ヒクソン・グレーシーと格闘技最強論の巻 | 白帯以前素人による「なんちゃってテコン島」

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独習しているテコンドーや子育てその他感じた事等駄弁を色々書きます。

 さてさて、イブも過ぎました。


 皆さんのところへサンタは来ましたかね?


 来たならええですがな。来年も頑張ろうという気になるし。


 あっしには来たかって?


 いや、あっしはサンタの役だから。「来た?」ではなく、


 「行ったか?」がよろしいかと。


 行きましたがな、子供の枕元へ、と、いうのは嘘で。


 それは去年まで。今年はもう、手渡しでんがな。


 サンタ・イリュージョンはもう我が家にはないんですな。


 そしてイリュージョンといえば、ヒクソン・グレーシー。


 何故、ここで唐突にヒクソンなのか、


  最近よく覗かせていただいてるブログにヒクソンの話題がありまして、

おお、そういえばヒクソン・グレーシーて元気なの、と思い出した次第。

 ヒクソン・グレーシー・・・・・・つうか、グレーシー一族というか・・・・・・。


 あっしみたいにアントニオ猪木から「闘い」を知ったものには、

そりゃもうグレーシー一族というのは、言うなれば、


 ドラマの悲しい話に涙している嫁さんに向かって、


「作り話に涙なんが流してんじゃねえ!」


と怒鳴り散らして、ちゃぶ台をひっくり返す「ドメバイ亭主」に近い存在でもあり、


 正月の親戚の集まりで、つまらなそうにしている中学生の甥っ子に気を使って、


 「おい、どうだい。おじさんがプロレスの技でも教えてやろうか、コブラツイストとか」なんて声掛けて、


 折角子供と遊べるナイスなおじさんぶりを発揮してやろうと思えば、


その甥っ子が、突然名探偵コナンばりの


くそ生意気な視線をこっちに浴びせながら、


 「いいよ。プロレスの技なんて実戦には役に立たないから。だけど、おじさんがどうしてもって言うならちょっとだけなら付き合ってもいいよ」


 なんて言われて、


 「このクソガキャ!」と思わず叫んでしまう、という存在でもあったわけだ。


  ま、そんな例えはどうでもいいとして。


 兎に角、徹頭徹尾「プロレス的格闘観」を破壊したグレーシーというのは、


私の「格闘技(やってないけどちょっとだけ好き)人生」において、


 マジに「格闘技における闘い」を考えるきっかけになった人たちなんですな。


 私だけじゃなく、そんな人も結構多いか、と。


 こんな事を外で言ったりするとね、大半の人はね、


 「グレーシーのお陰で八百長から真剣勝負に目が開いたわけね」


 なんて言うんだけど、


 それ、ちょっと違いまんがな。


 グレーシーのお陰で、「真剣勝負幻想」が崩れたわけ。


 どんな幻想(イリュージョン)が崩れたかって言うと、


 格闘技における「真剣勝負の試合」なんていうのは意味が無いという事。


 これに尽きるし、これがグレーシーから学んだ一番の大きなことだった、と。


 だってね、真剣勝負の究極はやはり命のやり取りだからね。


 命のやり取りに「素手というルール」、「リングで1対1」という「ルール」がいかに形容矛盾であるか、よく考えれば自明なんだけど、


 正直、グレーシーが「やってくるまで」、


 あっしなんかも、「一番強い格闘技は何?」 なんて議論をする、


 シットなボーイ、いやオヤジだったんよ。


 ただ、人間は唯一「思考」できる、「想像」できる、「夢」持てる動物だから、


  格闘技最強とか格闘技世界一とかのファンタジーに憧れを持つのは、


 ある意味当然であるし、普通のことではあるとは思う。


 でも、それはあくまでファンタジーの世界でのこと。


 ここの区分けをきちっとできるか、できないかで、


 例えば、仲間内なり他人同士なりでどんな格闘技談義ができるか、が決まるんじゃないかな。


 グレーシーが「バーリトゥード(=なんでもあり)」をもってして空手家を倒したからグレーシー柔術が空手より強いと考える人とは、あまり意義のある話はできないと私は思うねん。


 意義のある話とは何だろうか。


 たとえば、ネットとかで「弱い」と揶揄されているテコンドー。


 テコンドー選手が実際K1とかで負けたり、空手家に負けたりしている動画なんかを見たり、実際にテコンドーの競技ルールを見て、


 「弱い」と決め込んでいる人が多いのだろうけど、


 ルールのある格闘技の中でいくら「真剣勝負」をしたって、


 真の強弱なんて測れるわけないんだからそこはきちんと抑えておきたいな、と。


 何故なら、テコンドーも空手も柔道もグレーシーも、その他あまたの格闘技も、

 

「殺し合い=真の真剣勝負」を思想の頂点として、そこから現実の競技まで


「意識」を「下げて」、


 結局はバーチャルな勝負論(=競技)を繰り広げているに過ぎないということを知るべきなんだと思うし、


 そのバーチャルな勝負論を空虚なものにしないために、


 人間としての「美意識」をもって理論体系化したものを正に「武道」と呼ぶのではないか、とあっしは勝手に思っているんだな。


 人間の思考とは究極、「美意識」を思考、志向するものでしょ。


 だってね、「美意識を思考しない思考」は、人は「外道」と呼ぶんですよ。


 だからね、テコンドーには、テコンドーの、空手は空手の、柔道には、柔道の、美意識があるからこその、その歴史であり存在でしょうが、と。


  ところがね、「殺人」は人間の美意識にはないんだな、残念ながら。


  つまり本当の真剣勝負(殺し合い)になれば、テコンドーなり、空手なり、柔道なり、はたまたボクシングや、バーリトゥードでもいいが、


 それら各々の持つ、格闘技の「美意識」は全く役に立たない筈。


 殺人(=真剣勝負)と武道やスポーツの「美意識」は相容れないもの、という事ですねん。


 「殺人」であるなら、その人間がどんな格闘技のバックボーンを持っていようが、


 ただちに銃なり、刃物を持って相手を殺せば、真剣勝負の勝者になりえるののですよ。


 本当の「なんでもあり」ならばそういうことの筈。


 一対一とか、体重制限とか、金的なしとか、そういった「ルール」をつけた瞬間にそれは、バーリトゥードとか総合格闘技の「競技=試合」になるわけで。


 総合格闘技の競技に、テコンドーの選手がテコンドーのみの技術で、


「負ける」のは当然の話。


 テニスに試合に、バドミントンの選手がバドミントンのラケットで試合に臨み、負けたからって、「弱い」という批判を受けますかね。


 でしょう?


  テコンドーを批判するならば、それはテコンドーの美意識(=思考、思想)を批判すべき、と。


 そして、もしテコンドーの美意識を知りたいのであれば、テコンドーを学び、テコンドーの競技ルールで試合をしてみればいいだけの事だろう、とも思う。


 それでね、もう一つ言うとね、私的には、


 テコンドーこそが「世界最強」なんです。


 プロレスラーの天龍源一郎曰く、


「誰が最強って、そいつは一番長生きしたやつ」と、


正確ではないが、こんな感じで言ってて、


 この意見あっしも激しく同意ですから。


 チェ・ホンヒ総裁の掲げたテコンドーの目的の一つは、


 「ザ・健康増進」。


 実際、あっしも自分のナンチャッテ道場で、テコンドーのトレーニングを始めてから調子がいい。


 確かに日々本ブログで嘆いているように身体は痛くて死にそうなんですがね、


 まるでヨガみたいなリラックスストレッチがいいのか、


 内臓的には凄くいい感じなんどす。よく眠れるようにもなったんですよ。


 一時間半のトレーニングで1時間がストレッチですもん、


 こりゃ確かに健康にいいわ、と日々感心している次第。


 そこで、はっと気がつくわけ。


 「健康にいい→健康増進→長生き→最強」という図式こそ、


 わがラブリーなテコンドーだと。


 そうか、テコンドーが世界最強か、と。

顔も思わずにやけちゃってね、


そしてそこで鏡に向かって大笑いですわ、
 

 ガッハッハッハ!と。


 ね? いいカンジじゃないですか?


 おっと、ふっと気がつけば、ヒクソンの話がいつのまにかテコンドー話になってしまった。


 そしていつものように長いくせに結局無駄話に終始、と。


 そしていつものように、アイスミマセン、ソーリー。


 最後に本題に返って一言。


 あっしはヒクソンよりホイスが好きどす。


 理由は「プロ格闘家としての色気」があるからね、兄ちゃんより。


 武道家としては兄ちゃんの方が多分上なんだろうけどね。


 ではでは。