9月、愛梨は22歳の誕生日を迎えたが、今の信治には、プレゼントを買ってあげるお金も、どこかに外食に連れて行ってあげる精神的余裕もない。そもそも、誕生日の夜、愛梨は仕事で帰りは午前3時近かったのだが…。何もしてあげられない、信治は、役立たずの自分が情けなく恨めしかった。

 愛梨の帰りは毎晩遅かった。信治は、愛梨が働いている店は、普通の飲食店ではないような気がしていた。閉店は深夜1時だそうだ。信治が店長をしていた居酒屋と似たり寄ったりの時間だ。それから帰ってくると、毎晩2時から3時…。居酒屋みたいなものだからと愛梨は言っていたが、クラブかバーか、男性客のテーブルに女性が着くような店なのか?信治は不安を抱えてしまう。

 それでも、それまで家計が困窮し、何かと切り詰めた生活をしていたのだが、ある休日には、愛梨は上機嫌で奮発して、食材を買い込み、信治に豪華な食事をふるまってくれた。大丈夫!ちゃんと稼いでいるから!勤め始めてからしばらくは、経済的に余裕が出来、お金の心配がなくなったからだろう、愛梨は明るい顔が増えた気がする。でも…、2ヵ月ほど経つと、働き通しの愛梨には疲れが見え始めていた。信治の面倒は見てくれる。家事もちゃんとこなしてくれる…。でも、どこか様子がおかしい。勿論疲れているのだろうが、口数も減り、信治と視線を合わせる回数も随分減ってしまった。信治は調子が良い時には、ベッドから起き出し、2人で、リビングで寛ぐこともあったのだが、そんな時、愛梨はずっとスマホに目を落したままで、信治との会話はほとんどない。虚しく、テレビの音が聞こえてくるだけだった、また、愛梨は時折、そそくさとスマホを気にしながら1人で寝室に消えてしまっていた。

 いつだったか、愛梨は、深夜に派手なメイクにハイヒール姿で帰宅したことがあった。愛梨はハイヒールなんて持っていなかったはずだ。そもそもそんな習慣はなかったし、身長の低い信治に気を遣い、結婚してからも踵の高い靴は極力避けていたのに…。その夜、信治が玄関先まで迎えに出ると、愛梨は驚き、ちょっとだけ、ヤバイという顔をした。寝ててくれればよかったのにと、半ば、少し逆ギレのような態度を示し、そそくさと浴室に消えていった。

 また、1度、キッチンで洗い物をしている愛梨に、優しく声を掛け、いつもありがとうと感謝の気持ちを伝えようと、後ろからそっと肩に触れようとしたのだが…。愛梨はビクンと振り返り、ちょっとだけ怖い顔して信治を睨んだ。それ以来、いや、もうずっと前から、信治と愛梨のスキンシップは一切なくなっていた。あれほど、抱きっとギュッと、せがんで甘えてきた愛梨だったのに、今はもう全く…。それどころか、優しい言葉をかけることも笑顔を見せることも、ほとんどなくなっていた。スーパーのパートも、不規則なのか、今日、午前中はないから、ちょっと買い物に行ってくると出掛けていき、そのまま家には戻らず、午後だけスーパーに出ることもあったし、逆に夕方、バタバタ忙しくて長引いちゃったから、そのままお店に向かうねと連絡が来ることも重なっていた。そして、いつの頃だっただろう、愛梨はスーパーのパートを辞めてしまった。生活費は充分稼げているから、さすがにダブルワークはきつい、と愛梨は言っていた。その通りだ。愛梨に無理を強いていたのは自分だ。昼間のパートを辞め、夜の仕事だけになった愛梨は、体力的には随分楽になっただろう。そして、時間的にも余裕が生まれるはずだったのだが…。

 愛梨の帰りは、3時だったのが4時を過ぎ、朝になってから帰ってくることも何度かあったし、休日にも、愛梨には珍しくお洒落をして朝からどこかへ出掛けていき、そのまま夜まで帰ってこない日、いや、次の日の朝まで戻らないこともあった。金銭的に余裕が出来たからか、洋服も増えていった。貧乏短大生時代には、質素なというより、正直言って野暮ったい、お洒落な短大生とはかけ離れた服装で、着る物に全く無頓着な愛梨だったのに…。信治には、婦人服のブランドなど知るべくもなかったが、大人っぽい、そしてひと目で高そうとわかる、色っぽい洋服を何着も買っていた。スカートも、普段愛梨はジーンズばかりで、スカートなんて滅多に穿かない子だったのに…。そう、愛梨は、意識して、いや無意識にか?女性らしい色やスタイルを避けている節がある子だった。それが…、今や洋服の好みは一変しいたように思えた。おかしな言い方だが、子どもだった愛梨が、女になっていくような…。

 愛梨は、家にいる時には食事の準備はちゃんとしてくれる。洗濯も、やっと少しずつ信治も手伝いながら、でも愛梨もしてくれる。ただ、病院への送迎は、タクシーで行くようお金を渡されるようになった。1人で行動出来るようにならないとダメでしょ、と愛梨は言っていた。食材は冷蔵庫に入ってるから、何でも適当に作って食べて、私の分はいいからねと、愛梨の出掛ける回数も増えていった。その度におめかしをして…、ばっちりメイクにお洒落な高そうな服を着て、いそいそと…。出掛ける時だけは、愛梨は機嫌が良かった

 そして、信治の病状の回復に比例するかのように、愛梨の口数は益々減っていき、信治と視線を合わせる事さえ滅多になくなってしまった。世間話…、事務連絡、申し訳程度に信治の病状の回復具合を訊いてくることもあったが、それほど興味があるようにも、心配しているようにも、信治の回復を喜んでくれているようにも思えない。どことなく上の空だった。やっと、少しずつ口が利けるようになった信治が、愛梨のお店での仕事のことを尋ねると、何とも木で鼻を括ったような返事しか返ってこない。スマホに視線を落したまま、うるさそうに気のない返事を繰り返していた。

 何を考えているのかわからない、無表情、冷たい表情、不機嫌そうな仏頂面…。愛梨が笑顔を見せるのは、仕事に出る時、お出掛けの時、そして、スマホの画面を見ている時だけだ。信治は、愛梨の中高生時代の話を思い出してしまう。ずっとこんな顔だったのか?信治の知らない愛梨の顔。あんなに明るい笑顔の愛梨だったのに…。信治は悲しくなってしまう。自分が、俺がだらしなかったから、愛梨をこんな風に追い詰めてしまったのか、もう、呆れられ、愛想を尽かされてしまったのか…。信治は、愛梨の機嫌を損ねぬよう、腫れ物に触るようにビクビクしながら愛梨と接した。

 12月も後半になり、街はクリスマス気分に浮かれ、歳の瀬も迫り、何となく世間は慌ただしい。愛梨が夜の店に勤め始め、4ヵ月ほどが経過していた。信治の病状はだいぶよくなり、少しずつ、お風呂や食事の準備も出来るようになっていった。でも、まだ部屋の外に出るのが怖い。外出するのは病院へ行く時だけだ。せめて、食料雑貨の買い出しだけでも自分が出来れば、愛梨の負担は随分減るのだが、それが出来ない。雑踏に出るのが怖いのだ。

 もう少し、もう少しで、外に働きに出られるようになる。もうすぐ、もうすぐ、そうすれば、愛梨にばかり負担をかけずに済む、夜の店で働くこともない。元の愛梨に、優しく、明るく、自分に甘えてくる可愛い愛梨に…。もうすぐ…。

 

 ベランダで、洗濯物を干す愛梨。綺麗な、色っぽい派手な下着を干している。信治が自分の方を気にしているのを愛梨は気付いている。この下着が目に入っているんでしょ?何も言わないの?情けない男…。

「何?」

「え?あ、ゴメン…、別に大した用じゃ…、あの…、」

「何?言いたいことがあったら、早く言ってよ!イライラするなぁ。」

「ゴメン、ゴメンね、愛梨ちゃん、あの…、最近、帰りが遅いっていうか…、」

「だから?だから何?」

「いや、あの…、お店、忙しいのかなぁって思って…。」

「別に。お店はいつも通り。」

愛梨は仏帳面のまま手を動かす。信治に視線を向けようともしない。

「そうなんだ…、そう…。あの…、ちょっと心配で…。」

信治は愛梨の機嫌を損ねるのが何よりも怖かった。ビクビクして愛梨の顔色を窺う。洗濯物を干し終わった愛梨はリビングに戻る。信治はオドオドしながら愛梨の後を追う。そんな卑屈な信治の姿に、愛梨は少しイライラし、業を煮やし、振り向いて信治にまっすぐ視線を向けた。じゃ、そろそろ、はっきり突きつけてあげようか。

「心配?何が心配なの?」

「え、体調とか…、遅いから、何か危ないかもって…。」

思わず吹き出だしてしまう愛梨。ケラケラと高らかに笑う。

「何言ってるの?忙しいって言っても、もう今はスーパーの方は行ってないから、体調を崩すほどじゃないでしょ?遅いから危ないって何が危ないっていうのよ。タクシーで帰ってきてるのに。知ってるでしょ?タクシーで帰って来たり、お店の人に送ってもらったり。何の心配?」

「いや、えっと…。」

オドオドしてる信治に、愛梨は少し意地悪そうな視線を送る。

「もしかして、私が浮気しているのかもって疑ってるの?笑っちゃう…。」

「え、え…、愛梨ちゃん、愛梨ちゃん…。」

馬鹿みたいに動揺して、泳ぐ目。

「彼氏が出来たの!悪い?彼氏と会ってるの!だから遅いの!」

心臓を鷲みにされたような衝撃、早鐘のような鼓動。信治は一瞬で顔から血の気が引いていき、立っているのがやっとだった。蒼ざめ、ボロボロと涙が流れ始める…、わなわなと、愛梨の名を呼ぶことしか出来ない

「愛梨ちゃん…、愛梨ちゃん…。」

「何?何か文句ある?信治さんにそんなこと言う権利ある?」

「愛梨ちゃん、違うよ、怒ってないよ、ゴメンね、ゴメンね…。」

愛梨は、自分の中で何かが弾けるのを感じていた。

「誰のおかげで毎日ご飯が食べられているの!誰がこのマンションのローンを払っているの!あなたの病院代を出しているのは誰?全部私が稼いできてるんじゃないの!この甲斐性なしの役立たず!私が何をしようが、あなたに文句を言われる筋合いなんてない!全部私の稼ぎなんだよ?」

「ゴメンね、ゴメンね…、愛梨ちゃん、ゴメンね…。」

さめざめと泣きながら謝る信治に、愛梨は蔑んだように、冷笑を向ける。

「ふ~ん、浮気をしている妻に、必死に謝るんだ。情けな!ねぇ、信治さん、私が浮気をしてるって、彼氏が出来たって、気付いてたんでしょ?」

曖昧に、視線を泳がすことしか出来ない信治。

「そりゃそうだよねぇ?高そうなバッグや、ほら見て!最近私がいつもしているお気に入りのネックレス。いつか信治さんに買ってもらった安物とは大違いなの。ティファニーなんだよ、本物。他にも見慣れない洋服やヒールやアクセサリー、小物がたくさんたくさん、ね?信治さんに買ってもらったわけじゃないよね?最近メイクも派手になって、私、信治さんをほったらかして出掛けてばっかりだし。それに見て!ほら、このランジェリー、いやらしいでしょ?彼に買ってもらって、彼に言われてデートの時に身に着けているの。下着なんて、私、今まで三千円以上の物なんて買った事なかったけど、彼が買ってくれたの。ブラとショーツ、ワンセットで2万も3万もするような下着、それも4つも5つも買ってくれたの。凄いでしょ?彼に少しでも可愛く見られたいの。ちょっとでも色っぽくして、彼好みの下着を身に着けて、抱いてもらえるようにしたいの!私、全部、何も隠しもしないもんね、いくら鈍感なあなたでも、普通気が付くでしょ。気が付いてても、何も言えなかったんだ。怖かったんでしょう、本当の事を聞くのが。意気地なし。それで?どうするの?妻が浮気をしてきて、怒らないの?怒鳴りつけないの?責めないの?引っ張たかないの?そんなこと出来ないよね?それとも離婚でもする?」

「そんなこと…、そんなこと出来ないよ。愛梨ちゃん、離婚なんて…。」

信治の心の中は、これまでの人生の中で最大の動揺を迎えていた。パニックになっていた。愛梨が、男に抱かれている…、そんな…、まさか…、愛梨が、愛梨が…、あれほど毛嫌いしていたセックスを、夫である信治には1度も見せたことのない下着姿も裸身も、全て、その浮気相手の男には許しているのか?まさか…まさか、愛梨が他の男と…。薄々感付いていた。愛梨の言う通りだ。それでも、本当に愛梨の言う通り、知ってしまうのが怖かった。全てを打ち明けられ、離婚されるのが何よりも怖かった。

「ふ~ん、そうなんだ…。信治さんに離婚の意志はないのね?まぁそりゃないか…、今私に放り出されたら、お先真っ暗だもんね、信治さん。それに?それにさぁ信治さん、信治さんは、愛梨の事が大好きで大好きで、どうしようもないんだもんね?『何があっても愛梨ちゃんのことがずっと好き』なんでしょ?笑える。」

愛梨はゲラゲラ笑いだす。

「愛梨ちゃん、捨てないで、お願いします。何でも言う事を聞きます。何でもします。離婚だけはしないで下さい。ここから出ていくのだけは…。」

「情けな…、呆れちゃう…、馬鹿じゃないの?悪いけど嗤っちゃう。何なの?その卑屈な態度は…。ねぇ、信治さん、何でも言うこと聞くって言ったの?本気なの?私に捨てられたくないから、朝帰りの妻に文句の一つも言えずに、何でもいうこと聞くの?妻の浮気を公認するってこと?まぁ私の中では、全然、浮気じゃないけどね、ガチ恋。彼の事を愛しているの。キャ!」

愛梨は黄色い声をあげ、頬を赤らめ、両手で顔を覆った。恋する乙女の顔。

「悪いけど、あなたには、もうこれぽっちの愛情もない。あ~、愛はないけど、でも情は、少しはあるかな…。可哀そう…。」

 信治は、堪えきれず両膝をついてしまう。愛梨に打ちのめされ、立っていられない。何も言えずに、それでも、震えながら愛梨を見上げ、涙ながらに視線を外すことも出来ない。愛梨はソファに腰を降ろし、はぁ~と、面倒くさそうに溜息をついた。そして、腕組をして脚を組んだ。ふわりとしたロングスカートの裾からこぼれる、愛梨の白い脛、そして、可愛らしい素足に綺麗に施された赤いペニュキアが眩しい…。

「私ね、信治さんのこと、そもそも好きじゃなかったのよ。私『愛着障害』だったんだよ。あの家から1人で東京に出てきて、不安で不安で、誰かに優しくしてほしかっただけ。それが偶々信治さんだっただけ。そりゃ、感謝はしてるけど、でもよく考えたら、そんなの全然恋愛感情じゃないでしょ?そもそも私が信治さんのこと、男として好きになるなんて、そんなことあるわけないじゃん。信治さんって私よりずっと年上のオジサンだし、全然カッコよくないし。しかも今メンヘラ?私が信治さんのこと、男として、恋人として好きになるなんて、あり得ないでしょ?私が愛しているのは彼なの。私、もう信治さんとはエッチしないよ?それでいいの?裸も、下着姿さえ見せたくないし、指一本触れられたくないな。キスもしないよ?だって愛梨は、頭のてっぺんから足のつま先まで、全部、彼のモノだから。それでもいいの?」

「いいです!愛梨ちゃん、それでいいです。ゴメンね、ゴメンね、お願いします、離婚だけはしないで下さい。家の中の事、食事も掃除も洗濯も、出来る限りします。もう少しで、働きに出られるようになるから。彼氏の事も、何も言いません。愛梨ちゃんの好きなようにして下さい。だから離婚だけは…。」

愛梨は、侮蔑と嘲笑の混ざった視線を信治に向ける。そして立ち上がると、床に両膝を付いてうちひしがれる信治を、冷たく見下ろす。でも少しだけ優しい声音で言った。

「安心して、信治さん、今のところ、私も離婚する気はないから。ここから出ていくこともしないよ、取り敢えずはね。でもね、私は圭一郎さんの女、彼の恋人なの。戸籍の上ではあなたの妻だけどね。それで本当にいいのね?」

「はい!ありがとう、愛梨ちゃん、ホントにありがとう…。」

圭一郎…、圭一郎…、愛梨を奪った男の名。どんな男なんだ…。

「いいこと教えてあげようか、信治さん、私がなぜ信治さんと離婚しないかわかる?」

視線を泳がす信治。冷たい笑みを浮かべる愛梨。

「彼が、圭一郎さんが、旦那とは別れるなって言ってるからなんだよ?わかる?よかったね、信治さん、妻を寝取った圭一郎さんに感謝感謝だね。信治さん、圭一郎さんのおかげで、ご飯が食べられているんだよ。悔しい?もう悔しくなんかないか…。あまりにも情けなくて、もう悔しいなんて思わないでしょ。私、少し眠るから。」

そう言って、笑いながら愛梨は寝室に消えた。