記事をリニューアルしました(2022/10/5) 



登彌神社前の三叉路に立つ嘉永3年の道標です。正面右上部が大きく破損しています。欠落部分は推測ですが、正面(南面)には「…(右?orすぐ? す)みの堂 京ば(者゙)し 左 く(久)らか(加)り峠 玉造 道」と刻まれています。



西面には「干時嘉永三庚戌正月吉辰建」と刻まれています。「吉辰」は吉日や吉祥日と同じ意味です。



東面には「○(梵字?) 九連中 せわ(世王)人 町内安全」と刻まれています。



北面に文字はありません。



蒲鉾型の頭頂部。



正面右上の破損部分。



登彌神社前より三叉路と道標を望む。






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登彌神社入口西の三叉路に立つ嘉永3年の道標です。素晴らしい筆使いで書かれた立派な道標ですが、正面右上部が大きく破損してしまっています。

この道標が暗越奈良(大阪)街道と古堤街道(中垣内越)を案内しているのは確かなので、この欠落部分を補うと、右行は「右(orすぐ) すみの堂 京ば(者゙)し」であると思われます。この道標は古い仮名遣い(変体仮名)が多く見られます。いつもながら現代仮名に近いもの以外は字母(仮名の元になる字)を併せて表記しています。

道標から右(北)への道は郡山街道(富雄街道)と呼ばれ、富雄川沿いに砂茶屋、高山を経て傍示越で河内国へ通じる主要な道でした。この道標では途中の三碓から古堤街道(中垣内越)経由で住道、京橋方面に至るルートを案内しているようです。

左(西)は富雄川を渡って暗越奈良(大阪)街道の追分本陣に出る道で、大坂への、また大坂側からは郡山への近道として多くの旅人が利用した道です。追分本陣の村井家住宅前に立つ安永2年と天保7年の2基の道標には「こほりやま道」の文字があり、この道も郡山街道などと呼ばれます。

西の暗峠越えと北の中垣内越えという完全な2つの別ルートを案内していますが、それぞれの街道の最終到達地点である京橋と玉造は3km弱しか離れていない、と言うのが面白いところです。道標ではこのように別々の街道を案内していても最終到達地点が比較的近い例や、わざわざ別ルートを示す例がたまにありますが、単純に大坂の町に出たい場合にはどちらに進んでよいのか迷ってしまうことでしょう。


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・各面の内容 

[南面]_(右上部欠損)、
            …みの堂 (右orすぐ、すみの堂?)、京ば(者゙)し、
            左、く(久)らか(加)り峠、玉造、道 
[西面]_干時嘉永三庚戌正月吉辰建 
[東面]_○(梵字?)、九連中、
            せわ(世王)人、町内安全 
[北面]_文字なし 


建立年 : 1850年 (嘉永3年) 

登彌神社前 (郡山街道・富雄街道・九条街道?) 



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<2015/4/14 初投稿> 
<2018/7/24 写真更新・補筆> 
<2019/9/17 保守> 
<2021/2/2 補筆> 
<2022/4/18 補筆> 
<2022/10/5 リニューアル(写真更新・補筆)>