宮台真司「ねじれた社会の現状と目指すべき第三の道」

 マンハイムは『歴史主義・保守主義』で「保守主義とは再帰的伝統主義だ」と言います。伝統主義とは、自明性や慣れ親しみの地平上で、昔やっていたように自動的にやってしまうこと。これに対し、再帰的伝統主義とは、伝統主義がもはや自動性を欠くがゆえに、「これぞ伝統主義だ」と人為的に言挙げして人々の選択を呼びかけるものです。彼は、保守主義とは、再帰的伝統主義たるゆえに、近代主義の有力な立場の一つなのだとしました。
 二十世紀前半に主張されたこの立場は、ある前提の上に立っています。当時は<生活世界>の外側に<システム>が急拡大した時代。すなわち自律的相互扶助によって調達されてきた便益が、突如、市場化&行政化されはじめた時代。とはいえ<システム>周辺にはまだ<生活世界>―慣れ親しみが支配する生活領域―が残っており、<生活世界>を共有する「我われ」がしばしば<システム>へと出かけて生産や購買をするのだと考えられました。
 この段階での<生活世界>は「帰る場所」というイメージです。帰るか帰らないかは、たしかに「選択の問題」になってはいますが、帰る場所の存在自体は「疑えないもの」ととらえられています。近代化過渡期における保守主義=再帰的伝統主義とは、そうしたものです。
 これはいわば<顧慮>の思想です。ハイデガーは人間が人間である条件を<顧慮>に求めます。他者からどう見えているのかを気遣うことです。<顧慮>するには他社の視線をとれなければなりません。ミードのいう「役割取得」であり、パーソンズのいう「視界相互性」です。<顧慮>の可能性を支えるのが<生活世界>です。<生活世界>が空洞化すれば役割取得や視界相互性の可能性は減少し、<顧慮>は難しくなっていきます。