兄の骨髄液の生着が確認されて

私はほどなく退院となりました。

といっても

福岡の地に帰れるわけではなく

病院近くに

母がかりている部屋に二人で済みました。

1Kの小さな小さな部屋でした。

そのアパートの大家さんが

全国各地から来る難病の子ども達とその家族をサポートしたいと

通常よりも格安なお値段で

アパートを貸してくれていました。

なので、隣の部屋も

上の階も、入院中のお子さんがいるご家族か

私のように、退院しても毎日、毎週病院にいかなければいけない

家族が住んでいました。


退院した私のまず最初の練習は

『歩く』ことからでした。


走ることが大好きだった私が

自分のチカラで

10歩も歩くことができませんでした。


お風呂の椅子をもって

『1、2、3、4、5』座る。

『1、2、3、4、5』座る。

この繰り返しです。


100歩ほど先にあるコンビニにいくことでさえ
かないません。

福岡から上京してきた父が

私の姿をみて涙をしたのを覚えています。

『生きていればいい』

そう思ったけれど

『生きる』ことができたものは次に

『生き抜いていかなければいけない』のです。


高校に復帰するよりも何よりも

まず、歩けるようになること!


これが母と私の二人三脚の夢の第一歩でした。

骨髄液が生着したよ!!と言われたのは
12月27日だったんじゃないかと記憶しています。

(*生着とは、兄からもらった骨髄液(細胞)の一定量が私の骨髄で
血液をつくりはじめたことをいいます。)

準無菌室という、無菌室の時より家族が身近にいれる部屋に移り
母が小さなクリスマスツリーを持ってきてくれて
クリスマスソングを歌っているときでした。

『最大のクリスマスプレゼントだ!!』と
母と二人大喜びしました。

その時だったか、忘れましたが
母がこんな話をしてくれました。


『兄もね、東京観光したい中、元気な骨髄液を作って欲しいと
怪我でもされちゃかなわないと、家から出さないでいたんだよ。

東京滞在中は、ずっとお肉とお鍋でよい血液を作ってくれと
太らせてたんだよ。

だから、良い骨髄液が出来たのかもしれないね』と。


その後、こんな話も。


兄と私のHLAの型があったとき

『俺に、拒否権はないんだろ!!』と言ったんだよ。

お兄ちゃんにもいっぱい葛藤があったんだろうね。

でも、すぐにタバコもやめ、ヒロコのために
頑張ってくれたんだよ。


母やドクターから
兄のエピソードを聞くたびに


涙を流してしまいます。


兄弟が病気になると、親も、そのほかの兄弟も
みんな、みんな苦しいのです。

それぞれの葛藤と闘いながら
一緒に前に進むのだと思います。




ああっ!!!自分の気持ちの整理がつかないままに10回目を迎えることになりました。
グレートキッズを立ち上げるまでに至った気持ちを書こうと思っていたのに
その気持ちを書こうとすると、
どうしても自分の闘病生活なしに語れず

闘病時の気持ちに、心をもっていくと
あの時の気持ちも描きたい、
こんな事もあったと
とめどない記憶が、どワンドワンと
身体の中からうきでてきて

まだまだ福岡に車椅子で戻ってきたことも
その後、学校に戻るのに苦労したことも、なんにもかけないままで
申し訳ないです。

とりあえず、自分の気持ちに正直に
かけるだけ、ぶつけられるだけの気持ちをここに書いて
後で、落ち着いて整理できればと思います。

生きているということは
本当になんでもできちゃいますね。

生きていなければ
こうやって、ここに自分の記録を書き残すことも
人に、自分の思いを伝えることもできません。

16歳で死ぬと言われてから
もう16年分以上生きることができました。

この贅沢に感謝しながら
今日も、ありったけの気持ちをここにぶつけていきたいと思います。

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前回、幸運にも兄とHLAの型があったために
兄から『骨髄液』をもらうことになった話をききました。

当時大学生だった兄は、
ドクターが出した
「もしかしたら貴方は、全身麻酔や骨髄液を取り出す注射の事故などで
死ぬリスクもあります」と書かれた同意書にサインをしました。

その時に、ドクターにこういったそうです。
「もし、僕になにかあったとしても、妹に骨髄液を提供してください」

大きな怪我等したことのない健康体の大学生の兄。
今から、全身麻酔をしますという状況の中で
このセリフが言えたことはすごいよ

お兄さんはかっこいいね!!と

私の体調がよくなってから
毎回、診察の度にドクターがいうセリフです(笑)

でも、兄はかっこよかったです。
骨髄液を提供し、全身麻酔から目が覚めるやいなや
心配している私のところに
松葉杖をつきながら

「俺は大丈夫だから、お前も頑張れよ!!」と
声をかけに来てくれました。

高熱にうなされていて、ほとんど無菌室の記憶のない
私ですが、兄が声をかけにきてくれたことは
しっかり覚えています。


話は前後しますが、


兄が全身麻酔をする1週間前から

無菌室という
菌がほとんどいない部屋に入りました。

40度の高熱を出しながら
一人で薬をのみ
吐いたらまた飲む。

5部屋ある無菌室は
まるで動物園にいるようでした。

私たち無菌室にいる5人はお互いの顔が見れませんが
家族たちは、無菌室にいる5人が見れるよう
正面は全てガラスばりになっていました。
(うまく表現できず申し訳ありません。。)

無菌室の中にある電話で
外と会話ができ

家族と話し合うのです。

入口に一番近い私の部屋は
他の家族も皆が通る場所。

他の家族が私の姿をみて
『今日も元気そうですね』と母に言う姿が

まるで動物園にいる動物(私)をみているような感じがして
嫌で嫌で仕方ありませんでした。

でも、無菌室を出られたあとに
気付きました。

きっと、他の骨髄移植を受けている人をみて
自分の家族も大丈夫!と家族同士が
支えあっていたんだ!励まし合っていたんだ!と

後にきくことができましたが
当時、5部屋の無菌室で一緒に闘っていた5人の仲間は
私以外、みんな亡くなったと聞きました。

私たち患者も極限の状態で病気と闘っていたのです。

当時、同じ無菌室にいた40代の男性は
奥さんが毎日病室にきていました。

看護婦さんに苦しいことを伝えられず
一人で耐えて我慢していたと聞きました。

私は、
親にも看護婦さんにもドクターにも
「痛い、苦しい、嫌だ、やめて」とワガママ言いたい放題。

旦那さんがなくなったあと
奥さんが母親にポツリと
「もっと、自分の苦しい気持ちを伝えられたら違ったかしら。
旦那は一人で頑張りすぎたのかしら。。」と。


何が正解なのでしょう。
何が大切なのでしょう。

今、二度目の生を受けて、思うことが沢山あります。
私の二度目の命には沢山の人の思いがのっかっています。
闘病中、一番死に近い場所にいた私が
今、生かされている。
それにはきっと理由があるのだと思います。

生きている
その答えは未だ見つかりませんが

生きているならば
その命に感謝して
しっかり使い果たしたいと思っています。

「金生はいつもがむしゃらだね」と人から言われるのは
きっと、この気持ちからきているのだと思います。


毎回、書きたいことが多すぎて
乱文になってしまい申し訳ありません。

今日も最後までお読みいただきましてありがとうございます!