兄の骨髄液の生着が確認されて
私はほどなく退院となりました。
といっても
福岡の地に帰れるわけではなく
病院近くに
母がかりている部屋に二人で済みました。
1Kの小さな小さな部屋でした。
そのアパートの大家さんが
全国各地から来る難病の子ども達とその家族をサポートしたいと
通常よりも格安なお値段で
アパートを貸してくれていました。
なので、隣の部屋も
上の階も、入院中のお子さんがいるご家族か
私のように、退院しても毎日、毎週病院にいかなければいけない
家族が住んでいました。
退院した私のまず最初の練習は
『歩く』ことからでした。
走ることが大好きだった私が
自分のチカラで
10歩も歩くことができませんでした。
お風呂の椅子をもって
『1、2、3、4、5』座る。
『1、2、3、4、5』座る。
この繰り返しです。
100歩ほど先にあるコンビニにいくことでさえ
かないません。
福岡から上京してきた父が
私の姿をみて涙をしたのを覚えています。
『生きていればいい』
そう思ったけれど
『生きる』ことができたものは次に
『生き抜いていかなければいけない』のです。
高校に復帰するよりも何よりも
まず、歩けるようになること!
これが母と私の二人三脚の夢の第一歩でした。
私はほどなく退院となりました。
といっても
福岡の地に帰れるわけではなく
病院近くに
母がかりている部屋に二人で済みました。
1Kの小さな小さな部屋でした。
そのアパートの大家さんが
全国各地から来る難病の子ども達とその家族をサポートしたいと
通常よりも格安なお値段で
アパートを貸してくれていました。
なので、隣の部屋も
上の階も、入院中のお子さんがいるご家族か
私のように、退院しても毎日、毎週病院にいかなければいけない
家族が住んでいました。
退院した私のまず最初の練習は
『歩く』ことからでした。
走ることが大好きだった私が
自分のチカラで
10歩も歩くことができませんでした。
お風呂の椅子をもって
『1、2、3、4、5』座る。
『1、2、3、4、5』座る。
この繰り返しです。
100歩ほど先にあるコンビニにいくことでさえ
かないません。
福岡から上京してきた父が
私の姿をみて涙をしたのを覚えています。
『生きていればいい』
そう思ったけれど
『生きる』ことができたものは次に
『生き抜いていかなければいけない』のです。
高校に復帰するよりも何よりも
まず、歩けるようになること!
これが母と私の二人三脚の夢の第一歩でした。