これはある人物のここ最近の観察物語である。
観察対象者の名は小森泰蔵(コモリタイゾウ)。本名ではない。
なぜ私が彼をそう呼ぶかというのは後々話す。
小森くんは20代後半で、すでに妻子持ちである。
早婚にありがちなヤンキーではない。むしろ見た目は『草食系』と呼ばれる部類に属しているようにさえ思う。世の中探せば、草食系のヤンキーなる男性もいるのかもしれないが、彼に限っては見た目も育ちも違うと言えよう。中学から推薦で高校へ、高校から推薦で大学へと駒を進めたそうだ。しかしその間、成績上位を狙うべく『必死』とか『がむしゃら』とかには縁がなかったというのは、小森くん自身の談だ。いや実は『虎視眈々』ではあったのかもしれないが。
だからなのだろう、まさに『平穏無事』を形にしたような人だ。一緒にいるとこちらも穏やかな気持ちになれるのも、だからなのだろう。彼の悪口を聞いたことがないのも、いわんやである。
本人から聞いた話では、ご両親も健在で、畑を生業にされている。四季折々の野菜や果物を食し、健やかに育って来たようだ。
そんな小森くんにも武勇伝があり、ご実家のリビングの壁には彼の拳の痕が、今もぽっこりと開いているそうだ。反抗期だったのか、あるいは彼のRock魂がうずいたのか…
そうなのだ、彼は高校時代には本気でプロのドラマーを志したことがあるそうだ。その時の音楽仲間が年上の人が多かったらしく、かなり時代のズレた洋楽も好んでいる。おかげで話の域も広く、年代性別問わないウケのよさに拍車がかかっている。
話が逸れたが、彼にはそういう『要素』があるが、そのアウトローな片鱗はめったに表に出さない。
彼は気をつけて出さないようにしているのではなく、たぶんほんとうに常日頃は開かずの扉なのだろうと思う。『能ある鷹は爪を隠す』ではないが、熱があるようなないような、そう、まさに『人肌の温度』を万事にキープできるのである。
しかし最近、その片鱗を知った。
彼はトイレが長い。意識していなかったが、本人にそう言われてみて、『確かに席を外している時がある』と思い至った。
その話を聞いたのは、同僚の送別会で、彼が長らく席を外して戻って来た時のことだ。何気なく『どうしたの?気分悪い?』と聞くと、『僕、トイレの個室がすごく落ち着くんです』と話し始めた。衛生的とは思えないその場所が落ち着く人がいるなんて、私は想像だにしていなかったので、『はっ?』と聞き返してしまった。
それから彼はこう続けた。『子どもも生まれ、結婚生活はそれなりに充実しているんです。でも、トイレに入ると、すべてから解放されるというか逃避できるというか、【無】になれるんですよねー。考えることも感情も持ち合わせなくてすむ。毎日の中で、そこだけなんですよ、ほんとうにリラックスできるのって。それからだんだん、職場でも飲み会でも買い物途中の大型スーパーでも、時々トイレが長くなっちゃうんですよね』と。
悪びれた様子はなく、少しだけ照れているようにも見えたが、やはり平常心のような印象を受けた。お家でのことはいざ知らず、職場ではまずいんじゃないの?とも感じたが、そっか、タバコを吸う人の気分転換と同じかぁ~と思ったら、咎める気も一瞬にして失せた。むしろ【無】になる術に、トイレを使っているなんて!と新鮮な驚きに満ちた。
それからというもの、私の中で彼は『(個室に)小森泰蔵(コモリタイゾウ)』という名になった。
実に消極的なリラックスに思えるが、実際はかなりの熱量で『トイレに籠っている』はずである。Rockとは遠くかけ離れているようなこの行動に、私はその魂を感じてしまったのである。魂と言って伝わらないなら、強い意志と言ったらいいだろうか。納得と妙な清々しさの相まった気持ちになった。
そんな小森くんが苦手とするものが分かった。理不尽なイライラを押し付けられること。…誰だって得意な人はいないのだが、物事すべてに人肌のような温かさで向き合いこなしているような小森くんが、殊、不当なイライラ攻撃を向けられると、完全なるフリーズをしてしまうのである。
管理職陣が甘いばっかりに、主任クラスの人達が方向性を出して動いているような職場だから、不協和音が漂ったり、然るべき評価がなされなかったり、つまらないことも多い職場である。その中でも小森くんは優秀な営業マンとして日夜勤めてくれているのだ。
売上が伸び悩みの中で、決断できない上司が『迷走中』に檄を飛ばしたのだが、声ばかり大きく発言内容は丸投げで、聞いている方はシラケる一方だった。上司の話が終わった瞬間、みんな『ふぅ~』と息をつき、長いだけの空っぽの話から解放された安堵に三々五々散ったのだが、たまたま小森くんが視界に入ると、彼は落ち着き払って落胆していた。顔にはありありと『めんどくせぇなぁ』と書かれ、そこだけ空気が固まっているような、いつも彼がまとっている穏やかさを消しているような、『孤独』を全身から醸し出しているような、そんな風に感じた。
ほんの数秒のことだと思うが、今まで目にしたことのない彼の様子に、たじろいでしまった。
そしてその数ヶ月後、小森くんは、年間通して幾度と出ない好成績を上げ、称賛の声がまだ鳴りやまない中、あっさりと会社に辞表を出した。そこに至るまでも、難なくといった体で、そして辞意を表した後もすべてに変わらない温度でやり抜いている。
『辞める』と聞いても、私は驚かなかった。きっとあの時の上司の話に決まったのだろう。彼の何かが『動いた』のではないか。ただ嫌気が差したのでもなく、将来を考えてでもなく、小森泰蔵の持つRockな何かが、ここにいる自分を許さなかったのではないか。あの『孤独』を発している時、彼は『結果を出して新たな一歩を踏み出そう』と心に決めたのではないか、そう私は思った。
差し出がましいとも思ったが、私は自ら送別会の幹事を引き受けた。記念のプレゼントはもちろんアレと決めている。
私が小森くんに用意したプレゼントはこちら
観察対象者の名は小森泰蔵(コモリタイゾウ)。本名ではない。
なぜ私が彼をそう呼ぶかというのは後々話す。
小森くんは20代後半で、すでに妻子持ちである。
早婚にありがちなヤンキーではない。むしろ見た目は『草食系』と呼ばれる部類に属しているようにさえ思う。世の中探せば、草食系のヤンキーなる男性もいるのかもしれないが、彼に限っては見た目も育ちも違うと言えよう。中学から推薦で高校へ、高校から推薦で大学へと駒を進めたそうだ。しかしその間、成績上位を狙うべく『必死』とか『がむしゃら』とかには縁がなかったというのは、小森くん自身の談だ。いや実は『虎視眈々』ではあったのかもしれないが。
だからなのだろう、まさに『平穏無事』を形にしたような人だ。一緒にいるとこちらも穏やかな気持ちになれるのも、だからなのだろう。彼の悪口を聞いたことがないのも、いわんやである。
本人から聞いた話では、ご両親も健在で、畑を生業にされている。四季折々の野菜や果物を食し、健やかに育って来たようだ。
そんな小森くんにも武勇伝があり、ご実家のリビングの壁には彼の拳の痕が、今もぽっこりと開いているそうだ。反抗期だったのか、あるいは彼のRock魂がうずいたのか…
そうなのだ、彼は高校時代には本気でプロのドラマーを志したことがあるそうだ。その時の音楽仲間が年上の人が多かったらしく、かなり時代のズレた洋楽も好んでいる。おかげで話の域も広く、年代性別問わないウケのよさに拍車がかかっている。
話が逸れたが、彼にはそういう『要素』があるが、そのアウトローな片鱗はめったに表に出さない。
彼は気をつけて出さないようにしているのではなく、たぶんほんとうに常日頃は開かずの扉なのだろうと思う。『能ある鷹は爪を隠す』ではないが、熱があるようなないような、そう、まさに『人肌の温度』を万事にキープできるのである。
しかし最近、その片鱗を知った。
彼はトイレが長い。意識していなかったが、本人にそう言われてみて、『確かに席を外している時がある』と思い至った。
その話を聞いたのは、同僚の送別会で、彼が長らく席を外して戻って来た時のことだ。何気なく『どうしたの?気分悪い?』と聞くと、『僕、トイレの個室がすごく落ち着くんです』と話し始めた。衛生的とは思えないその場所が落ち着く人がいるなんて、私は想像だにしていなかったので、『はっ?』と聞き返してしまった。
それから彼はこう続けた。『子どもも生まれ、結婚生活はそれなりに充実しているんです。でも、トイレに入ると、すべてから解放されるというか逃避できるというか、【無】になれるんですよねー。考えることも感情も持ち合わせなくてすむ。毎日の中で、そこだけなんですよ、ほんとうにリラックスできるのって。それからだんだん、職場でも飲み会でも買い物途中の大型スーパーでも、時々トイレが長くなっちゃうんですよね』と。
悪びれた様子はなく、少しだけ照れているようにも見えたが、やはり平常心のような印象を受けた。お家でのことはいざ知らず、職場ではまずいんじゃないの?とも感じたが、そっか、タバコを吸う人の気分転換と同じかぁ~と思ったら、咎める気も一瞬にして失せた。むしろ【無】になる術に、トイレを使っているなんて!と新鮮な驚きに満ちた。
それからというもの、私の中で彼は『(個室に)小森泰蔵(コモリタイゾウ)』という名になった。
実に消極的なリラックスに思えるが、実際はかなりの熱量で『トイレに籠っている』はずである。Rockとは遠くかけ離れているようなこの行動に、私はその魂を感じてしまったのである。魂と言って伝わらないなら、強い意志と言ったらいいだろうか。納得と妙な清々しさの相まった気持ちになった。
そんな小森くんが苦手とするものが分かった。理不尽なイライラを押し付けられること。…誰だって得意な人はいないのだが、物事すべてに人肌のような温かさで向き合いこなしているような小森くんが、殊、不当なイライラ攻撃を向けられると、完全なるフリーズをしてしまうのである。
管理職陣が甘いばっかりに、主任クラスの人達が方向性を出して動いているような職場だから、不協和音が漂ったり、然るべき評価がなされなかったり、つまらないことも多い職場である。その中でも小森くんは優秀な営業マンとして日夜勤めてくれているのだ。
売上が伸び悩みの中で、決断できない上司が『迷走中』に檄を飛ばしたのだが、声ばかり大きく発言内容は丸投げで、聞いている方はシラケる一方だった。上司の話が終わった瞬間、みんな『ふぅ~』と息をつき、長いだけの空っぽの話から解放された安堵に三々五々散ったのだが、たまたま小森くんが視界に入ると、彼は落ち着き払って落胆していた。顔にはありありと『めんどくせぇなぁ』と書かれ、そこだけ空気が固まっているような、いつも彼がまとっている穏やかさを消しているような、『孤独』を全身から醸し出しているような、そんな風に感じた。
ほんの数秒のことだと思うが、今まで目にしたことのない彼の様子に、たじろいでしまった。
そしてその数ヶ月後、小森くんは、年間通して幾度と出ない好成績を上げ、称賛の声がまだ鳴りやまない中、あっさりと会社に辞表を出した。そこに至るまでも、難なくといった体で、そして辞意を表した後もすべてに変わらない温度でやり抜いている。
『辞める』と聞いても、私は驚かなかった。きっとあの時の上司の話に決まったのだろう。彼の何かが『動いた』のではないか。ただ嫌気が差したのでもなく、将来を考えてでもなく、小森泰蔵の持つRockな何かが、ここにいる自分を許さなかったのではないか。あの『孤独』を発している時、彼は『結果を出して新たな一歩を踏み出そう』と心に決めたのではないか、そう私は思った。
差し出がましいとも思ったが、私は自ら送別会の幹事を引き受けた。記念のプレゼントはもちろんアレと決めている。
私が小森くんに用意したプレゼントはこちら
