朝日新聞が訂正記事を出した以降も旧日本軍の元従軍慰安婦問題は左右の間でもめているようです。偶々週刊金曜日の記事を見て不思議に思ったので、金学順さんの証言を調べてみました。非常にバリエーションが多く大変戸惑っています。どれが実際に発生したことなのか、今となってはわからないのかもしれませんが、なぜ日本では人身売買に関する情報は広がらなかったのか?今となっては不思議です。

慰安婦問題の専門家は人身売買があったであろうと推定されています。

「しかし、このなかでもっとも信頼性が高いのが挺隊協・挺身隊研究会『証言』であることは、専門家ならわかるはずである。生年は戸籍で確かめているし、ヒアリングは何度もおこなわれており、妓生を養成する家に40円で売られたという本人にとって不利なことも明言されているからだ。お金をかせぐために中国につれて行かれたというのは、共通している。問題は慰安婦にされた事情だが、『証言』では、養父は北京で日本軍将校にスパイと疑われてつれて行かれ、彼女は別の軍人によって慰安所に連行されたと記されている。しかし、かせぐために中国につれて行かれたとすれば、養父に売られた可能性があるとみるのが自然だろう。現に、秦教授もそう考えている。これが史料批判なのだ。」75頁吉見義明・川田文子編「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実1997年大月書店

金学順さんの証言集

媒体 証言-強制連行された従軍慰安婦たち,明石書店1993,韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 元従軍慰安婦・金学順さん(手紙 女たちの太平洋戦争)1991.12.25朝日新聞,植村隆 思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦を韓国の団体聞き取り1991.08.11朝日新聞,植村隆 1991年8月15日東亜日報イヨウンイ記者1991년 8월 15일자 동아일보〈이영이 기자〉 ハンギョレ新聞1991年8月15日キム・ミギョン記者 한겨레 | 1991.08.15 김〈미경 기자〉 pp.127-130, The Comfort Women, C. Sarah Soh, University of Chicago Press2009 訴状 宝石1992年2月号光文社,臼杵敬子「<もうひとつの太平洋戦争>朝鮮人慰安婦が告発する 私たちの肉体を弄んだ日本軍の猟色と破廉恥」 金学順(キム・ハクスン)さんの証言,解放出版社,1993年
インタビュー 1990年7月結成の挺身隊研究会のインタビュー _ 1991年8月10日韓国挺身隊問題対策協議会が女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開 1991年8月14日午後挺身隊問題対策協議会記者会見 1991年8月14日午後、韓国女性団体連合オフィスにて記者会見 「I learned from Yun Chō ng-ok, the founding corepresentative of the Korean Council, that Kim’s original unpublished story given to Yun」 1991年12月6日 _ 1991年12月来日時
氏名 金学順 金学順 不明 金学順 金学順 金学順 金学順 金学順 金学順
生地 「旧満州の吉林省」 「満州(現中国東北部)の吉林省の田舎」 中国東北部 _ 満州吉林省 _ 吉林省 吉林省(旧満州) 吉林省(旧満州)
父の名前 _ _ _ _ _ _ _ 記載なし。独立運動家を助ける人 キム・ダルヒョン(独立運動家)
母の名前 _ _ _ _ _ _ _ _ アン・キョンドン
生年月日 1924年 _ _ _ _ _ 一九二三年 _ 1924年
母の出身地 平壌 _ _ _ _ _ _ _ _
父の死亡日 本人出生から100日後 「私が生後100日位の時」 _ _ _ _ _ 本人出生から100日後 本人出生から100日もたたないうち
父の死因 不明 _ _ _ _ _ _ _ 「日本軍の銃で撃たれて亡くなったのです(p10)」
父の死後の育成地 平壌 _ _ _ _ _ 平壌 平壌 平壌。「普通門(ポトンムトン)があるその近くp12」
母の信仰 牧師がいる教会 _ _ _ _ _ _ _ キリスト教信者
母の語学力 _ _ _ _ _ _ _ _ 「中国語がとても上手だったことを覚えていますp13」
学歴 「平壌の教会が運営する学校へ4年間」 _ _ _ _ _ 「普通学校にも四年生まで通った……家が貧乏なため、金学順も普通学校を辞め」 _ _
母の現在 _ _ _ _ _ _ _ _ 「中国に行くときに、母が汽車まで送ってきてくれて会ったのが最後でした。ピョンヤンの駅まで来てくれてp11」
母の再婚日時 14歳 _ _ _ _ _ _ 14歳 _
養子先 妓生を養成する家 _ _ _ 母親によって14歳平壌寄生グォンボン(券番) に売られた「생활이힘들어진 어머니에 의해 14살때 평양 기생권번으로 팔려갔다. 」 _ 金泰元 平壌にあった妓生専門学校の経営者へ40円で売られ、養女として踊り 14歳で家出してキーセンの修業のできる家の養女へ「そこで家を飛び出してしまったのです。私が十四歳のときです。こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって稼ごうかと考えた末に、キーセンの修業のできる家の養女になったのです。養父がたくさんお金を出してくれて、歌や踊りを十七歳になるまで、ピョンヤンにある学校(※大同門通り近くに唯一のキーセン養成学校「箕城妓生養成所」があった)P14」で三年間習いました」
養子へ出た年 15歳 _ _ _ 14歳 _ _   _
妓生と金銭 「母は養父から四十円をもらい」 _ _ _ _ _ _ 40円で売られ 14歳で家出してキーセンの修業のできる家の養女へ
養子先の場所 平壌府キョンジェ里一三三番地 _ _ _ _ _ _ _ _
養子先での通学場所 平壌の妓生巻番霞生養成学校 _ _ _ _ _ _ _ 箕城妓生養成所
通学期間 2年 _ _ _ _ _ 「(養子にいってから)キーセン学校に三年間通った」 _ 3年「ピョンヤンにある学校で三年間習いましたp14」
卒業年 17歳 _ _ _ _ _ _ _ 17歳
中国への渡航 1941年 _ _ 金さんが従軍慰安婦に連行されたのは、16歳になっ1940年の春。「김할머니가 종군위안부로 끌려간 것은 만 16세 되던 1940년 봄. 」 _ _ 一九三九年 1940年春ごろでした _
中国渡航の理由 「19歳にならないと役所から妓生許可が下りない……国内では私たちを連れて営業できなかった」 『そこへ行けば金もうけができる』。こんな話を、地区の仕事をしている人に言われました。仕事の中身はいいませんでした。近くの友人と2人、誘いに乗りました。17歳(数え)の春(1939年)でした」 「「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。」「17歳の時、だまされて慰安婦にされた。 _ 最初の就職 _ 「そこへ行けば金儲けができる」と説得され、 養父「稼ぎにいくぞ」 満州で稼ぐ「十九歳以上でないと許可がおりないんです。そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョンヤンでは暮らしていけないから、満州へ行こう」と言いましたp13」
中国へ連れていった人 養父 未記載 未記載 養父 グォンボン(券番) の養父 _ 養父 養父 養父
中国渡航許可 「養父は中国へ発つ前に母に連絡して中国へ行くことを承諾してもらいました」 _ _ _ - _ _ _ _
日本軍とあった場所 平壌で汽車に乗って新義州から安東橋を渡りサンヘグァンヘ行く時、養父が日本の憲兵に検問されました。養父は検問所に入って何時間か後に出て来ました。 _ _ _ 3年間のグォンボン生活を終えたキム氏が最初の就職のことを知ってグォンボンの継父に沿って行ったところ、北側の中国鉄壁陣日本軍3百名余がある小部隊の前だった。「3년간의 권번 생활을 마친김씨가 첫 취직인 줄 알고 권번의 양아버지를 따라간 곳이북 중국 철벽진의 일본군 3백여명이 있는 소부대 앞이었다.」私を連れて行った継父も当時の日本軍人にお金も受けられず、武力で私だけ奪われるようでした。「나를 데리고 갔던 양아버지도 당시 일본 군인들에게 돈도못받고 무력으로 나 를 그냥 빼앗기는 것 같았습니다. 」 _ 「平壌駅に行き、そこから軍人しか乗っていない軍用列車に三日閥乗せられた。何度も乗り換えたが、安東と北京を通ったこと、到着したところが、「北支」「カッカ県」「鉄壁鎭」であるとしかわからなかった。「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。 着いたところは満州のどこかの駅でした。サーベルを下げた日本人将校二人と三人の部下が待っていて、やがて将校と養父との間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです」 新義州から汽車で安東橋を渡り中国アントンに入り日本兵に捕まり釈放された後北京へ
北京へ行った理由 「北京に行けば良い商売になると言って、養父は私たちを連れて北京まで行きました。」 _ _ _ _ _ - 誰かに北京へ連れていかれた _
北京での父親 「北京に到着してある食堂で昼食をとり出てくる時、日本の軍人が養父を呼び止めました。……階級章に星一つをつけた将校が、養父に「お前たちは朝鮮人じゃないのか」と聞きます……「スパイじゃないのか?こっちへ来い」と言って養父を連れて行きました。」 _ _ 養女を利用し、日本軍を相手に「営業」をしようとしていた養父は日本軍に銃剣でお金一銭受けられず、これらを日本軍に引き渡さ与え、金おばあさんなどは袋した慰安所に強制的に収容された。「양녀들을 이용해 일본군을 상대로 '영업'을 하려 했던 양아버지는 일본군에 총칼에 돈 한 푼 받지 못하고 이들을 일본군에게 넘겨주었고, 김할머니 등은 부대 한 위안소에 강제로 수용되었다.」 _ 「I learned from Yun Chō ng-ok, the founding corepresentative of the Korean Council, that Kim’s original unpublished story given to Yun......her foster father apparently worked as the manager of the comfort station until he disappeared one day」彼女の養父はある日姿を消すまで慰安所のマネージャーとして働いていたようです - - 「お前たち朝鮮人か」「この朝鮮人はスパイではないのか」食堂で長い刀を背中にしょっていた将校が刀を抜いて養父を膝まずかせた
北京での本人 「姉さんと私は別の軍人たちに連行されました……それには軍人たちが四十人から五十人ぐらい乗っていました……両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました。少したって養父を連れて行った将校が戻って来た後、トラックはすぐ出発しました。」 北京を経て、小さな集落に連れて行かれました _ _ _ _ 安東と北京を通ったこと 北京へ連れて行かれ、そこからは軍用トラックで 「将校は若い軍人二人に私たちを連れていけと命令するのがわかりました。そして私たちが抵抗すると、「ついて来ないなら殺す」と脅しました」
監禁場所 「午後に捕まってトラックに乗せられてから一晩が過ぎました……翌日、まっ暗な中、トラックに乗っていた人たちが全員降ろされました。何人かの軍人がある家に私たちを連れて入りました。後でわかったことですが、中国人たちが逃げて空き家になっていたようです。」「テッペキチン霊壁鎮?)」「私たちがいた所は中国人の村でしたが、日本軍の存在のせいか中国人は一人も見かけませんでした。」「私たちのところに来る軍人たちは部隊から許可を受けて来ているようでした。初めは軍人たちが金を出しているのかどうなのかまったくわからなかったのですが、しばらくしてシズエから、兵士たちは一円五十銭、将校たちが泊まりの時は八円を出さねばならないのだという話を聞いたことがありました。軍人たちは誰に払っているのかと聞いたら、私たちがその金を受け取れるはずだと言いました。けれど私は慰安婦生活の間中、軍人たちから金を受け取ったことがありません」 「平壌駅から軍人たちと一緒の列車に乗せられ、3日間。北京を経て、小さな集落に連れて行かれました。怖かったけれど、我慢しました。真っ暗い夜でした。私と、友人は将校のような人に、中国人が使っていた空き家の暗い部屋に閉じ込められたのです。……『北支(中国北部)カッカ県テッペキチン』……この慰安所は赤い塀の家でした」 「200-300人の部隊がいる中国南部の慰安所に連れて行かれた。慰安所は民家を使っていた。」 _ _ _ 「「鉄壁鎭」へは夜着いた。小さな部落だった。養父とはそこで別れた。金学順らは中国人の家に将校に案内され、部屋に入れられ鍵を掛けられた。そのとき初めて「しまった」と思った。……、まわりは軍人で一杯のようだつた……この鉄壁鎭にいた日本軍部隊は約三〇〇人位の中隊規模で、「北支」を転戦していた」 北京へ連れて行かれ、そこからは軍用トラックで、着いたところが「北支のカッカ県テッペキチン」(鉄壁鎮)だったと記憶しています。中国人の赤煉瓦の家を改造した家です。1940年春ごろでした。日本軍が占領したその集落には三百人ほどの日本兵が駐屯していました。トラックで夜着いた私たちは、将校に案内され、真っ暗な部屋に入れられ、外から鍵をかけられ閉じ込められたのです」 軍用トラックでつれていかれ夜に降ろされ、中国人の空き家へ入れられた(鉄壁鎭)
暴行 「昼に養父を引っぱっていった将校が部屋に入って来て……抵抗しましたが、服はみな引き裂かれてしまい」 _ _ _ _ _ 「ある日、兵隊が二人の中国入を連れてきて、みんなの前で目隠しをして後手に縛り、日本刀で首を切り落とすところを見せた。密偵だと言っていたが、おまえたちも言うことをきかないとこうなるとの見せしめだった。 」 _ 将校に暴行された
移動 「ある日……部隊の軍人が私たちのところに来て、とにかく早く荷物をまとめろと言いました……トラック二台にはすでに軍人たちが全員乗っています。将校は長い刀を下げて馬に乗っていました。私たちは日が暮れる前に新しい所に着きました……今度の慰安所は前のところよりも小さく、各部屋は布仕切りではなく壁で分けられていました」 _ _ _ _ _ 「何度か移動した。金学順ら女性たちも一緒に移動させられた。行く先々の中国人の村には、中国人が一人もいなかった。いつも空屋となった中国人の家を慰安所と定められた。」 私達は部隊が移動するたびについてまわりました。二、三回移動した記憶があります。 鉄壁鎭から最前線
脱出 「朝鮮人男性が私の部屋に入って来ました。もともと軍人以外は入って来ることはできなかったのですが、その人はここに朝鮮人の女たちがいるという噂を聞いて、部隊の軍人たちが全部討伐に出かけてしまった隙に乗じ、歩哨の目をくぐり抜けて入って来たと言うのです。その人は朝鮮から来た銀銭商人だと言いました……その人と慰安所を抜け出したのは、明け方の二時か三時頃だったと思います……北京から連行されて四カ月ぶりにそこを脱走してきたのです。もう夏が過ぎて季節は秋に入っていました」 _ _ _ _ _ 「ある夜、兵隊が戦争に行って少ないとき、一人の朝鮮人男性が部屋に忍び込んできて、自分も朝鮮人だというので、逃がしてほしいと頼み、夜中にそうっと脱出することができた。その朝鮮人男性は趙元讃と言い、銀銭の売買を仕事としていた」 「銀銭売買をしていた同胞男性が部隊に立ち寄りました。……彼の名は趙元瓚?(チョウオンチャン)」 「私の部屋に朝鮮人男性が突然入ってきました……その日の夜明け前p26」
語学 「私は中国語もできないし、」 _ _ _ _ _ 「中国での地理もわからず、もちろん言葉も出来ないため、」 _ 私は中国語もよくできるしp24」