東京リビングストーン教会水曜礼拝
主題 キリスト教伝来~江戸時代の鎖国、禁教まで
日本へのキリスト教伝来~織田信長時代
1549年、イエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本の九州、鹿児島に上陸。カトリック伝来
2年3か月に渡り、宣教活動を行い、約700名に洗礼を授ける。
日本に福音化の希望を見出したザビエルは、イエズス会本部に更なる応援を要請
ザビエルは、中国の文化が日本に大きな影響を与えていることを知り、中国に宣教に向かう途中に病死。
ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。
豊臣秀吉時代と最初の殉教者
秀吉は基本的に信長のキリスト教寛容政策を受け継いだが、1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。
江戸時代~徳川幕府~
徳川家康は最初はキリスト教を黙認したが、後に態度を硬化させる。
島原の乱(1637年)
江戸時代初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。島原・天草の乱、島原・天草一揆[4]とも呼ばれる。寛永14年10月25日(1637年12月11日)勃発、寛永15年2月28日(1638年4月12日)終結とされている。乱のきっかけは圧政・重税であったが、乱勃発後にはキリスト教が一揆のよりどころとされた。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。
5人組制度
江戸幕府が年貢納入の連帯責任や相互監察のために5軒ずつで構成された組織である。
5軒は連帯責任が特色で犯罪者が出たり、騒動を起こすと、同じ組の人全員が処罰される事もあります
隠れキリシタン
壊滅したかに見えたキリスト教徒たちであったが、九州の一部などでは信徒たちが宣教師たちの教えを口伝えに伝え、水方や帳方といった信徒組織を形成することで、親から子へ、子から孫へと密かに信仰を伝えていった。これが隠れキリシタン(潜伏キリシタン)である。彼らは仏教徒を装いながらも信仰をひたすら守り、キリスト教を自由に信仰できる日が来るのを待ち続けた。
明治維新と文明開化~太平洋戦争へ
開国への圧力1853年、アメリカのペリー総督が日本の開国を求めて「黒船」に乗って来る。
1859年、箱館、横浜、長崎が開港され、本格的な貿易が開始された。貿易相手国は主にイギリスであった。⇒海外宣教師の日本上陸。(事実上のプロテスタント教会の始まり)
カトリック教会の復興
1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン神父と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。
明治時代のプロテスタント教会の宣教
プロテスタントの宣教師として最初に来日したのは1859年5月到来の米国聖公会ジョン・リギンズ (John Liggins)であった。これを皮切りに1859年中には,「ヘボン」とよばれたアメリカ合衆国長老教会の医師ジェームズ・カーティス・ヘップバーン (James Curtis Hepburn) (10月17日)をはじめとし、アメリカ・オランダ改革派教会から派遣された宣教師グイド・フルベッキ (Guido Herman Fridolin Verbeck)、医療宣教師ダン・B・シモンズ (Danne B.Simmons) などが続々と来日した。
宣教バンドの結成
横浜バンド(ヘボン)⇒青山学院大、明治学院大、フェリス女学院の創設
札幌バンド(クラーク)⇒内村鑑三(神学者)、新渡戸稲造(「武士道」、国際連盟事務次長)
熊本バンド(ジェーンズ)⇒新島襄(同志社大)
軍部の台頭と戦争へ突入
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1910年 韓国併合
1914年 第一次世界大戦
1941年 太平洋戦争
キリスト教への弾圧
昭和初期には軍部が台頭すると、軍国主義のイデオロギーとして「国家神道」が利用されるようになり神道以外の宗教団体への圧力が強まった。特に教育や思想の分野において国粋主義が強化されたことで西洋の宗教であるとみなされたキリスト教は苦しい立場におかれることになった。特に1931年の満洲事変勃発以降はその傾向が強まった。1939年、帝国議会によって戦争遂行のため宗教団体を統制する目的で「宗教団体法案」が可決成立し、翌1940年4月1日から施行された。これによって、日本のキリスト教界において多くの団体が政府に協力した。
淀橋教会は天皇と神社参拝を拒否し、宗教弾圧を受ける。当時の担任牧師の小原牧師は投獄され、教会は閉鎖された。
3.戦後のキリスト教会
1945年8月6日(広島)9日(長崎)に原爆投下
8月15日 無条件降伏で終戦
戦争が終わると、進駐してきたGHQの指示によって国家による神社への保護(国家神道)が廃止されたことにより、キリスト教各派は自由に活動できるようになった。さらに1945年10月、宗教団体法が撤廃され宗教法人令が公布・施行されると、戦時中に統合・監督的束縛を加えられていたキリスト教各派は、一斉に組織の再編に着手すると共に、日本各地で大規模な布教を開始した。
1946年、日本国憲法によって完全な信教の自由が認められる。
現在、キリスト教人口の大まかな内訳はカトリック教会44万人、プロテスタント諸教派総計50万人、日本正教会1万人などである。クリスチャン人口は約1パーセントである。
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