Bedroom Touristのお料理教室にはいかないなんていわないよ。

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2015年はびっくりです!!2016年は!!!うひょー

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家である。

家ってなんだろうか。家が成立するには何の条件が必要なのか考えてみれば、家というのは遺伝子そのものの「意識の拡張」だ。かつての「道具」は意識の拡張により、意識が身体からはみ出た(Extpanted)だけだと考えると、家も道具であるし、感情そのものだ。家が感情そのもの?絵画のようなものなのか?絵画や芸術は、感情をある閉じた一項により完全性を保持する数式だとすれば、感情をコンクリートのようにカッチカチに固めてしまうことにより、未来永劫、存在確率が上がる。ゆわゆる普遍的な芸術は、いかに遺伝子レベルでの本能に基づいた恐怖そのものであるかというのが指針。しかしいくらその時が完全だと思っていても、老朽化なり、何か外部の要因、外部の要因とはなんだ?外部とは空間と時間だ。人間に外部も内部もあるのか?この世界はない!!!!!!!!!!ぜんぶ嘘だ全て夢だ!!!

と、まあここまで読んで意味がわからないとは思われる。のでここからは簡単に説明しよう。家はどこまで家なのか?だ。例えば、最低限の家だと考えられるものは、屋根と壁だ。それで君はこれを家だぜ?と言い張れる。家だぜこれ家ははははは。どうだ?過ごしやすいだろ?、しかし君、ここに住みたいと思うか?、これじゃ洞窟と同じだ、石器時代のほうがまだましだろうな。石器時代の人々にあったことがある現在人がいるわけがないから、すべて想像するしかないだろうが、石器時代の洞窟には最低限の他の機能はあっただろう。洞窟なら沢山あっただろうし。それを家だとしたら、地球上至る場所に家だらけになってしまう。最高だと思わないか?地球上すべてが家だらけだ。最高だ。最高に気が狂いそうだ。家なんか無いのと同じなんだ。じゃあ、私達が家だと思うものは、家ではないということだ。屋根と壁だけが家ではないのだ。つまり家は、家機能という沢山のものが全てそろって家に近づくのだ。

想像でしかないが、言葉、言語もそうであるように、生得的な本能だとすれば、家にも生得的な本能が埋もれている。意味だ。例えば、台所だけに意味は見つけられるだろう。台所。この言葉だけで、何をする場所なのか誰でもわかる。火星人にもわかる(火星人が水を使う文明だとすればの話だ(あと火星人なんか何百通りいる(だいいち、火星人と私達人類の共通する言語などほとんど無い)それはいいとして、台所kichinというのは、肉を焼いたり、調理をする場所だ。調理?なぜ私たちは調理をするのか。それは後でいい。

風呂。風呂は誰でもわかる。汗などの汚れを掃除するための道具だ。便所。これも同じだ。これだけで、家といえるか?家なんて言葉を使うのはやめよう。感情の振幅にしよう。感情の振幅に耐えられる、耐久材として、現在では紙幣などを使って、商品として購入せざる負えない状況に落ちいいっている。搾取そのものだ。監獄そのものだと思わないか?生きるということが。

生きることは監獄だ。


話はExpantedしてしまったが、つまり、いろんな感情に耐えられるものが家だ。そうでなければ、洞窟と変わらない、いや地球、地表、いやいつライオンや野生動物に夜中捕食され食い殺されるかわからないようなアフリカのサバンナにいるような原始時代と同じ状況だ。紙幣なんてなければ、本能的に、其の場合、周りの、木や、土、などを駆使して、なんとかして家機能を自らの手で使ってつくり上げるだろう。生きたいからだ。食い殺されるなんて嫌だろう?はははははは。紙幣ごときで、死ぬのか?なんて無様な進化なんだ。全部嘘だこの世界なんか無いんだ!!全部夢(

ということだ。

結果として、家機能が低下した場合、やばいということだ。

コミュタリアン VS リベラリズム 論争でも久しいといってもそんなによくは知らない(サンデル読んでいない(知っているのはトロッコ問題くらい)ではあるが、この目に見えない社会をシステム系としてロジックにした学が社会システム論であり、古くはカール・マルクスから始まったような、近代から始まった自然科学の一端であもある。

その社会システム論では、子供から大人へ成長し労働力として十分な機能をもつまで2つの条件が必要という。「安定したパーソナリティーの成熟」と「もういっこは忘れた」忘れちゃった(^^)(参考文献、ほとんど宮台真司BLOG)

ということで、この感情面で成熟するということは近代社会において、嘘なのであるが、これを社会化と呼ぼう。社会化することで社会契約だ。しかしながらこの安定したパーソナリティーの成熟には、安堵できる家族機能というものが必須となってくる。著書「最貧困女子」などでも話題になっているような

と話はぶっ飛ぶのであるが・・・・申し訳ないが

この家族機能は果たして血縁のファミリーだけしか保持できないのだろうか?

答えはワタシは違うと思うのである。何故なら、コミュタリアン的な感情は、その地域共同体によるものだとされる(参考文献なし)地域共同体の空洞化は文明の衝突によって引き起こされたことは久しい。米ロックスター、マリリン・マンソンには母親からハエ男のように、TVによって会話できなくなる親子関係を歌う歌がある。

しかしながら所有とはどういうことであろうか?個人とはなんであろうか。

個人が完全にこの地球上で独立した生態系を持つようなものであれば別であるが、個人もまた哺乳類という生態系の中の人間であり、生まれ育った地域共同体がなければ個人も個人のパーソナリティーも成り立たない。地域共同体をひとつの「意識」とすれば、フランス革命で確立したような「自由と個人」のような幻想は焚書してしまい、家族機能そのものを社会的分業できるものが望ましいのではないか。というても、保育所なり、学校なり、チャイムが鳴り、みたいな機能は、労働力の再生産の訓練でしかなく、感情の成熟につながるとは言い難い。近代以降、家族機能には不可侵性が存在し、法律により暗黙の内同意されている。

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構造機能主義というのはなにか、なんでもいい。2003年9月に死の先に見つけたものがなんだったのかをこの何千年もかけて考えてきたわけで、それがこの前まではポスト実存主義という便宜上の名前でした。これには間違いなく英国のバンドRadioheadのベースのコリンの発言が帰依しています。「僕たちはもっと実存をなんたらかんたら」と廃刊した雑誌SNOOZERで語っていたのです。ただそれだけのことです。そこからヒントを得てポスト実存主義にしたわけですが。まあそもそも哲学なにそれ?おしいしいの?みたいなクソ野郎だった僕ですけど、この2000年くらいかけてお勉強を致しました。

ということで今日からパーソンズ含む構造機能主義というところに着額を置く諸科学ということになりますよろしくね!><

簡単に説明するよ。例えば、みんなは社会で生きる上で関数でしかないので、誰でもいいわけです。其のために契約なんか必要ないと思うんですよ。演劇の舞台で役者が居なかったらその演劇がストップしてしまうでしょ?だったらその役を、俺やるよ!っていきなり飛び入りでやってもいいんじゃないかと思うんです。例えば、コンビニで何故かさっきまで行列がなかったのに、長蛇の列がでてきて、うわあ俺フォーク並びとかやだよー、なんか他の店員棚だしとか必死だし、なんか社会人として振る舞わないといけないパターンの小規模なやつきためんどくせえみたいな。ソン時に、その自分が、2番めのレジの役やったら早くないっすか?え?おまえ店員なの?みたいな。いやそもそもコンビニの店員なんて、この地球上いや宇宙探しても存在しねえし、そんなの役(関数)でしかないわけでさ。契約による。

そんな感じっす。

一刻も早くしないといけない。

もはや時すでにお寿司。いや遅しまで来てしまったのです。


3年ほど前から一刻も早くしないととんでもない大変なことになると吹聴してきましたが、さて現在、大変なことになっていますよね。

第3次世界大変がフェード3までに行くまで、手違い一つで突入してしまうことになります。でも戦争が起きる理由のひとつには経済があるわけです。

経済がおかしくなってしまうと、みんな頭がパッパラパーになってしまいます。世界戦争になるかもしれなとなると、逆に経済とかどうでもいい!死ぬか生きるしかねえ!!みたいに逆に頭がパッパラパーになるでしょう。

だからこそ、今世界の中で最初の大戦Great Warで一番活躍した日本という大国の経済がしっかりしていないといけなかったわけですが・・・・。

残念ながら2015年のGDPは予想よりもマイナス成長でした(何故か1月から3月まではプラス)これも昨年の低所得者層対策などへの緊縮財政の影響があると考えられます。それよりも、消費税なんか上げなかったらよかったのではないか。つうか、はやく消費税の影響で今景気が足踏みしているということを認めて減税もしくは消費税を一瞬無くすとか、そんなことをできない空気に縛られているだけ。そのせいで、露土戦争からバルカン半島まで波及、その間に連合国とチャイナアフリカ、中央アジア、新疆ウィグルまで含めたとんでもない世界規模の、目に見えない、人が死んでもよくわからない戦争がまだまだ続いてしまうことになってしまうわけです。

なんだか中世の魔女狩り異端審問の時代にように、いつこのワタシが死を迎える順番がやってくるのか真夜中に戦々恐々と身体を震わせて200年間生きるような時代のように。

この戦争の特徴としては、実際の戦闘までのフェーズまで長い潜伏期間があります。20年とか30年とかです。まずは経済的なスパイが大量に送り込まれています。何かがおかしいとおもったとき、それはベターコールソウルです。

そうなのだ!まだまだ続いているのがポスト大阪都構想であり、今回の不思議会選挙で維新が圧勝

したことで余計続くことが決定してしまった大阪都構想であるのだ。なんだかすんごくややこしい選挙なのではないでしょうか。では、まとめてみると、春の住民投票によるものは、「大阪都構想」の住民投票ではありませんでした。「特別区設置に関する議定書」の住民投票でした。特別区設置して大阪市を実質解体する、これが大きな大阪都構想の一端であったのです。では維新の言う、大阪都構想って一体なんですのん?二重行政解消くらいしかないですし、けっこうぼんやりしてませんか。


大阪都、というのは便宜上の暫定的な言い訳とするのはいいでしょう。しかし大阪都構想は東京都一円のような経済圏をもった関西経済圏を構築するまでを目論んだものでしょうか!?その最中で、大阪府の真ん中にある大阪市の権限が邪魔、もしくは大阪市が大阪府よりも独立した何か小さな村のような存在で排他的な雰囲気を醸し出していたのかもしれません。


まあそれはともかく、東京都のようなパリやロサンゼルス風の円形の都市では大阪はありませんし、どちらかと言えば、碁盤の目をした縦系のニューヨークのような街じゃないですかね。大阪市自体が。

宇多田ヒカルも大阪はニューヨークのダウンタウンに似ていると言っていることだし~・・・・。

正直、大阪都構想、無いんではないですか。


・・・・・・。


それよりもJリートである。

問題だ。

日本という国では、不動産の権利、所有する権限が強いとゆわれ、不動産資本主義とまで言われます。そんな中、絶賛チャイニーズマネーの外資が日本の土地を買い占めている最中、最近ではとうとう真打ち登場までしました。これまではジャブでしたが、これからは更にブランド買い占めが本格的になるかもしれません。上海の投資会社フォースン・グループによる北海道のリゾート会社星野リゾートトマムを買収というニュースがありました。

怖いですね~。





人が生活する為の道具。人類史において最初の「道具」となったのは石で作られたものだったらしーが何故それが必要になったのかは、意識が拡張したからだと考えてみよう。

まずそれまでは狩りなどは熊がシャケをパシャッとやるように素手でやっていたとしよう。しかしこれではうまく狩りができないので、餓死するものが続出している状況は変わらなかった。なんとかしてこの状況を変えたいと思った人間は、その感情により意識を拡大し、経験から認識を拡大し、身体から意識を拡張した。それが自然界から抽出した石器という「道具」だ。

それから2万年後の現在に至るまで、人々の感情は身体から突出し、様々な道具を生み出した。長期間、食物を保存する冷蔵庫、火を使わずとも太陽が落ちた夜でも明かりを使うことができる照明器具、いつでも川で身体を洗ったりすることができる、風呂や洗面台など・・・・。すべての道具は人間の感情的な意識からはみ出した結果でしかない。人間以外がそれを道具として使えば?意味は無くなる。犬からすれば。

くまでもいい。猫でもいいのさ。


同じように、道具を介して、人間の感情の共感は可能だ。何故なら、「道具は意識」だからだ。道具は量子レベルでなんとかフォボビッチ数列的に個体として成り立っているだけであり、実際にはこの世界に無い。奇跡的に今個体として成り立っているだけであり、コンクリートのマンションですらそうだ。

例えば、ミレニアム以降の都市計画に、やたらイルミネーション開発が行われたが、あれも意識ではないだろうか。

2015年現在でも、各場所でいたるところで年中クリスマスツリーのような電飾が飾られている。何故?

何か宇宙人との交流を図ろうとする意図がそこにあるとでも思う?

確かにミレニアムという坩堝に居た場合、あのイルミネーションは文明の最高峰としての意識を代弁するであろう。我々人類の文明は栄え、絶頂を迎えている。祝祭するには沢山の言語が必要だ。だからイルミネーションにしよう。未来が不安にならないように明かりを常に照らしておけば、不安も夕方に魔王がやってきても大丈夫だぜ。


という意識だ。その道具と共感できる。

そしてパソコンやスマホの1990年台からの圧倒的な発展は何故だろう。意識が拡張したのか!?

かつてアメリカで.comバブルゆわゆるITバブルが80年代終わりに勃興し始めた。バブル景気は、他の経済より、よりインフレーションをおこし泡のように高騰したものだ。

できそうだ。というドーパミンが出る状態は、機能的にコミットメント行為的自由で継続可能だ一時的にも。社会化も可能であるし
そもそも娯楽ってなんだ!?というメタ的なところまで掘り下げないといけないことになってばや4年。娯楽ってなんだって考えることは、テーブルってなんだ?って考えているような感じで、当たり前のことを掘り下げていくのは気が狂うマック狂う。

娯楽ってなんだ?という疑問の問に、ちょっとした答えがでてきたのが
ローマ帝国時代のパンとサーカスで、パフォーマンスなどで観衆を魅了させる、という概念。ってことは、娯楽は支配者や国王にとって使用されるツールな側面もあり
一概に、娯楽=楽しい!!!とはいえない。

ということを踏まえると、現在は地方の娯楽、いや日本という国の大衆的な娯楽、代表的な、テレビ、地方での映画館の減少、ホール文化のさじ加減、相撲やプロレスの減少
など、かつて、日本という国にあった「お茶の間」で全員が楽しむような娯楽は無い。
これを全体機能の低下だと、考えると、日本の安全保障は娯楽からも危うくなっているのかもしれないいいいいいいいいいいいい。

なにが問題か。What's Worng?

娯楽というのを、社会システム論でいう上部構造に値するのであれば、
みんなが何を買ってイイのか、何を見たら、いいのか、見て楽しいのかさえも疑問におもわないといけないような、アノミーという状態になる。

つまり、不安の中でのパレート均衡点は、ケインズの美人投票のような、誰もが妥当だと思える娯楽が、楽しくなくても娯楽になる。ということになるるるる。

なんだか寂しい大人になっちまったもんだゲス
電気グルーヴの石野卓球は地元である静岡について「なにもユースカルチャーがないんですよね、でも何も無いのが逆にいいみたいな」みたいなことを言ってて、逆に何も無いとこから、何かある、ありそうな都会へでてきた我が身としては、今になると何もないのも逆に貴重となってきて、在る、無い、というヘーゲル的な観念論へ立ち返りそうで南無い。久しい。

しかし、やはり田舎には娯楽がない。まず娯楽ってなんだろうか。

ということでポスト大阪みやこ構想である。

今回の大阪不思議会選挙では、春の「大阪都構想に対する住民投票」の賛否もさることながら、反対派に歩み寄った形になった大阪議会も破綻し、其の中で、反対派の主張する「総合区」的なものが果たして設置されるかどうかが留意点だ。橋本氏のゆわば大阪都構想は大阪市の権限を解体する目下の目的があったであろうが、解体そこまでせなあかんほど巨大で特殊な政令市令都市であったということがあまり論点になっていないところも正直、残念である。

憲法改正についても同じく憲法9条以外に憲法は見えない?もしくは憲法はもはや9条こそが憲法なの?誰しも未来に恐怖や痛みが伴うと感情にまかせてしまい正しい判断力が落ちてしまいがちだ。

総合区設置は高橋洋一氏もまだやらないより(・∀・)イイ!!というお墨付きだ。反対派が総合区設置すらやらないのだとすればこれは問題だ。春の大阪都構想への住民投票はただの感情にまかせた決起集会のような趣に収まって終わってしまう。憲法改正も?まさか感情的になって?春の投票が、住民投票だったということは非常に日本という国家の未来を予見する。もちろん、憲法改正も住民投票だ。いまのままじゃ話にならない。殺される危険性のほうが多いので避難したいくらいだ。


そして大問題のJ-RIETである。

こっちのほうが大問題だ。

かつてサブプライムローンでは、ローン債務者に「権利」を与えた。それはそれまでは債務者には想像できなかった新しい生活だ。サブプライムローンにより、家を持つ「権利」が与えられた。

日本では2000年代前半に、ソフトバンクファイナンスがローンを証券化した金融商品「フラット35」を先駆がけて発売した。

それまで一軒家は持つことなんか「権利」もなかった、それは大分に金銭面で。それでは「金銭は権利」でもあるのか。という話は次回以降に。フラット35のような住宅ローンにより、大阪市内に家を持ち住む権利が与えられた。チャリで御堂筋を走る権利もある。なにわ筋で犬を散歩させる権利もある。何故なら?私たちは民主主義国家に住んでいる。

あなたが邪魔だと思えば戦争するしか方法はない。これまで2000年以上そうやってきた。