いやっていました。悩みを抱えているような人がいれば、さりげなく声をかけ、本当に悩んでいるようだと、彼らのそばに寄り添いました。自分自身に心配事があっても、それをほとんど顔に出しませんでした。監獄にいる時、彼の長男と母親が亡くなり、大きな衝撃を受けたようでしたが、翌朝にはいつもの彼に戻っていた、といいます。

マンデラ氏の名言

 「生まれながらにして肌の色や出身や宗教を理由に他人を憎む人は誰もいない。憎しみは後から学ぶものであり、もし憎しみを学ぶことができるなら、愛することも教えられるはずだ。愛はその反対の感情よりも、人間の心にとって自然になじむものだから」

 「どこであっても自由への歩みは容易ではない。我々の多くは、望むものの頂上にたどりつくために、死の影の谷を何度も何度も通り抜けなければならない」

 「自由や正義への我々の闘争は人々の力を合わせて行うものだ。そこに生きるすべての人のために、より良い世界を作り出すのはあなた自身だ」

 「あまりにも長く続いた途方もない人間の苦しみの経験からは、すべての人が誇りを持てる社会が生まれなければならない」

 「監獄で27年も過ごせば人生は無駄になったと人は言うかもしれない。だが政治家にとって最も重要なのは、自分の人生をかけた理念がまだ生きているかどうか、その理念が最後には勝利しそうかどうかだ。そして、これまで起きてきた全てのことが、我々の犠牲が無駄ではなかったことを示している」

 「過ちを犯すことと無縁なのは、はたで論評している人たちだけだ。政治的行動に過ちは付き物だ」

エイズとマンデラ氏

 南アフリカでは1990年代からエイズが蔓延します。マンデラ氏は大統領在任中、これに有効な手立て講じず、その後のエイズ感染の拡大を招いたと批判されました。後に過ちを認め、「ずっと孤独な監獄暮らしをしていたから、性行為で感染するウイルスの話なんて、恥ずかしくて気が引けた」と告白します。2005年には、息子をエイズで亡くしたと公表しました。

晩年のマンデラ氏

 年をとってからも、美人な女性に目がなく、あるアイルランド人の女性記者は、会見の席で結婚を申し込まれたそうです。また、子供っぽい一面もあります。2005年のある昼食会では、お気に入りの銘柄の炭酸水以外は飲まない、と言い張り、旧友たちはからかいました。

 妻マシェルによると、子どもに対しては、「パパ」は強情で怒りっぽく、孫の成績の悪さに我慢がならない様子だったそうです。