2時半まで仕事をしていてあまりに眠たくならないため、久々のブログ更新をする。

 

 

外来という10分程度の会話の中で、患者の状態をスピーディーに理解できそうなものならなんでも使いたくなるのが忙しい精神科医の宿命である。

 

歩き方、声をかけた反応、潜時、目線、なんてものは確かによく使うが、「今日は2週前より潜時が長い」「なんか声のトーンが低い感じがする」というのは、ちゃんと録音して音声的解析をしないと難しい。精神科医の「感覚」になってしまうところが多い。

 

スピーディーに回さないと採算が取れないのも確かである。ある精神科の先生は腱反射を使っていると聞く。腱反射が亢進しているから、この人は今日は緊張している、調子が悪い、とかなんとか。その先生が、てんかん専門の神経内科医に講演会で質問していたが、「腱反射では精神症状は測れないと思います」と一刀両断されていたのも記憶に新しい。

 

なかなかそんな都合のいいものはないんだなぁ、って外来をしながら感じるわけであるけれど、これは、と思うものが最近ある。マスクだ。

 

昔は、マスクといえば布が何枚もかぶった四角い使い回すマスクが主流だった。小さい頃、母に「寝るときにつけときなさい」と言われても、分厚さが鼻にまとわりついて息がしづらく、苦手だった。

 

今でも、口と鼻をかろうじて塞ぐマスクはお爺様世代がつけているのをたまに見るが、ほとんどは使い捨てのマスクである。トンビのくちばしのような(僕としてはパタリロのタマネギ部隊のような、と形容したいが)鼻まですっぽり覆うマスク、あるいは四角くても鼻の部分を折り込める大きめのマスクが、衛生的に安価に手に入るようになって、かなり多くの患者がつけてきている。

 

申し訳ないことなのかもしれないが、僕は診察のときにマスクをするのが嫌いだ。飲み会やニンニクの次の日で匂いが隠せないかもと心配になるとき以外はつけないことが多い。

本当は衛生面ではマスクをするべきなのだろうが。


なぜなのだろう、と思うと、やはり笑うにしても不思議がるにしても、目だけでは感情を伝えにくく、表情を見せにくいのだ。あなたに共感していますよ、というアピールがかけにくい。

 

 

対して患者は、いろいろな理由で、マスクをしている。

 

一番典型的には醜形恐怖の患者だ。自分の口が気に食わない、鼻がブサイクだから見られたくない、口臭が人をイヤがらせるのでは、などといった「他者の評価」を気にするがために素顔を出せない人がいる。

 

マスクはそうした自身の引け目を隠す役割があり、自分の自身のなさや、恐怖感不安感を覆い隠すのに役立っているように見える。

 

事実、日本の文化では(海外にも場合によってはあるようだが)笑うときに口を隠す、といった女性の礼儀がある。口を見せる、口の中を見せるということは日本人女性にとって少し憚られることであり、まして自尊心の低い心を病んだ状態では余計イヤなことなのかもしれない。

 

診療をしているときにマスクをして入ってくる人は、基本的に一年中マスクをしている。夏場だから暑くて今日はしてこなかった、ということは少ない。涙やはなみずで汚れて外すことはあっても、めったなことでは外さない。

 

しかし、診療をしていると、そうやってマスクを毎回つけていた患者が、ふとマスクを剥がすことがある。いつもマスクをつけて入ってきているのに、今日はマスクをしていないから一瞬誰かわからなかった、というのは時としてある。

 

具体例を挙げると、一人は、双極性障害の患者だ。鬱エピソード時は、必ずマスクをつけてくる。しんどいです、どうしようもないんです、と言いながら、決してマスクを外さない。しかし、ある日、マスクを外して診察室に入ってくる。あぁ、この人はこんな顔をしてるんだ、なんて思いながら診察していると、めちゃくちゃしゃべる。いつもと違う。あぁ、これは彼女は躁転したな、と気づくのである。その後の様子を見ていても、彼女はうつ病期にはマスクをし、躁状態の時には外している。rapid cyclerの彼女を一目で理解するのに、非常に役立つツールとなっている。

 

もう一人は不安障害、ACの傾向とも言えるような低い自尊心で苦しんでいる患者だ。彼女は、4月からずっと通して僕の診察にマスクをしてきていた。でもある日、マスクを外して入ってくる。僕は反応が一瞬遅れる。マスクをしていないと相貌失認が起こるのかもしれない。

そして、「今日はマスクをしていないんですね。何か心境の変化があるのでしょうか」と聞く。すると、「私ブサイクだから、顔見せるとみんなをイヤがらせるかなっておもってて、決してマスク外さないんです。でも今日は確かにマスク買い足してこなくて。先生ならブサイクなんて言わないだろうからってことですかね」と言った。その後「いや、先生、でも、先生はそういう悪いこと言わないのわかりますけど、すっごい緊張しますね。目を見れないや」と、強い対人恐怖感を感じていたようだった。彼女には醜形恐怖があり、ずっと隠してきているものを、僕には見せてくれようとしてくれたのだ、と理解した。

 

 マスクは、バリア、いや、もっと厳密にいえば、ATフィールドなのだろう。弱い、自身のない自分を他社から遠ざけるため、個性を没するためのバリアなのだ。そのバリアを破いて、患者の素顔に迫れる時、いや患者がそのバリアを取り去る時、医師と患者の間には何か超えられた関係性が出来上がった時なのかもしれない。

 

 

 ところで、今は忘年会シーズンだ。

 この記事の最後に、過日の忘年会で披露した もしかしてだけど 病棟バージョンの一節を紹介しようと思う。

 

 お気に入りの看護師さんは 他の時は素顔なのに

 僕の前では マスクを外さない

 もしかしてだけど もしかしてだけど

 ひっぺがされて 無理やり唇 奪われたいんじゃないの

 

 もちろんそんなことは毛頭思っていない。

 少し暗めのダウンライトに照らされて、丸いテーブルが、小ぶりな椅子に取り囲まれている。人はその上で、本を読んだり、携帯を必死に叩いたり、コーヒーを飲んだり、必要以上に近づいてくる男の顔を避けるようにのけぞってみたりしている。

 

 僕は、iPhoneの修理を待っている。その一環として、周りと同化して、スターバックスで初めてラップサンドを楽しんでみたり、いつもは読まない小説を買ってみたりしながら、ぼんやりと、かつては様々な思いが駆け巡っていたのに今日は二日酔いで何も浮かんでこない頭の、アルデヒドに蝕まれている感覚を楽しんでいる。

 

 人は本屋に何を求めるのだろう。

 

 なんて、生きていくのに別に必要のないことを考える時間を持つことが、休日のあるべき姿なのだろう。久々の、何にも縛られない、身勝手な休日。

動機付け面接とは、元々アルコール依存症患者との面接技法の中で生まれた技術で、患者が「変わりたい」という思いを表出するチェンジトークと、「変わりたくない」という気持ちの表れである維持トークに着目しながら、OARSと言われる技法を用いて前者を増やしていくことで、本人のself-orientation能力を上げていく面接スタイルである。

 

大学ではこういった勉強会が開かれていたが、赴任してからご無沙汰になってしまい、精神療法に目を向ける暇が少なかったのだが、久々にアルコール依存講習のなかで聞き、元々の精神療法への興味が再燃した。

 

(もともと精神療法がお好きだったんですね)

 

精神療法を元々好きだったのは、若い頃の精神科医のイメージによるだろう。言葉による意思へのアプローチという妙技を体得したかったのだ。それに、部活で行動変容、意思決定といったディベートやスピーチの技能を磨いていたことも関連している。

 

(行動変容に興味があるんですね。その中でも一番の理由ってなんでしょうか)

 

一番の理由は、自身の行動変容を促したい、これに尽きるかもしれない。自身の行動への自信のなさ、求められたままに動くこと、それで過ごしてきた20余年を塗り替えたいのかもしれない。

 

(どういったことに自信がありませんか?)

 

まず、人生の決断。勤務先を選ぶ、科を選ぶと言った時に大きな決断はできず、周りにとってどう動くと良いか、なんてことを常におどおどと察しながら動く。自分が率先して動き始め、人を引っ張るってのが最近はあまりできない。

 

(人を引っ張って仕事をすることに憧れがある、と)

 

人を引っ張るのと同時に、やはり自分自身を引っ張っていってる感覚が欲しい。川の流れにゆらゆらと揺らめき、最終的には海にザブンと流れ着いてしまうようなそんな人生が嫌なんだ

 

(自分自身をコントロールしている感覚が欲しいんですね)

 

そう、自分自身をコントロールしたい。誰の意図でもなく、自分の意図で活動をしたい。

 

(そうだ、自分自身で自分の人生を進むんだ!)

 

うおー!やるぞ!

(やるぞ!)

 

 

 

(内なる声で動機付けしてみようと思ったけど飽きた。)