実のところ、この書きモノは昨年(2008年)の春ころから始める予定にしていた。ある雑誌のエッセイなどには、そのように予告してあったから、それをみた人は、始まらない、おかしい、ササクラは嘘をついたのではないかと思われたかもしれない。

 そうではない。もろもろの事情あり、およそ一年ほども日程が延びてしまったのである。じりじり、やきもきしながら待っていた人がいるかどうかは知らないが、やっと船出する日が来たようで、これから先は、同乗してくれる人がぽつぽつ現れるのを待つばかり、そして無事の航海を願うばかりだ。


メナム・エクスプレス

      
 そういえば、この国の大動脈、チャオプラヤー川をゆくメナム・エクスプレス(写真)は、数ある岸の船着場で、人を乗せたり降ろしたりしながら走っている。それは風物詩的な情景であり、観光の目玉の一つともなっている。

 我のこの書きモノも、そうやって人を乗せたり降ろしたりしながら進んでいくのだろう。ただ、年中無休のメナム・エクスプレスと違って、日曜祭日はお休みさせていただくかもしれない。違いといえば、それくらいのものか。
 さて――。

2)
 この国の爪楊枝(つまようじ)は、両端が尖っている。
片方が使えなくなると、もう片方で歯をほじくればよい。非常にシンプル、というか、ごく当たり前に合理的、実利的である。


タイの爪楊枝

      
 それに比して我が国では、片方しか使えず、もう片方には彫りが二筋ばかり装飾的についている。無駄、というか、楊枝ごときものに、なぜそんな飾りみたいなものをつけるのか、大いにギモンとする。

 それより、単純に棒切れにして両端を尖らせ、どちらも使えるようにしたほうが、我のごとく、それを常用し、毎食ごとにゴシゴシと歯と歯の間を掃除する者にとっては、ありがたくもある。が、日本では、もう一本、新しいのをつまみ出さねばならない。しかも、店によっては、わざわざ薄紙に包まれているし、使われるかどうかもわからないのに、お箸と一緒に包装されていたりする。
 非経済的、非合理的だ。

 何、たかが爪楊枝のことでゴタゴタいうな、と叱られそうだが、実は、我は真面目、これを突きつめていけば、こなたかなたの比較文化論にまでおよぶモノが書けると思っている。
 が、論文など書いてしまってはおもしろくも何ともない。理屈はできるだけいわないことにしよう。

 そこで、爪楊枝のことをもう少し。こちらタイでは(今後は「この国」「こちら」という)、両端が尖っているとはいえ、その形状はときに不ぞろいで、安食堂では片方が切り出しナイフみたいに鋭利なものも混じっている。