キリスト教は喜び(JOY)の宗教だと言われることがある。新約聖書フィリピ信徒への手紙は、著者である使徒パウロが牢屋に監禁されているにも関わらず、

“主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4章4節)”

と語っている。聖書全体で、「喜び」という単語は418回出てくる(新共同訳)が、パウロが牢屋に監禁されている時に書かれたフィリピ信徒への手紙には10回この単語が出てくる。

では聖書で言う主において喜ぶとはどういうことだろうか?多くの人々が喜びにあふれた人生を送りたいと思っている。悲しみに溢れた人生を送りたいと思う人はいないはずだ。

多くの人が喜びに満たされた人生(Joy Filled Life)を送りたいにも関わらず、悲しみに満たされた人生(Sorrow Filled Life)を送っている。原因は人間の罪(SIN)である。

人間の罪とは、自己中心性(Self Centeredness)から来る。あくまでも自分が人生の中心であることにこだわるゆえに、多くの人々は不幸に陥る。

ここで、私達は人生の中心は自分自身ではなく、天地創造された主なる神であることを認めなければならない。そのようにして、自分自身から神に心のベクトルを向け直すことが悔い改めである。

ある人は喜び(JOY)はこのようにして訪れると話した。

1.Jesus(イエス)

2.Others(隣人)

3.You(自分)

おわかりだろうか?JOYの文字通りに、最初はイエス(Jesus)、次に人々(Others)、最後に自分自身(You)を優先することを通して、喜びにあふれた人生を送ることができるというものだ。

このような優先順位で生きられたら良いと思う。しかし簡単ではない。あくまでも自分自身は自分を優先しようとするからだ。このような罪深い、自己中心的な私達のために、イエス・キリストはその身を捧げて罪の罰を受けて、身代わりに死んで下さった。

私達が正しく生きられないからこそ、キリストが私達の代わりに生きて下さったのだ。そしてキリストは私達の代わりに死んで下さっただけではなく、私達の代わりに生きて下さった。

キリストの33年間の生涯は完全な従順(Perfect Obedience)である。そこには何の不従順もない。そのようにしてキリストは父なる神に完全に従い通した。最初の人間が完全に不従順してしまったことは創世記3章から分かる通りである。キリストは第一のアダムの失敗を取り戻す(Redeem)するために、第二のアダムとして、真のアダムとして完全な従順の生涯を送られた。

イエス・キリストを信じる時に、私達は罪の赦しを頂くだけではなく、キリストが全うした完全な従順の人生(神の義)をも受け取ることが出来るのである。これが福音の希望である。

私達が正しい人生を生きることで神に受け入れられるのではない。既にキリストが生き抜いた正しい人生を信仰による受け取るのだ。これが『信仰義認(Justification by Faith)』という素晴らしい神のプレゼントである。