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最近では経営学の中でも私の専門である経営戦略論について論じております。アンソフの理論からは成功企業の類型化された分だけ企業経営者としての意思決定があり、成功企業の経営者にはそれだけの数に類型化されると考えてみるのはいかがでしょうか?という問題提起であります。

 

経営戦略の近年での権威は何といってもポーターでありましょうが、ポーターの戦略論からすると戦略は3つに類型化されています(詳しくは『競争の戦略』などを参照してください)。ポーターの理論からすると企業経営者のタイプはアンソフに比べ減っております。ここがまた面白いところで、同じ経営学者の中でもこれほどに違いが出るところが興味深いのです。これは心理学の派閥の中では起こらない現象でありまして、ユング派の人が昔話を読んでその感想を聞いたところで、派閥の中で違う意見がでることはありません。もっとも、ユング派では自分がどのように感じたかが一番重要ですから枝葉の部分での違いはでますが、経営戦略の学者のように根底から覆すような意見はでてこないのが最大の特徴であります。

 

話はずれましたが、要するに経営学者の話は理論といっても十人十色でありまして、そこがまた面白いといえばそうなのですが、学者としての統一見解がなく、それゆえ学会でも様々な意見ではなく「理論」が飛び交い、どうすればよいのか?と思うことが常であります。経営戦略とかイノベーションなどを研究する経営学者はその学問の性質上、競合する経営学者とは別のことをやらなくてはならないと思ってしまうのでしょう。これは心理学的には自我肥大に近い状態でありますが、学問の理論と現在進行している自身の研究とが混ざり合うことによりこのような現象が起きるのでありましょうが、これがひどくなると逆にブレイクスルーできない状況となってしまい、ここに理論の破綻がおきるわけであります。

 

ここまでは経営学者の事例を非常に浅い次元で述べてみたのですが、では実際に成功企業にはどれほどの経営者がいてどれほどの分類になるのか?を気にする人がでてくるかと思います。ことSNS時代に入り、「本当」という言葉が飛び交うようになり、いかに多くの情報を収集するかが成功へのカギであるかのような時の流れであります。では、情報を多く仕入れることができれば成功するのかというと、そうでもないと私は思っております。なぜなら、まず、数の原理からすると多くの情報を仕入れることにより、結局は普通の人になるからです。これは正規分布という考え方を見れば一目瞭然です。ここに私はビッグデータの限界を感じるのですが、心理学的には多くの情報を仕入れることによりコンプレックスが刺激され、生きにくい空間を自分自身で生成してしまう可能性を指摘しておきましょう。つまり、生きやすくするために大量の情報を仕入れ解析していくのですが、大量の生のデータを目にするうちにコンプレックスを刺激し、精神的にダウンしてしまうことが考えられます。

 

このように考えると孔子の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とは素晴らしい言葉ですね!となるわけでありまして、こうなるとまた問題が難しくなるのです。結局のところ、やはり普通の人が成功するとなりまして、正規分布の考え方からすると普通の人は図表の左右両端に位置する人となり、それが成功者である。このような定義となります。つまり、正規分布の両端とまではいかなくとも、右端に位置する人は非常に普通の人であり、それ故に「成功者」となる、ないし「成功者である」と定義することが可能となります。

 

有名企業の創業者は普通の人?となりますが、この点については次回以降に論じてまいります。ご高覧、ありがとうございました。

戦略は意思決定であるという経営学会での見解を追求しているのですが、本件で興味深いのは、多くの経営学者は意思決定における「意思」の問題について論及しないことです。決定するのは人間であることは認めているから意思なのですが、そのプロセスについては全く疑問に思っていないところが不思議な点でありまして、「決める」という行為について「なぜそのように決まるのか」について追及する姿勢がないのがその特徴であります。右に行くか左に行くかついて問われるときは心理学を引いてくるわりに、意思決定について論究することなく通り過ぎるのが一般的となっておりまして、ここに光を当てるのが目的であります。

 

この件について、なぜ経営学者がそのような心理状態であるのか?ついてを議論する方がより面白いのですが、それよりも前に経営者の意思決定の問題を事例にし、経営学者の意思決定について論じたほうが理解しやすいものと思いますので、先に経営者の意思決定における心理学的考察を行ってみたいと思います。

 

前稿において、アンソフの経営戦略論における成長マトリクスについて触れました。本件についてより詳しく知りたい方はアンソフの原書を参照していただきたいです。本稿においてはその点について既にご理解いただいていることを前提に話を進めます。

 

まずアンソフは市場と製品のタイプを根拠に企業経営のタイプを8つに類型化することにより、それを成長ベクトルと呼ぶに至りました。これは企業進化論の一種と思っていただければよいのですが、前稿においては一つの戦略にとどまり続ける企業の事例を研究をしました。アンソフはそのような企業があることも認めつつ、しかしながら、企業は様々な戦略を企業の成長と共に合わせるように変化させていくことも指摘しております。ゆえに成長ベクトルとなります。スタートは現行市場において現行の製品を売っていく(取り扱う)場合です。これを先ほどは京都の老舗の呉服店を参考にしたのですが、別の老舗の呉服店が冷風機付きの着物を発売した場合を考えると、それは既存市場において新製品を開発し、発売する新しい現象として捉えることができます。いわゆる「新製品開発」といわれる段階であり、ここに移ることを成長と表現する経営学者もいます。私は残念ながらその立場にはありません。

 

ここで面白いことが発見できます。市場浸透でも新製品開発でもともに呉服店として成功しているわけでありまして、何が違うかというと「意思決定」の違いであります。成功企業においてはどちらも成功の法則でありまして、他の企業と大きく異なるのは「意思」でありまして、「着物」そのものが違うわけではありません。意思が違うから着物に違いが出るわけでありまして、しかしながら、製品を違えなくても意思がしっかりとしていれば成功するものであるという仮説を設定することも可能であります。ここで最も着目しなければならないのは、新製品を開発した老舗の呉服店はなぜそのような意思となったかであります。

 

経営戦略論的な見解では、意思がしっかりとしていれば成長ベクトルを辿る必要はなく、市場浸透で十分に「成功企業」となれるわけです。しかも、成功企業は成功企業同士のつながりがありますからそのようなことはわかっているはずなのに、市場浸透戦略で攻撃する成功企業があれば、新製品開発戦略で応戦する成功企業が実際に存在します。これは非常に興味深いことであると思いませんか?この違いはどこからくるのかについて興味がわいてきませんか?非常に個人的な話で恐縮ですが、私は非常に興味がありまして、ぜひとも皆様方に伝えたいと思い、その気持ちをしたためている次第です。

 

この第一段階から第二段階へ進もうとする企業は、市場浸透では活路を閉ざされている状況のため、新製品開発に進んだものと思われます。これは同じ人間でも個性化の過程が十人十色であるのと同じことでありまして、様々な理由により、成功企業の在り方をまねしたところでそこへは到達できないことが多々あることを示します。同じ呉服店においては、アンソフの理論からすると、市場浸透で成功するならかたくなに古いことを守っていれば簡単に成功するわけでありまして、それでよいのであれば老舗企業の「倒産」などは発生しないわけでありまして、戦略を変えなければならない企業や倒産を余儀なくされる企業についてはやはりそれなりの理由があるわけです。また、市場浸透戦略にとどまる企業についても、本当は新製品の開発を行いたいかもしれないです。しかし、戦略というからには意図的に市場浸透させようとしているわけでありまして、そこにどのような人間の心理が働いているかが「戦略は意思決定」となるのではなかろうかと思うのです。

 

企業経営の実際には様々な人が関わってきます。経営者のワンマン経営なるものは事実上、不可能であります。例えば、株式会社によるワンマン経営なるものは理論上はありえなく、出資者が必ずついて回りますから株主との意見なども聞き入れながら企業経営を行わなければなりません。ある程度の規模になると、必要がないにもかかわらず銀行などによる間接金融にて資金調達が行われるようになります。こうなると経営に銀行が口出しするようになりまして、自社の組織の統一と共に、株主や銀行への配慮が加わり、意思決定は困難を極めてきます。

 

さてその中で市場浸透戦略にとどまる企業もあれば新製品開発戦略にシフトする企業もありまして、同じ成功企業といえども個性があります。次の稿からは企業経営の実際における事例を紹介しながら、それを心理学的に考察していこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。

経営学と心理学と題して論じておりますが、そもそも私からの問題提起は、「戦略は意思決定である」なる経営戦略論での最上位概念について問題があると感じたからです。「意思」は人の心を表現したものでありますから、当然のごとく人の心に接近しなければならないのです。しかし人の心に接近すると、「それは心理学としてやってくれ」と多くの経営学者は述べます。ここが問題であります。矛盾を矛盾として感じていないことになり、学者でありながら思考の停止といいますか、経営戦略論では人の心について論じるべきではないという思考が働いており、ここに日本の経営学者の心の問題を心理学者として見つけ出すものであります。

 

これを言い出すときりがないのでここでとめますが、企業経営者はなぜその戦略にたどり着いたのかについてが面白いところであり、そこに経営学は着目しなければならないかと思うのです。例えば、経営戦略という概念を作ったアンソフは経営戦略を8つに類型化し、まとめた学者でありますが、こうなると経営者のタイプには8つあることになり、同じ人間、そして企業経営者でありながら8つの違った意見があるなかで、それぞれが成功しているとなります。こう考えると面白くなってきませんか?

 

市場浸透戦略なる戦略で成功している企業はどのような企業であるかを考えてみた時、京都の着物の老舗企業であるとか、大阪のたこ焼きなどが頭に浮かぶのではないでしょうか。多角化で成功している企業となると、メルセデス・ベンツ(ダイムラー社)などが理解しやすいと思います。このブランドではいわゆる垂直統合戦略を採用していて、ビスを作るところから始めるのが特徴です。ともに成功企業であり、京都の着物も大阪のたこ焼きも世界ブランドとして確立しております。大阪のたこ焼きはたこ焼きが世界へ渡ったのではなく、世界の記者がたこ焼きに寄ってきて有名になりましたし、京都の着物もこの例に従います。こうなりますと成功するとは何か?という非常に答えをだしにくいことになるのですが、しかし、成功者には8タイプの人間がいることを古くにアンソフが述べているわけですから、それらの成功者の心理的状況と重なる部分がないのなら、企業経営には向いていないのかも?と自問自答することが容易となります。

 

ではアンソフがなぜここまでの分類を可能にしたのかについてが心理学的に面白いのですが、皆様方はどのようにお考えでしょうか。偉大な経営学者であるアンソフを心理学的に追求してみるわけですが、まず、類型化することが好きなタイプの人がいます。換言すると、類型化することに快感をえる「性格」の人です。これはユングのタイプ論から判断すると、外向的思考型のタイプの人に多くみられます。これに対しミンツバーグは明確な類型化を行わない学者でありまして、またそのようなことは好きではないと明言しております。彼の論法はいったんは類型化するものの、その後に全て統合化させ、それを「コンフィギュレーション」と呼び、ユングのいうところの「コンステレーション」とほぼ同じ使い方をするのが特徴であります。まあしかし、ミンツバーグもこの意味では外向的思考型の人物であり、同じ経営学者でも共通性はありながら、見事なほどの第三の道、つまり個性化を見ることができ、実に楽しいのであります。

 

さて、アンソフは外向的思考型ゆえの理論を発展させ、その恩恵を私達は受けているわけですが、さて、各企業の経営者がなぜその戦略にて企業の活動を行うに至ったのかについてを研究していくことにより、「戦略は意思決定である」を真に理解することが可能となると考えております。

 

ご高覧、ありがとうございました。

前稿において経営学は実践的な経済学的視座から生まれた学問と述べたものの、しかしながら企業という現場においてそれほどの威力を発揮できていないという現状を述べ、それ故に心理学の力を借りてはどうかという仮説を導き出しました。組織の問題にしても経営戦略の問題にしても現場は常に動いており、一定の状況ではありません。理論が出来上がるまでに状況が変化するために学問は現場の意見から必ず遅れて答えを出すことになります。さらに、部長の机の上に----たとえ非常によくできた論文であったとしても----二万字の論文が置かれていたとすると、その部長は激怒するのではないでしょうか?時間がないところに二万字の論文が置いてあったとしても、誰が読むのでしょうか?このような点を考えていかねばなりません。

 

私の専門である経営戦略論を例にして話を展開しますと、例えばチャンドラーはこのように言いました。「組織は戦略にしたがう」・・・

 

現場では「だから何??」となります。経営学者であるならばこの言葉は重要な意味として捉えますが、しかしながらこれを重要だと思っているのは経営学者だけでありまして、現場でこのようなことを言い放ったところでどうにもなりません。アンソフは部分的無知の発見や戦略を合計8つに区分(その内、多角化戦略を4つに区分している)して論及しましたが、それを現場で発表したところで何の役に立つのでしょうか?ポーターがバリューチェーンについて競争戦略論で論じておりますが、バリューチェーンについては日本は昔から得意としていることであり、クラスター戦略については古の時代からの日本での商慣行であります。それが機能しなくなってきたからどうするのか?という時代にハーバードのポーター教授曰く・・・・といったところで何も始まらないのであります。

 

組織論についていえば、ウェーバーの官僚制組織、時代が下ってテイラーやメイヨーから近代にいたってはミンツバーグのコンフィギュレーション、日本では野中郁次郎博士のナレッジマネジメント、最近ではティール組織などが論じられておりますが、組織が組織としてうまく機能することなどまずなく、現場では常に問題だらけなのであります。よくできる社員やコンサルタントはそこに目をつけてティール組織ならうまくいきます!!と断言し新しい組織図を描くのですが根本的な問題の解決には至らないのがほとんどであります。組織の常はなんといっても上の人がいれば下の人がいることです。上の人がいなければ命令系統がないので組織は動かず、下の人がいなければ上の人は汚い仕事をも行わなければならず、この上下関係がついて回る限りどのような組織も円滑に回ることはないものと思います。どれほど素晴らしい自立型の組織であったとしても上下関係が存在する限り自立というわけにはいかず、ここにねじれが生じることにより組織は崩壊へと向かいます。これが現実であります。ではこの上下関係を生むものは何かを考えるとき、やはり人間そのものへ接近する以外に方法がありません。

 

このように見ていくと経営学という学問はかなり内容が薄いものといわざるをえません。それゆえに現場での応用がなされていないのが現状であり、せっかく大学にて経営学を学んだとしても実社会では全く通用せず、むしろ経営学の知識を使おうとした社員が煙たがられるなどのこともあり非常に残念な学問分野となっているのが残念であります。ところがこの経営学は前述のように、ほとんどがアメリカで生まれた理論であるため、元々は現場中心の学問であることに間違いはありません。チャンドラーにしてもアンソフにしても成功企業を事例研究して導かれた結論を世に放っているのでありまして、その意味で実践に向いていないというのは非常に矛盾しているのであります。

 

この点をよく考えてみますと、まず、日本の経営学がアメリカの経営学をそのまま輸入して使っているだけというのも原因の一つといえるでしょう。しかし理論的な展開について優れているアメリカの経営学を日本でうまく活用されていない原因として、これだけではないと思われます。アメリカから理論を輸入したものを日本流に応用されていないことが大きな問題であると思われます。つまり、アメリカから輸入された理論がそのまま使用されていることに問題があるのであって、アメリカの優れた理論展開の方法(事例ではなく方法論)を取り出して日本企業の事例研究に活用し、そこから理論を導き出すという方法をなぜできないのかについての問題が非常に大きいかと思われます。

 

日本の経営学がアメリカの経営学を直輸入して形成されていることについて私は否定はしません。それが日本の経営学であり、その流れの中で現在の日本の経営学が存在します。しかしながら、その使い方に大きな問題があるように考えられるというのが私の仮説であります。アメリカの経営学が優れている故にそのまま使用するというのは一つの方法であるでしょう。しかし、ローマは一日にして成らず、日本には日本の企業の在り方なるものがありまして、それゆえにアメリカの事例そのものを日本の企業の事例に当てはめて考えるには無理があります。そして根本的な問題として、「なぜ日本の経営学はアメリカの経営学の事例をそのまま活用するようになったのか?(もちろん、日本人なりに考えられた日本独自とされる経営理論もありますが、理論的展開についての基礎理論の裏付けが不十分であったり、そもそも基礎理論についての理解が不十分であったりする場合が多い。かといって私がそれらの条件を満たしているかというと、浅学非才でありますからそうともいい切れないのが現状。)」であります。窮極的には理論を操作する学者の問題であり、「なぜそのような方向へ行動するのか?」を追求していかなければ問題は解決できません。

 

経営学がなぜ心理学と比べこれほどまでに混沌としたした世界観であるのかについて考えてみるとき、上述のようにそもそも学者の基本的な性格の問題であることがよくわかります。ここまで書くとお分かりだと思いますが、ユングのタイプ論における性格の基本態度から吟味していくと納得いく結果が得られるのではないかと思われます。ここまでくると書き手である私も面白くなってきましたが、ここでこれ以上論じるとまとまりがなくなりますから、ここで筆を置きます。

 

ご高覧、ありがとうございました。

世間様からの私の印象は心理学者でのイメージが強いようですが、実のところ私が最初に博士の学位を取得したのは経営学であります。その後に経済学の博士の学位を取得し、三番目に取得した博士の学位が心理学であります(正確には教育学)。確かに現在では私の心理学の知識を提供することの方が多くなっておりますが、それにしても経営学という学問を追求していくための補助的な学問として始めた心理学の方で私の名前が世に出たことは予想もしなかったことでありますし、しかしこれが世の中であります。

 

ところで経営学とはなんぞやという基礎的なところから始めていこうと思います。経営学とは主に企業経営についてを専門的に取り扱う学問であります。企業でありますから法律用語である会社以外のことも当然のことながら含みます。つまり、何らかの活動を行うことを経営という専門用語に例え、そのための方法論を伝えていくのが経営学なる学問であります。ここで気になるのが「何らかの」でありましょう。

 

経営学では主に法律用語でいうところの会社について論じていることが多いです。なぜそうなるのかは私もわかりませんし学会もその点については答えを出していないのですが、こうなってくると昔からの慣習であるといわざるをえません。経営学自体はアメリカの学問であるため日本に経営学が輸入された時点では既に法律用語での会社の研究に特化された形式であり、それを日本の学会も従ったと私は解釈しております。日本での経営学博士号の第一号は神戸大学教授であった平井泰太郎博士でありますが、平井博士の研究方法も例外にもれず、法律用語における会社の経営を主にし、研究を展開しておりました。これが正しいか否かの話ではなく、経営学における企業の研究は法律用語における会社の研究を行い、そして論じていくことは昔から既に受け継がれているものであると見て間違いありません。

 

ところがここで問題なのは、企業なるものは法律用語における会社だけではないことは当時の経営学会(つまり、平井博士が現役の研究者であったころから)の通説でもありました。定義そのものとしては、目的意識をもって活動する個人ないし組織のことを企業とするとその頃から定義されております。そのあたりのことは平井博士の書物を図書館などで読んでいただきたいのですが、なぜか研究対象は法律用語における会社のことでありまして、経営学における企業の概念からすると例えば、ロックバンドも企業でありまして、しかし私が学生であった時代はロックバンドのことを企業と定義し経営学的に研究することはなぜかタブーでありましたし、現在でも学会としての態度の変化はありません。この点について私のバンドの国際的な成功によりかなり風向きが変わってきたのですが、それにしてもこのような出来事を「矛盾」といわずして何を矛盾と定義するのか?という疑問を学生時代から抱いていたのでありました。

 

ではなぜ経営学がこのように混沌とした学問となってしまったかについてを考えていこうと思います。経営学の源流はこれまで何度も書いてきておりますが、それは経済学であります。経済学から個別企業の行動のみを抜き取って生まれたのが経営学であります。ですから経済学の中でもミクロ経済学の中から生まれたものであります。ミクロ経済を見ていく中で、経済状況をマクロレベルでよくしていこうとするとどうしても個別企業の活動を活発化させなければならい事がわかってきました。このあたりはかなりシュンペーター的な発想であるところが興味深いのですが、たとえば機会費用なる考え方が必要となった時、ミクロ経済学では関数を持ち出して曲線を見ながら将来を予想するという大雑把な考え方でいいのですが、実際に行動しなければならない個別企業はそれらの曲線が本当に正しいのかどうかについて保証がないため非常に悩みますし、また仮説の範囲内のことで将来を決定していくことなど、経済学者たち、おまえらアホカ!!!だれがカネを支払っている(投資している)とおもてるねん!!!という結果になるわけでありまして、そういった個別企業の現場の声をくみ上げ、より実践的で有効な学問として出来上がったのが経営学であります。

 

このような経緯からの経営学でありますから非常に実践的であると考えられておりますが、実際にはそれほどでもなく、近年では成功企業の事例研究を行い、それを取りまとめた個別企業の成功物語を歴史的に述べる、つまり歴史書を作っていくような学問となってしまっているのが残念でなりません。経営学が生れてくる頃の精神は非常に素晴らしかったにもかかわらず、どうしてこうなってしまったのかについてをもう少し深く掘り下げ、なぜ経営学に心理学が必要なのかを論及していく予定であります。

 

ご高覧、ありがとうございました。