東京リビングストーン教会主日礼拝2016.11.13

聖書本文:使徒言行録27章1節~26節

主題:人生は航海のようなもの


パウロはエルサレムでユダヤ人の指導者たちに捕らえられ、法廷で自らの救いと主イエスについて証ししました。彼はローマ皇帝に上訴するためにカイサリアに連行され、そこでヘロデ・アグリッパ王にも自らの救いとキリストの福音を伝えるようになりました。

パウロにとって、法廷は罪の裁きを受ける場所ではなく、イエス・キリストの福音を伝える伝道集会の場所であったのです。

彼はそこで弱々しい被告人、容疑者ではなく、大胆で力強いキリストの証人でありました。そして、いよいよ今日の本文でパウロは生まれながらのローマ市民の権利を生かし、皇帝に自らのおかれた立場を訴えるために、ローマに向かって送られることになります。その道程は船旅であり、百人隊長ユリウスがそれを指揮しました。不思議に思えるかもしれませんが、当時のローマ世界、地中海世界は、その前後の時代と比べて最も安全に船の旅をすることができる時代でした。何故だか分かりますか?

ローマ帝国はまさにイエス様の時代とほぼ同じ時期に、共和国から帝国へと移行しました。ローマはイタリア半島の小さな都市国家として紀元前700年に誕生し、最初はイタリア半島を統一し、その後地中海世界の北側を統一し、そしてイエス様の時代には地中海世界のすべてを支配するようになりました。そのローマ帝国の土台を築いたのはジュリアス・シーザーです。そしてシーザーのライバルであったポンペイウスという将軍がその時代に成し遂げた大きな働きが、海賊全滅作戦でした。地中海世界のすべての海賊を全滅するために、ポンペイウスに全ての軍隊を指揮する権限が与えられました。それが軍事指揮権(インペリウム=Imperium)というものでした。この言葉が後のエンペラー(皇帝)という言葉につながります。皇帝はすべての軍事指揮権を持っているからです。だから、使徒言行録を見て下さい。パウロ達はかなり船旅をしているのに、海賊に襲われたという記録は一つもないですね。

逆にこの時代から約400年後にローマ帝国は滅亡し、地中海世界は分断されます。そうなると、海賊がやりたい放題になり、むしろ後の時代なのに、はるかに地中海世界で船旅をすることは危険な状況になるのです。そのような中で、パウロ達は当時の古代世界において最も安全な時代に船旅をしてローマまで行こうとしたことを覚えておいて欲しいのです。そのような中で、パウロ達の船旅は、海賊ではなく、自然の脅威により、行く手を妨げられることになります。今日の本文を通して、全てのローマまでの道のりは百人隊長ユリウスがよく把握し、管理しているように見えます。しかし、自然の脅威により、妨げられるようになります。

いつも望み通りに行くとは限らない


使徒言行録27章から
27:7節:幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、

13節:望みどおりに事が運ぶと考える。しかし、大嵐がやってくる。
自然の驚異には逆らえない。人生、いつ、何が起こるかわからない。
14しかし、まもなく「エウラキロン」と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。15船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、私達は流されるにまかせた。

18しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、19三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。
積み荷を捨てるというのは、命の危険が迫っているので、少しでも荷物を減らして、船を軽くしようということです。19節で、船具まで捨ててしまうというのはどうでしょうか?もはや船をコントロールする道具まで捨ててしまうところに、もはや船が完全に嵐に飲み込まれていて、どうしようもないことが分かります。
そして、20節
20節:太陽も星も見えず、助かる望みは消えようとしていた。

この状況は完全な絶望です。
ここで私達が言えることは何でしょうか?二千年前だからこうですか?現代は飛行機も飛ぶ時代、宇宙船も月に行く時代、こういうことは起こり得ないでしょうか?いいえ、現代も起こります。いつの時代においても、人は自然の力の前に逆らえないものです。5年前の大津波を誰がコントロールできたでしょうか?人は環境・状況をコントロールできません。パウロはこのような危険が起こることを主の導きでしょうか?気付いていました。そして百人隊長に訴えました。しかし、受け入れられませんでした。

11節:しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。

英語の聖書の訳では、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方にもっと注意を払ったとあります。

当然です。パウロは囚人に過ぎないのです。何の社会的な力もない、連行される容疑者に過ぎないのです。
12節では、パウロ一人の意見よりは、大多数の人々の意見が採用され、危険な航海に出発するようになります。
ここで、このような出来事はまさに私達の人生に起こりうる出来事だと分かります。
思い通りに計画が進まない。会社の仕事、勉強、家庭、教会の牧会、自分の思ったようには進まない。いつも、突然、何かに行く手を阻まれる。そして計画が変更され、停滞し、時には途中で挫折したり、中止になったりします。私達はそのような計画の変更や、挫折や、中断をどれほど経験したでしょうか?そして、その時に、私達はどのように感じますか?

落胆、失望、神に対する怒り、自分の能力に対する怒り、人々に対する八つ当たりをするでしょうか?

先週は火曜日にアメリカ大統領選挙があり、トランプが多くの予想を覆して勝利しましたが、その時ヒラリーは何を考えたでしょうか?恐らく彼女は99パーセント自分が次のアメリカのリーダーになると考えて、準備していたはずです。しかし、結果は大きく期待を裏切るものでした。彼女が感じたものは、失望でしょうか?落胆?怒り?または虚しさでしょうか?

当選したトランプが、勝利宣言の時に流した音楽はローリング・ストーンズの『You can’t always get what you want』という曲でした。その曲の意味は、『いつも自分が望んでいるものが手に入るとは限らない』という意味です。

彼は勝利宣言でこの曲を流しました。これは誰に対するメッセージでしょうか?

確かに、いつだって自分が望んでいるものが手に入るとは限りません。その時に、私達の心はいつも平安ではない、まさに今日の本文のように嵐になるでしょう。

その時に、私たちはイエスを信じる者として、また聖書に基づいて、どのように私達は対処したら良いのでしょうか?

人間の無力さの源

まず、考えてみるべきことはイエス様はどうだったか?ということです。

イエス様は全てをコントロールできる存在でありました。

イエスは福音書の中で嵐を何度も静めました。イエスは湖の上をも歩きました。イエスには自然を支配する力があり、イエスは全ての環境を支配できる力がありました。

更に、イエスは世の権力や力に打ち勝つ力がありました。イエスは十字架にかかる前に、必要なら12軍団以上の天使を呼び、ローマ兵士たちを打ち倒すことができると言いました。この世の力は、全能のイエスの力、神の力に打ち勝つはずがないのです。

それにも関わらず、イエス様は十字架の上において、全ての環境、状況をコントロールするのをあきらめられました。

ここが大切なことです。イエスはゲッセマネの園で弟子たちを逃がし、一切抵抗することなく、自らユダヤの指導者、ローマ兵士たちに捕まり、大祭司の法廷に立ちました。イエスはいわゆる容疑者、被告になりました。何の社会的な力もない存在になりました。そして、不法な証言を元に裁かれるまま、群衆の叫びに後押しされて、十字架の死刑が宣告されました。

ゴルゴダの丘で、イエス様は十字架から降りられたはずです。しかし下りませんでした。イエスは嘲る人々の口を閉じることができたはずです。しかし、しませんでした。イエスは荒れ野で石をパンに変える力を持っていました。しかし、しませんでした。なぜでしょうか?

イエス様は私達を救うために、あえて、私達と全く同じ、無力な弱い罪人となって下さいました。

世の力の前で何もできない。逆らうことができない、そういう無力な存在となられたということです。ここで、私達の無力さはどこから来ているのでしょうか?私達の無力さは生物学的、物理的な問題でありません。それは『罪』から来てます。霊的な問題です。
最初の人間アダムはどうだっただろうか?彼は神に似せて造られたまし。アダムには力がありました。

創世記1:28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 

このようにアダムには神から与えられた権威と力がありました。しかし、アダムはその力をもって神にとって代わろうとした。アダムの名前の意味は何ですか?『塵』です。アダムという『塵』から造られた存在がそれを造った創造主、神になろうとしました。そして神との契約を破り、善悪の木の実を食べました。アダムは結局の所、神のような力と立場を手に入れようとして、本来持っていた素晴らしい力まで失いました。結果として支配することができたはずの自然が、アダムを攻撃するようになりました。

創世記3:18お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。 

人間は自然を支配する存在から、自然に支配される存在になりました。

あらゆる災害、地震が起こるようになりました。人間の無力さは、罪からやってきました。さらにアダムは無力な存在として、塵に過ぎない者は塵に帰るようになりました。それは私達も同様です。なぜ、私達は無力でしょうか?神なしには、私達は塵のようないずれ消えてゆく存在に過ぎません。塵に過ぎないから塵に帰るのです。人は死ぬべき存在になりました。イエス様は、塵に過ぎない死ぬべき私達を救うために、私達と同じ塵のような、死ぬべき体を持つ存在になって下さり感謝します。

そして、イエス様は私達の持っている全ての弱さ、その原因である罪を背負われて、死んでくださいました。

しかし、イエス様は十字架の死の三日後に復活され、イエス様は塵に過ぎない弱い肉体を持つお方ではなく、決して死なない、朽ちない体で復活されました。塵のように崩れる体ではなく、永遠の体です。ここで、私達にも同じ希望があります。私達は今は罪深い、弱い肉体を持つ、弱く無力な存在ですが、終わりの日、神の御国においては、イエス様と同じ、力ある神の子として復活することを信じます。


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