**とつながらないあなたへ
ふと目覚めたらつめたい朝だった。
僕の身長をうわまわる窓は、寒そうにガタガタ震わせながら風を受け止めている。
大きいガタイなのに情けないなと思いつつ様子をみるためにカーテンをあける。
そうしたらまぶしいお天道様に思わず目が眩む。
そうしてる間にも僕を布団の外へ出そうとせっせと温度を与えてきて、
油断も隙も与えないやり口に、いままで居心地のよかった場所が急に暑苦しくなる。
思わず布団から出て冷蔵庫へつめたい床を踏みながら向かう。
ガサツに冷蔵庫を開けて、
水道水を溜めたペットボトルをへこませながらぐびぐび飲み、
また相変わらずの日常を思い出してしまって、軽く一つため息をもらす。
昨日の夜は楽しかったな、なんて余韻は、
石が、水に落ちて水面に波紋を残して消えていくように、なりを潜める。
その痕跡を確かめに、どこか遠くへ行ってみようかなと画策する。
特別とはなんだろう?そんな当たり前で知らない事を確かめに。
紀元前400年前ほどの哲学者ソクラテスは言った。「哲学とは知を愛すること」
愛するというのは言葉にすると不確かであいまいな言葉。
でも普遍的でモンブランにのっかる栗のように、
でも栗とは違って、生きていると必ず避けては通れない言葉。
ひとそれぞれに価値観や正義感があり、
それを主張したりひけらかしたりする人が往々にいるように、
愛という言葉にもそれぞれの考え方がある。
エーリッヒ•フロムは言う「愛は技術である」
本能的な情動は可愛いワンちゃんのように、理性というものを必要としない。
だけどその愛くるしさで無条件の好意という名の愛を受け取れる。
そして赤ちゃんがハイハイして好奇心の向くままに動き、
モノを手に取り口にくわえて確かめる行為が、
可愛く思えるのはその行為が無垢であるからで、
理性が備わってくると幼稚に成り代わる。
ルソーは「人は2回生まれる。1回目は存在するため、2回目は生きるため」
と著書エミールでこんな感じのことを言う。
愛というものは人間の成長過程、境遇、生活環境に大きく左右されるものだと思う。
なぜならアダムとイブが楽園から追放されて、人間の社会に生まれ落ちたように。
母から生まれた赤ちゃんから、理性や倫理観を持った青年になるように。
生きていくからには理性を持った大人として、
他者との関係性を考えていかなければならなくなる。
他者との共同生活それは社会という枠組み、
つまりホッブズでいう、
リヴァイアサンという神話の絶対的な象徴の生き物の一部として、
生きることを自覚する事で、
ようやく社会と結びついて、秩序を手に入れ、平和を享受できる。
社会には法があり、日本の憲法には
「健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」という一文がある。
だけども現代資本主義は肥大化して経済的な格差が大きくなり、
古いガラケーが時代にそぐわなくなるように、
スマホの容量が追いつかなくなるように、
先進的な貪欲さは余剰を食い潰していく。
その皺寄せはヒエラルキーの下側のどこかの誰かへ向かっていく。
そんな中でも不確かな愛、不偏的な愛の物語は、
常に変わらず夏の台風のように傷跡を残しつつ巡ってくる。
たとえば恋に落ちるなんて甘いストーリーは、
理性という冷静に判断する思考をアルコールで酔わせたようにすること。
そんな酔った状態での物語は、
どこか幻想的で、
創作としてはロマンチックで面白いかもしれないけど、
目を覚ましても理想の王子様はいない。
だけど、そんな存在を夢見る。
夢というものはある種、希望的で甘美。
いろんな夢をみる。
千疋屋のフルーツ、シャトレーゼのホールケーキ、神戸牛のステーキ。
クリスマスのプレゼント、お正月のお年玉、テレビで見た場所への旅行。
念願のマイホーム、好きな人との結婚式、家族団欒の生活。
思い描くのはとてもいい。
とくににこれから社会に向かう人たちは、
理想を掲げて目標を立てそこにむかって邁進する。
そして気づくことがある。
単純に見える景色は、立ち入ってみると複雑だということに。
追い求めるものが明確なほど、合理的で論理的な秩序にとっては、
そういった感性や感受性というものが無駄に思えるということに。
思考するのもはばかるほどに、現実は甘美ではなくなる。
そしていつしかパッケージ化された愛を提供されて、
それを愛やら幸せとして受け止めるようになる。
愛というものはこういうことと自己啓発本にはテンプレ化され、
商業的バレンタインやハロウィンに幸せと浮かれはしゃぎ、
流行りものを宣伝され購買欲を掻き立てられ常に消費する。
新しいブランド、新しい食べ物、新しい娯楽で、
夢や幸せを常に買い漁って胃袋に詰め、
お腹が減ったらまた食べ漁る。
人の欲に付け入って、
取り込まれ、
不確かな愛は、不偏的な愛は、答えやら正解を与えられる。
でもいつしか気づくはず、そこには満たされないものがある。
人に決められたもので納得できない、しこりのようなものがあることに。
いつしか知を愛さず、放棄して委ねることで、
愛を知った気になっていることに。
振り返ると、きっといろんな経験をしたはず。
与えられる必要はないほどに、心は貧しくないはず。
言葉を喋れるようになり、文字をかけるようになり、歌を歌えるようになり、
おんなじ制服をきて集団登校し、友達をつくったり、部活や習い事をしたり、
テストをして、運動会をして、文化祭をして、入試や入社面談をして、
卒業して入社して、お給料をもらって、一人暮らしをして、
行きたいところへ行き、食べたいものをたべ、好きなものを買ったり。
文字にするととても簡潔だけれど、
きっと生きている人
1人、1人が
それぞれのところから出発し
いろんな体験、出会いをし
交差して、それぞれのところへ向かって行き、
それぞれに抱え、思い、考え、悩み、求め、望み、願い
その方向が一緒だったら、また交差してまた出会う。
愛というものは、人が孤独だからこそ、
存在している。
そして、孤独を紛らすのではなく、
知ろうとすることで、
能動的に手を伸ばす事によって、
その感触に触れられる。
そしてその動きが
暗闇で瞬く恒星の光のように、
深海で発光して生き物たちのように、
絶え間なく存在を知らせ、胎動する。
そう思うと、
なんだか特別な星が見えてくる気がする。
繋がろうと命というエネルギーを燃やし
光って伝える
虚空だから、生はひかれるんだと。
ふと目覚めたら静まり返るような夜だった。
夜は特別だ。
みんなが寝静まり、静寂な空気がしんと張り詰めて、
まるで僕だけがそこに存在しているみたいだ。
それは非日常。
他者性をなくし、自分を自分として認識できる空間、
ただ一人きり
思いっきり肺いっぱいに空気を吸うと鼻がむず痒くてすこし笑ってしまう。
公園で一人でブランコにのっても、全力で鉄棒で逆上がりをしても恥ずかしくない。
子供っぽくはしゃぐのはやっぱり面白い。
くだらない体裁や世間体みたいなデブリは持って帰って分別しよう。
ある映画で「本当に遠くまで行くと、元いた場所に帰るものなのよ。」
とペンギンのお姉さんは言ってた。
そう、自分は遠くに向かっているつもりで実は帰ってきていたのだ。
こんどは、どこへいこうか。