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マンU香川復帰戦に注目 再び獲得検討か
欧州チャンピオンズリーグ決勝に進出したマンチェスターUのファーガソン監督が、
ドルトムントMF香川真司(22)の復帰戦に注目している。
英国のスポーツサイト「sport.co.uk」が5日、報じた。
同サイトによるとファーガソン監督のマンUは、ACミランなどと同じように、
1月の移籍期間に香川の獲得を検討。
だがアジア杯で骨折したことにより、その可能性は消滅した。
それでも同監督のリストには依然として香川の名前があり、
復帰戦でのケガの治り具合しだいで今夏、再び獲得を検討するという。
[2011年5月7日]


香川獲得へマンUがブンデス全試合調査
日本代表のMF香川真司(22=ドルトムント)が、今冬にプレミアリーグ王者のマンチェスターUに移籍する可能性が5日、高まった。
マンUが本格的に調査を開始し、2011-2012年シーズンのブンデスリーガ開幕戦(8月第1週)から全試合をチェックする方針であることが判明した。
関係者によると香川本人もプレミア移籍に前向きで、正式オファーが届き次第、交渉の席につく意向だという。
早ければ年内にも目標のビッグクラブ移籍が実現しそうだ。
ついに、香川が念願のビッグクラブに移籍する可能性が高まった。
ルーニーやオーウェン、朴智星ら世界的スターがそろうプレミア王者のマンチェスターUが、本格的な調査を始めることが分かった。
11-12年シーズン開幕戦から視察団を送り、全試合をチェック。
ファーガソン監督にリアルタイムで、情報を送る方針を固めたという。
正式オファーが届くのは、時間の問題になってきた。
香川もプレミア移籍に前向きだ。関係者によると、本人はマンUから水面下で調査を受けていることを把握済みで「正式な話が来れば、聞いてみたい気持ちが強い。
プレミアは挑戦したいリーグの1つ。マンUならなおさら行って、自分の力を試してみたい」と漏らしている。
移籍金の問題などドルトムントとの交渉にも左右されるが、本人が移籍に前向きな姿勢を示したことで、話し合いが本格化すれば一気に進展することも考えられる。
昨年末からマンUに興味を持たれていた。
だが1月のアジア杯で右足小指付け根を骨折し、長期離脱したことで1度は消滅。
その後、5月14日のリーグ最終節フランクフルト戦で4カ月ぶりに実戦復帰することが伝えられると、
再びマンU側は現地に調査団を派遣したという。その試合で香川は終盤わずか2分間の“お披露目”の出場に終わった。
現時点で故障からの回復具合や、プレミアへの適応性など資料が十分ではないため、関係者は「(香川の)11-12年シーズン前半戦の動きを見極めた上で、
ファーガソン監督の判断で獲得に動くだろう」と明かした。
香川は欧州1年目の昨季、8月~12月にかけて17戦8得点でブンデスリーガの前半戦MVPに輝いた。
後半戦は故障で棒に振ったものの、ドルトムントのリーグ優勝に貢献。
2年目の今季も同じような活躍をすれば、マンUから正式オファーが届くのは確実だ。
プレミアの他クラブやスペイン、イタリアのクラブも獲得に動く可能性もあるが、あくまでも香川は世界的なビッグクラブへの移籍を視野に入れている。
マンUは欧州チャンピオンズリーグ決勝でバルセロナに敗れはしたものの、10-11年シーズンの欧州CL準優勝クラブだ。
香川にとってもこれ以上ない、最高のステップアップにつながる。
今年1月にインテルミラノに電撃加入したDF長友に続く日本人のビッグクラブ移籍へ。
今冬に「マンU香川」が誕生する可能性は、十分にある。
[2011年6月6日]


マンUに反応 ドルト「香川放出しない」
ドルトムントのツォルク・チームマネジャーが、高額オファーが来てもMF香川真司(22)を放出しない考えを8日付のドイツ紙ビルトに語った。
マンチェスターUのファーガソン監督が香川に興味を示し、移籍金2000万ユーロ(約23億円)を準備しているという話にも「香川を売ることは、全く話題にもなっていない。
オファーを出す手間をファーガソンは節約できる。
我々の狙いはシンジとの契約を早期に延長することだ」と話し、休暇明けにも交渉する予定だという。
[2011年6月9日]


ドルト初2冠 香川から3発/ドイツ杯
ドルトムントの日本代表MF香川真司(23)が名将の目の前で、その価値を証明した。
Bミュンヘンとのドイツ杯決勝に、トップ下として先発。同MF獲得に興味を示すマンチェスターUのファーガソン監督が見守る中、
1ゴール1アシストをマークしてチームを23季ぶり3度目の優勝に導いた。
リーグ戦とカップ戦の2冠は、ドルトムント103年のクラブ史上初の快挙となった。
名将の目が香川にくぎ付けになった。前半3分。右サイドでこぼれ球を拾った右MFブワシュチコフスキが、
飛び出した相手GKノイアーをかわしながら中央へクロス。走り込んだ香川が、左足で先制ゴールを決めた。
「バイエルン相手の決勝で結果を残してやろうという強い気持ちがあったんで。
どんなゴールであれ、こういう舞台で結果を出せたっていうのはすごいうれしい」。
香川は2-1の前半ロスタイムにも、中央でボールを受け、ゴール前へ走り込んだFWレバンドフスキへアシスト。
前半だけで1得点、1アシストをマークし、試合の流れを完全に引き寄せた。
これだけでも十分な活躍だが、後半13分には中央をドリブルで上がり、レバンドフスキのゴールの起点となった。
香川はチーム5点中3点に絡み、フェラン助監督とともにスタンドに陣取ったマンチェスターU・ファーガソン監督に強い印象を植え付けた。
翌日に優勝をかけたリーグ最終戦を控えた指揮官が、他国での試合を観戦に訪れるのは極めて異例。
だがその裏には同MF獲得競争の激化がある。英メディアではマンチェスターUが最有力とされているが、
ACミランやチェルシー、ここに来てアーセナルも興味を示すなど、ライバルは多い。
そんな中、ファーガソン監督が実際に足を運ぶことは、移籍金700万ポンド(約9億3500万円)ともいわれる香川へ熱意を伝えることにもなる。
この日のテレビ放送では、同監督の姿が映し出され、翌13日の英メディアも大々的に報道。
ミラー紙は「視察」と「小切手」という2つの意味を持つ「check」という単語を使い、
「ファーガソン監督が香川を個人的に視察(ファーガソン監督が香川に個人的に小切手を支払う)」という二重の意味の見出しを掲げた。
香川はこの日も去就については多くを語らず。「じっくり考える」とだけ口にした。
だがこれでドルトムントは23季ぶり3度目のドイツ杯制覇。ライバルBミュンヘンに、08年決勝で延長戦の末に敗れたリベンジを果たした。
さらに連覇を達成したリーグ戦と合わせ、103年のクラブ史上初となるシーズン2冠を達成した。
「1年間の集大成として最後の試合に臨み、結果を残せた。成長した得点だったのかなと思います。
今年はうまくチームをまとめて、組み立てることが出来た。そういう意味ではすごい充実感がありますし、達成感もある」。
大きな仕事を成し遂げた香川が、さらなる大舞台へとはばたく可能性はまた高まった。
[2012年5月14日]


香川マンU監督と面談「決まってはない」
日本代表MF香川真司(23=ドルトムント)が16日早朝、羽田空港着の航空機で帰国した。
既にドルトムント退団が確実で、現地メディアで移籍先の最有力に挙がっているマンチェスターUの本拠地を訪問したと伝えられていた。
それについて香川は「マンチェスターには行きましたが、まだ何も決まってはいないです」と明言した。
マンチェスターUのファーガソン監督と面談したことを認めた。
23日に行われる親善試合のアゼルバイジャン戦(エコパ)に向けては「W杯アジア最終予選前の最後の試合なので、
確認することを確認して、後はコンディションを上げていく」と話した。
[2012年5月16日]


香川、ファーガソン監督と移籍会談
日本代表のMF香川真司(23=ドルトムント)が、正式オファーを受けている名門マンチェスターUのアレックス・ファーガソン監督(70)と直接会談した。
16日早朝にマンチェスターからドイツを経由し、羽田空港着の航空機で帰国。移籍先をプレミアリーグに絞ったことを明かした。
今季プレミア王者のマンチェスターCも獲得に乗り出していることも判明。あくまでも熱烈オファーを受けるマンUを最有力候補に、早ければ今月中に最終結論を出す。
夜が明けたばかりの羽田空港で、香川が衝撃的な事実を明かした。早朝にもかかわらず、集まった報道陣は約100人。
それだけで注目度の高さをうかがわせた。長旅の疲れは一切、見せない。希望に満ちた明るい未来を、待ち切れないといった晴れ晴れとした表情だった。
「マンチェスターには行きました。何も決まってはいないですけれど、ファーガソン監督と話をしてきました。初めて(監督と)会った。
会話の内容は言えないですが、ラブコールというか、いい言葉を頂いた。しっかりした結論を出さないといけないです」
既にドルトムント側には退団の意思を正式に伝え、リーグ戦とドイツ杯の2冠を達成した仲間にも別れのあいさつをしてきた。
その後14日にマンチェスター入りし、ファーガソン監督と約2時間の会談。翌15日にドイツを経由し、日本に帰ってきた。
短時間の滞在でマンUの豪華な施設を見学する余裕はなかった。それでも12日のドイツ杯決勝・Bミュンヘン戦を直接視察するなど、ファーガソン監督の熱意に胸を打たれた。
「ボクの中でプレミアは1番。(マンUも)ビッグクラブで監督、サポーターであったり、素晴らしい舞台。
(他の)チームからもいろいろコンタクトがある。どこが1番かというのは正直ないですが、自分が挑戦できるところを選んで決める。
しっかり自分の意思で決めたいと思います」
移籍先をプレミアリーグに絞ったことで、マンUが最有力候補であるのは揺るがない。
一方で同じマンチェスターに本拠を置き、13日の最終節まで壮絶な優勝争いを繰り広げて、44年ぶりに優勝したライバルのマンCも横やりを入れる形で獲得に乗り出したことが判明。
3位アーセナルも含め、来季の欧州チャンピオンズリーグ(CL)出場権のある上位3クラブが香川争奪戦を繰り広げる展開だ。
現時点で欧州CL出場権のない6位チェルシーなども含めれば、プレミアだけでも複数の名門クラブから声がかかっている。
今後は条件面と、出場機会などを踏まえ早ければ今月中にも正式結論を出すことになりそうだ。
6月からは日本代表としてW杯アジア最終予選が始まる。プレミアの超ビッグクラブから、14年W杯ブラジル大会へ。
香川の夢は、果てしなく膨らむ。
[2012年5月17日]


香川マンU移籍が決定!
日本代表のFW香川真司(23=ドルトムント)が、プレミアリーグの名門マンチェスターUに移籍することを5日、両クラブが発表した。
同クラブへの移籍は日本人初。現在は代表合宿中のため、W杯アジア最終予選オーストラリア戦(12日、アウェー)後に現地に渡り、正式サインをする。
移籍金は推定で最大約22億円、3~5年の複数年契約になる見通し。
欧州で大きな夢をつかんだ香川は、プレミア最多19度の優勝を誇る世界屈指のビッグクラブから、14年W杯ブラジル大会に挑む。
世界の超一流クラブの扉を開いた。この日マンチェスターUが、香川獲得について、所属のドルトムントと基本合意したと発表した。
香川は現在、代表合宿中のため、6月のアジア最終予選3連戦の最後となる12日オーストラリア戦後にマンチェスターに渡る。
VIP待遇になる。マンU側は1年半以上も調査を続けてきた。
今年5月のドイツ杯決勝・Bミュンヘン戦にはファーガソン監督自らドイツに足を運んで誠意を示し、先月15日には香川をマンチェスターに呼んで起用法まで伝えた。
プレミア王者マンC、欧州王者チェルシー、アーセナル、セリエAのACミランなどとの争奪戦になったため、必死だった。
過去にベッカム、Cロナルドら世界的スターが在籍したマンUへの移籍は日本人初。
欧州のシーズンが終わったばかりの6月に合意するのは、移籍市場の目玉選手である証しだ。
移籍金は推定で1700万ユーロ(約17億円)+出来高で最高2200万ユーロ(約22億円)に達する。
年数も3~5年の超大型契約になる見通し。12年の米経済誌フォーブスによると、マンUは資産価値約22億ドル(約1760億円)で8年連続サッカークラブ世界一。
かつて日本人で、これほどのクラブから、これほどの好待遇で迎えられた例はない。
日本を背負って戦う責任感からか香川はこの日、多くを語ることはなかった。
「完全な合意はまだしていません。交渉はしていますけど、ボクがサインしていない。
代表戦があと2試合あるので、そこに向けてチームメート全員が集中している。できれば代表の後に話をしたい」
一方で、突然の合意発表になったため、所属事務所も困惑した様子だった。
担当者は「今は本人が代表合宿に集中している時期ですので、それ以上の話はできません」と説明。
今後は代表戦後にメディカルチェックと、英国の労働許可証を取得するなど、諸条件のすり合わせを経て今月中旬にも正式サインする予定だ。
高校2年でC大阪とプロ契約した際は、それほど注目される存在ではなかった。同期入団には天才と呼ばれた柿谷(C大阪)がいた。
プロ1年目の06年は公式戦出番なし。その頃、C大阪に在籍していた元日本代表MF名波浩や山田卓也ら、10歳以上も年の離れた選手らと、
毎日のように夕暮れのグラウンドを走る姿があった。ようやくプロで出番に恵まれた時、C大阪はJ2。
血と汗がにじむ努力でここまではい上がった。
マンUで定位置をつかめば、日本人初の欧州チャンピオンズリーグ制覇も現実的になる。
その先には14年W杯。憧れのバルセロナ移籍も夢見る。世界の頂点を目指し、香川の夢は果てしなく広がる。
[2012年6月6日]


ファーガソン監督システム「香川仕様」に
マンチェスターU移籍決定から一夜明け、6日の英各紙はMF香川真司(23=ドルトムント)への期待と称賛であふれかえった。
中でも高級紙ガーディアンは「相手MFとDFの間を突く才能と、幅広いプレー域を持つ」と高く評価。
マンUのファーガソン監督が香川の加入により、従来の4-4-2から4-2-3-1にシステムを変える構えだと報じた。
FWルーニーを1トップにし、その後方に香川を配する形で、ファーガソン監督は5月12日にドイツ杯決勝を視察した際、その旨を伝えたともされている。
マンUは長い間4-4-2を継続しており、同監督が基本フォーメーションを変えるとすれば、香川の才能が名将の心を突き動かしたことになる。
また、デーリー・テレグラフ紙は香川に「背番号7」が与えられると報じた。
マンUの7番といえば、ベスト、カントナ、ベッカム、C・ロナルド、オーウェンという「スーパースターの系譜」。
まさしく「マンUの顔」として認められた証しといえる。
ドイツ紙ウェストドイチェ・アルゲマイネによると、香川の契約期間は4年で年俸約320万ユーロ(約3億2000万円)。
ドルトムントが得る移籍金は推定1600万ユーロ(約16億円)で、成績に応じてさらに300万ユーロ(約3億円)が加わるとされている。
[2012年6月7日]


マンU監督「スタイルに合っている」
日本代表MF香川真司がマンチェスターUと4年契約を結んだ。
ファーガソン監督のコメント。
「このクラブを選んでくれてうれしい。クラブのプレースタイルに合っているので、
すぐにインパクトを与えてくれることは間違いない。一緒に戦えることを楽しみにしている」。
[2012年6月23日]


香川ファーガソン監督から直接電話受ける
日本代表FW香川真司(23)が、英プレミアリーグの名門マンチェスターUと正式契約し、ドイツ・ドルトムントからの完全移籍が完了した。
香川はわずか11時間のマンチェスター滞在中に、指揮官から直接電話を受け取った。
バカンス中のファーガソン監督と面談することはなかったが、電話で「会えるのを楽しみにしている。一緒に成功しよう」と声をかけられたという。
入団記者会見には同席する予定で、「8月のリーグ開幕戦に向けて準備する。そのためにはキャンプが大事。
新加入なのでコミュニケーションをとりながら、チームの輪に入っていきたい」と、期待に応えるつもりだ。
[2012年6月24日]


ファーガソン監督「いいタイミング」
イングランド・プレミアリーグ、マンチェスターUに加入した日本代表MF香川真司(23)が12日、
英マンチェスターの本拠地オールドトラフォードで入団記者会見を行った。
会見に同席したファーガソン監督の話 香川はこの2年間、トップ下でプレーして素早さと視野の広さを見せた。
欧州のサッカーにうまく適応している。来るのはいいタイミングだ。
[2012年7月12日]


香川に「スコットランドなまり慣れて」
イングランド・プレミアリーグ、マンチェスターUに加入した日本代表MF香川真司(23)が12日、
英マンチェスターの本拠地オールドトラフォードで入団記者会見を行った。
会見に同席したファーガソン監督は、香川がチームに適応するために英語習得が重要であると強調した。
スコットランド出身の同監督は「これから数カ月で英語とスコットランドなまりに慣れてほしい。
ドイツ語よりは簡単だろう」と話し、報道陣の笑いを誘った。
香川は「言葉を早く覚えたい」と神妙な表情だった。
[2012年7月12日]


香川マンU開幕戦出場「問題ない」
ドルトムントからマンチェスターUへ移籍した日本代表MF香川真司(23)が12日、入団会見に臨んだ。
本拠地オールドトラフォードに、“サー”アレックス・ファーガソン監督(70)らと姿を見せ「マンUの練習着に袖を通し感動したし、
誇りに思っている。早くこのチームで結果を残したい」と力強く語った。
香川は今後、南アフリカ、中国、北欧と続くプレシーズンツアーに参加し、レギュラー取りへ猛烈アピールする。
いよいよ「マンチェスターUの香川真司」がお披露目となった。オールドトラフォードのサロンにあふれんばかりの、約80人の報道陣を集めて会見が行われた。
ファーガソン監督、こちらも新加入となるU-18イングランド代表MFパウエルと壇上に並んだ香川は
「日本の報道だったり、世界的な目も感じますが、プレッシャーを喜びに変えたい」と意気込みを示した。
報道陣80人のうち、50人ほどが現地メディア。これに驚いたのが同席したパウエル。
イングランド4部クルー・アレクサンドラ(今季3部)からの移籍とあって「記者1人、カメラマン1人に慣れていたから。さすがマンUだよねぇ」とあっけにとられていた。
ドルトムントでは2年間でリーグ戦21ゴールをマーク。そんな期待の新戦力にファーガソン監督の口調も滑らかだった。
スコットランドなまりの英語で「トップ下でプレーし、スピードがあり、試合展開をみる目がある。
そのポジションでの、ここ2年の得点力は素晴らしかった。ドルトムントは欧州サッカーに慣れるのに良いチームだった。
成長過程にある選手で、よいタイミングでマンUにきた」とまくしたてた。
そんな中、同監督が課題として挙げたのが語学習得。「選手と親しくなる機会をつくり、マンUの流儀を習うことが必要。
数カ月で英語も(自分が話す)スコットランド語も上達するだろう(笑い)。
ドイツ語より簡単だろうし」と、テーマを与えた。これには香川も「語学に関しては自分も重要視しています。
1日も早く同僚とコミュニケーションがとれるように勉強していきたい」とうなずいた。
ただ、マンUのレギュラーとしてプレーするのは簡単なことではない。ポルトガル代表MFナニやイングランド代表MFヤングらと競い、定位置を確保しなければならない。
香川はすでに11日からチーム練習に合流。この日も午前練習に参加してから会見に臨んでいたが、「さらに上を目指すために、もっとレベルアップが必要。
マンUの環境はやっぱりレベルが高いなと日々感じている」という。
今後は18日の南アフリカでの試合を皮切りに、プレシーズン戦でアピールしていく。
8月8日にはあのバルセロナとも戦う。この日、笑みを浮かべながら香川を紹介したファーガソン監督も
「あと1人か2人は補強したい。欧州選手権も終わったし、移籍市場も動きだすだろう」と明言した。
保証されたポジションなどない。その上でファーガソン監督の次の言葉は、香川にとりこの上ない励みになる。
「言葉や我々のサッカーになじめば、開幕戦の出場も問題ない」。横でその意味をかみしめた香川も、呼応するように言った。
「1日1日を大切にしたい」。香川の輝かしいキャリアは、サッカーの母国で晴れやかにスタートを切った。
[2012年7月13日]


香川18日マンUデビュー、遠征初戦で先発
南アフリカ遠征の初戦、18日(日本時間19日未明)のアマズル戦で、マンUデビューを果たすことになった。
ファーガソン監督が前日17日の会見で「香川は先発するだろう。日本人らしく、よく動くし、規律正しい。うまくやってくれると思う」と明かした。
[2012年7月18日]


「香川はファンタスティック」マンU仲間
マンチェスターUのアレックス・ファーガソン監督(70)とDFファーディナンド(33)が23日、上海市内で会見を行った。
新戦力の日本代表MF香川真司(23)について、ファーガソン監督が「ファンタスティックな存在だ。彼はピッチ上で正しい判断を選択できる」と称賛。
ファーディナンドも「彼は非常に印象的だ。ドイツにいる時からテレビでプレーを見ていた。ファンタスティックで素早く、滑らかな動きをする」と絶賛していた。
マンチェスターUは25日に上海スタジアムで上海申花とプレシーズンマッチを行う。
[2012年7月23日]


ファーガソン監督「シンジ良かった」
21日に南アフリカで行われたアヤックス・ケープタウン戦で移籍後初先発を果たしたマンチェスターUの日本代表MF香川真司(23)の動きに対して、
ファーガソン監督が及第点を与えた。マンU公式ホームページによると、同監督は「シンジはとても良かった。彼は知性あるサッカー選手で、素早く、
いつでも顔を上げて周囲の状況をうかがっている。いつパスを出せば良いか知っているし、満足だよ」と話したという。
[2012年7月23日]


香川初マンU弾!豪快右足/親善試合
日本代表MF香川真司(23)がマンチェスターU移籍後、初ゴールを決めた! 
マンチェスターUは中国スーパーリーグの上海申花と対戦、勝利した。
香川は21日のアヤックス・ケープタウン戦に続きトップ下で2試合連続先発出場し、初のフル出場。
後半23分にMFベベのクロスを受け右足で豪快に決勝点を突き刺した。今後は欧州に戻り、欧州選手権に出場したイングランド代表FWルーニーらも合流。
8月20日のリーグ開幕戦へ、本格的な定位置争いに挑む。
待ちに待った、この瞬間が訪れた。後半23分、香川はベベの左からのクロスを中央で受けると1度はトラップが浮いたが胸でボールを冷静に押さえ、右足を一閃(いっせん)。
マンU移籍後、初ゴールとなる豪快な決勝点を突き刺し、世界屈指の名門の背番号「26」をアピールした。
「とりあえずゴールは良かったですけど、あくまで相手も格下ですし。本当にこれからなので。なかなか…きれいなゴールではなかったですし」。
入団時から「最初にインパクトを残すことが大事」と話していたが、冷静に振り返った。
序盤は連係で苦しんだ。ボランチの位置までボールを受けに下がり、前線に攻め上がる動きを見せたが、ゴール前でパスが回ってこない。
実戦3試合目で連係の熟成もまだまだ。「まだまだ難しさもありました」。
ただ、自分の持ち味であるゴール前の危険な地帯でパスを受けようとする意思を繰り返し示し続けると、後半に入ると、仲間からのパスが通り始めた。
ファーガソン監督も香川のプレーを絶賛した。「彼のパスを受けるときの判断力、ターンのスピード、ディフェンスへの挑み方、それは我々にとって大きな資産となるだろう。
香川は今後、チームに大きな貢献をするだろう。彼のプレーに非常に満足している。香川の特徴は思考が速く、果断なプレーができることだ」。
名将も新戦力がこの日記した1歩に大きな評価を与えた。
ファーガソン監督からトップ下での起用を示されていたが、実は自分からトップ下への思いを直訴していた。
関係者によると「ドルトムントでのポジションや、自分はマンUでもトップ下でプレーしたいということを監督に伝えた。
こだわりの強さは伝わっていると思う」と明かした。激戦区の前線、トップ下での定位置獲得へ、この日のゴールは間違いなく重要なアピールになったはずだ。
今後、欧州に戻ればイングランド代表FWルーニー、ウェルベック、さらにポルトガル代表FWナニら「代表組」がチームに合流する。
いよいよ、本格的な定位置争いがスタートする。「これからだと思います。欧州に帰ってから厳しい戦いが待っている。
ゴールはよかったですけど、終わったことなので。代表組が帰ってきたら、さらにレベルアップしたサッカーができると思うので、その中でいかにできるかだと思う」。
まずは8月5日のボーレレンガ戦でさらなるアピールが必要となる。「もっとコンディションを上げる必要があるし、次の練習、次の試合からアピールしていきたい。
毎試合、毎試合頑張っていきたい」。そうすれば、8月20日のリーグ開幕エバートン戦(アウェー)での先発奪取が見えてくる。
[2012年7月26日]


香川公式戦デビュー英紙「素晴らしい」
マンチェスターUに今季加入し、20日のエバートン戦で公式戦デビューしたMF香川真司を、21日付の英国各紙は好意的に評価した。
試合は0-1で敗れたが、インディペンデントとデーリー・メール、デーリー・テレグラフはそろって10点満点の7点。チームで2番目に高かった。
デーリー・テレグラフは「攻撃的MFとして素晴らしい力を示したことでファーガソン監督は香川、ルーニー、ファンペルシーをいかに中央で共存させるか悩むことになる」と記した。
[2012年8月21日]


香川マンU1号!初本拠逆転弾
「シアター・オブ・ドリームズ(夢の劇場)」オールドトラフォードで主役となった! 
本拠地デビュー戦で移籍後、公式戦初ゴールを奪った。今季ホーム初戦のフラム戦でトップ下で先発出場。1-1で迎えた前半35分、
ミドルシュートを相手GKがはじいたところを、ゴール正面で確実に右足で流し込んだ。
チームも勝利。本拠地のサポーターに新戦力の背番号26を強烈に印象づけた。
世界中の選手があこがれる「夢の劇場」で、香川が主役となった。
前半35分、MFクレバリーのミドルシュートをGKがはじき、そのこぼれ球を確実に右足で流し込んだ。
周囲を見渡し、オフサイドでないことを確認すると、右拳をアッパー気味に突き上げ、歓喜の雄たけびを上げた。
予感はあった。試合が進むにつれてボールタッチが増え、同23分には左足からミドルシュートを放った。
GK正面に飛んだが、本拠地のサポーターからは大きな拍手が起こった。
同24分にはカウンターからMFヤングに好パスを通すと、その11分後にマンUの輝かしい歴史に「香川真司」の名を刻む一撃をマークした。
前半3分にまさかの先制点を許したが、同じく新戦力のFWファンペルシーが豪快な左足ハーフボレーで同点弾を突き刺した。
嫌でも比較される新戦力同士。ただ、香川に焦りはない。
ピッチを幅広く動き回り、ボールを呼び込み、小気味よくパスを散らし、そして得点機に絡む。持ち味を存分に発揮してみせた。
20日のリーグ開幕エバートン戦ではトップ下で先発フル出場したものの、チームは敗れ「負けたことに、ものすごく責任を感じている。
悔しさを忘れずに頑張りたい」と反省ばかりだった。だが、ファーガソン監督は24日の試合前日会見で
「(香川)シンジは両足が使えてバランスが良く、素早い。本当に満足している」と絶賛。この日も定位置のトップ下で先発した。
実は指揮官が香川獲得に際し、周囲に理由を明かしたことがあるという。関係者によると「献身的で技術が高く、得点に絡める選手はたくさんいる。
だが、献身的で技術が高く、得点を奪える選手はそうはいない。香川は得点が奪える選手だ」と明言。
移籍当初から香川への期待と信頼を口にしていたというのだ。
大黒柱のFWルーニー、ウェルベック、ベテランMFスコールズ、ギグスはこの日は控え。
中心選手として迎えた本拠地初戦で先発し、真価を発揮。後半に入ると、ことごとくパスに絡んだ。
その姿にはマンUの中心の雰囲気さえ漂った。
後半23分、ルーニーと交代してピッチを退く際にも大きな拍手が起こった。
敗戦の責任を背負ったエバートン戦から5日。「結果を残すことが大事」と言い続けてきた背番号26は、チームに勝利をもたらすゴールで、
歴史的で極めて大きな1歩を踏み出した。
[2012年8月26日]


香川は「探してた選手」ファーガソン監督
マンチェスターUのファーガソン監督が8月31日の記者会見で、日本代表FW香川真司(23)について語った。
同監督は香川のドルトムント1年目の活躍について「驚きだった」と明かし
「どこの馬の骨かも分からない選手を見つけてきたドルトムントのスカウトに感心する」と話した。
そして「(ドルトムント2年目の)昨季はより頭脳的なプレーが見られ、FWレバンドフスキと良い関係も築いた。
パスやスペースに対する意識や視野の広さは、我々がまさに探していた選手だった」と獲得理由をあらためて説明した。
[2012年9月1日]


ファーガソン監督、点取れる香川を評価
欧州チャンピオンズリーグ1次リーグH組で、2日にアウェーでクルージ(ルーマニア)と対戦するマンチェスターU(イングランド)のファーガソン監督は1日、
MF香川真司について「点が取れるところが素晴らしい。イングランドのサッカーに慣れるのは簡単でないが、徐々に重要な役割を果たしていくだろう」と述べた。
マンチェスターUは今遠征で、体調不良などを理由にMFスコールズ、ギグス、カリック、バレンシアが同行していない。
今季プレミアリーグで2得点の香川が攻撃のリード役を任される可能性が高そうだ。
[2012年10月2日]


香川の代表招集にマンU今後は難色も
マンチェスターUのファーガソン監督(70)が、香川真司(23)の日本代表招集に難色を示す可能性が出てきた。
20日のリーグ・ストーク戦で移籍後初のベンチ外になった香川について、22日の会見で「香川は自国の代表(遠征)で、移動もあり疲れていた」と説明。
9月の代表戦の際にも「(体調面を)把握しきれていない。チームとして不安材料であるのは確か」と語っており、今後は代表招集に慎重になりそうだ。
国際Aマッチデーには、代表側に招集の拘束力がある。それでも日本はW杯アジア最終予選B組で、2位オーストラリアに勝ち点5差の首位を独走。
まだマンUになじみきれていない香川の現状を考慮すれば、無理に代表招集に踏み切れば、クラブでの定位置確保に支障が出てくる。
来月14日には、W杯予選オマーン戦(敵地)を控える。アジア圏の選手は長距離移動を強いられることから、クラブと代表の両立は、さらに難しくなりそうだ。
[2012年10月24日]


香川、回復遅れ復帰まであと4週間
マンチェスターUのファーガソン監督は19日、イスタンブールで記者会見し、MF香川真司の復帰が遅れることを明らかにした。
香川は10月23日の欧州CLブラガ(ポルトガル)戦で左ヒザを負傷し前半で交代した後、公式戦6試合を欠場。
当初は約1カ月で復帰予定とされ、20日の欧州CLガラタサライ戦か、24日クイーンズパーク戦からの復帰が有力視されていたが、
同監督は「回復は遅れている。まだグラウンドに出ての練習はできていない。あと4週間かかるだろう」と話した。
[2012年11月20日]


香川復帰にファーガソン監督が合格点
29日のウェストブロミッジ戦で先発し、約2カ月ぶりに戦列復帰したマンチェスターUの日本代表MF香川真司(23)を、地元各紙は好意的に報じた。
インディペンデント紙は「状況を打開したのは香川のパスだった」と高評価。エクスプレス紙は「強い雨のピッチでも、簡単そうにワンタッチパスやフェイントを見せた」と紹介した。
香川も試合後に「この2カ月はつらかった。復帰できてよかった」と喜んだ。
後半21分に交代させたファーガソン監督は「シンジは前半とても良かった。久々だから交代させたが、自分の仕事をしてくれた」と合格点を与えた。
ただ、香川と交代でピッチに入ったファンペルシーがゴール。
香川は「さすがだなと思いました」とたたえ、「この2カ月間(他の)前線の選手は結果を残している。
自分も負けていられない」と定位置確保へ意欲をみせた。
[2012年12月31日]


香川、レアル戦起用をマンU監督が明言
マンチェスターU・MF香川真司が、13日にマドリードで行われるRマドリードとの
欧州CL決勝トーナメント1回戦第1戦の遠征メンバー入りした。
12日、チームが公式サイトで発表した。
香川は10日のエバートン戦ではベンチ外だったが、ファーガソン監督は会見で
「香川は日本からの長旅のため、日曜日(のエバートン戦)はプレーさせなかった。
明日、使おうと決めたからフレッシュでいて欲しいと思い、休ませたのだ。
明日、どこかで出場することになるだろう」と、香川の起用を明言した。
[2013年2月13日]


マンU監督レアル戦「最大の収穫」は香川
マンチェスターUのファーガソン監督は17日、
欧州CL決勝トーナメント1回戦のRマドリード戦(13日)で先発させたMF香川真司の働きについて
「前半は素晴らしい突破を続けていた。あの試合で最大の収穫の1つ」と公式サイト上で高く評価した。
[2013年2月18日]


マンU監督「香川の才能疑ったことない」
欧州チャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦第2戦は5日(日本時間6日未明)から始まる。
マンチェスターUはホームでRマドリード(スペイン)と戦う。
ファーガソン監督は4日の前日会見で、2日のリーグ戦で3得点したMF香川真司(23)を
「才能を疑ったことはない。2日の点の取り方を見れば、われわれが真のトップ選手を手に入れたことが分かる」と称賛。
第1戦は1-1で引き分けている。
[2013年3月5日]

日刊スポーツより転載





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本田強行「レアルと契約取る気持ち」
CSKAモスクワMF本田圭佑(25)が、14日(日本時間15日未明)の欧州チャンピオンズリーグ(CL)Rマドリード戦に、強行出場する見込みとなった。
3日のゼニト戦で痛めた左太ももの打撲が癒えず、手術を受け長期離脱していた右膝の状態も万全ではない。
しかし、チームの8強入り、そして自身のサッカー人生を切り開くため大一番のピッチに立つ。
本田は12日、モスクワからチームのチャーター機で決戦の地マドリードへ向かった。
決戦の地へと向かう本田は、いつも以上に言葉少なだった。
試合に向け頭の中とメンタル面を研ぎ澄ませて準備を進めていく男は、すでに臨戦モード。
モスクワ郊外、広いシェレメチェボ空港にチームのジャージー姿で現れた本田は、問いかけにもずっと伏し目がち。
パッと一瞬だけ顔を上げると、鋭い視線で、わずかに口を開いた。
万全な状態ではない。手術を受けた右膝は回復途上。加えて復帰間もない3日のリーグ・ゼニト戦で左太ももを打撲した。
左足の状態は深刻で9日のDモスクワ戦は前半45分で交代。痛みが残る中、人工芝ピッチで行われた11日の練習は完全別メニューだった。
Rマドリード戦については、こう言った。
「いろんな可能性がある。ただ、どう転んでもポジティブに考えている」
可能性とは、自身の出場と欠場の両方を指す。右膝のケガから復帰間もないがチームでは攻撃の要として機能しここ2試合連続アシストと結果も出している。
責任ある立場。軽々しく出場の可否を口にはできないし、するつもりもない。
ただ、気持ちは強行出場へと向いている-。必死の治療と準備でピッチに立って、チームと自身の未来を切り開くつもりだ。
相手のRマドリードは、あのバルセロナを従え、スペインリーグで首位を走る名門。
本田が近い将来の加入を目標として公言し続ける特別な存在だ。
今冬、セリエAラツィオへの移籍が土壇場で破談となった。
欧州で成り上がり世界一を目指すと言い続ける本田にとって自身の価値を示すのに、これ以上の舞台はない。
途中出場し1-1で引き分けた2月21日のホームでの第1戦後は「求められている以上のことをしないと、
レアルの連中にも名前を覚えてもらえない」と相手を意識した発言をしている。
そしてこの日、最後にこう言った。「出るなら、もちろん契約を取るくらいの気持ちでやる」
相手をねじ伏せ、力を示し、敵将モウリーニョからオファーを引き出す-。
強い意思をまとった言葉が、胸の奥からこぼれ出た。
2年前のこの時期には、同じ決勝トーナメント1回戦、アウェーでの第2戦でセビリア(スペイン)相手に驚異的なFKを決めチームを8強へと導いた。
その後のW杯南アフリカ大会での活躍など大舞台での強さには定評がある。
手負いの状態だが、いつも以上に危険なオーラをまとった本田が、レアル撃破を現実のものとする。日刊スポーツより転載
[2012年3月13日]


本田「自分もビッグクラブにふさわしい」
シンジだけでなく、オレもビッグクラブにふさわしい。
W杯アジア最終予選を戦っている日本代表MF本田圭佑(25=CSKAモスクワ)が、
マンチェスターUが公式ホームページで獲得合意したと発表した日本代表FW香川真司(23)についてライバル心をむき出しにした。
5日、埼玉県内での代表練習後「日本人として誇らしいが、ライバルとして自分もビッグクラブにふさわしい」と、存在価値を誇示した。
香川の移籍話が、本田の強いプライドをくすぐる。
3日後のヨルダン戦を控えた練習後、マンチェスターUが香川の獲得合意を発表したことについて聞かれると、まばたきもせず目を光らせる。
同僚の朗報を祝いながら、ライバル心をたぎらせた。
本田 まだ正式じゃないと聞いてるが(香川)シンジは世界のトップクラブでプレーするにふさわしい選手。
日本人として誇らしいが、ライバルとして自分もビッグクラブにふさわしい選手だと思うし、シンジをいい形でしっかりと後ろからサポートしていければと思う。
1歩も引かない。むしろ自分の存在を誇示した。
本田にとっても強豪チームへの移籍話は、ひとごとではない。
今年1月にセリエAの強豪ラツィオへの移籍が成立目前まで行ったが破談。
移籍金は1600万ユーロ(当時約16億円)といわれた。
マンチェスターUと肩を並べる強豪Rマドリードでプレーすることを目標として公言してきた。
3月の欧州CL・Rマドリード戦(アウェー)はケガのためベンチ外となったものの、モスクワへの帰路で「将来の自分のチームを拝見できた」とまで言っている。
代表でともにプレーする香川がマンUに行く現実は、力を認め合う本田にとって当然であり、必然であるに違いない。
ヨルダン戦へ、気持ちは切り替わっている。
本田(ヨルダンは)しっかりチームとして守備が組織されている印象がある。
読みにくい攻撃をすることが大事になる。
バリエーション、人数をかけた攻撃がしっかりできるか。
この間(オマーン戦)より質を上げていかないと。
世界に本田の価値を知らしめる最終予選でもある。日刊スポーツより転載 
[2012年6月6日]

本田激白!モヒカンの理由、移籍の真相
「26歳の今、ラツィオには行くつもりはない」-。
日本代表のMF本田圭佑(26=CSKAモスクワ)が、自身の未来図を語った。
親善試合ベネズエラ戦から一夜明けた16日、札幌から成田空港を経由してロシアに戻った。
ビッグクラブ移籍をもくろむ日本のエースは、日刊スポーツの取材に独占激白。
移籍を含む将来設計に加え、「金&黒」の新しいヘアスタイルにした意味など、等身大の姿を包み隠さずに明かした。
歩む道に、迷いはない。札幌でのベネズエラ戦から一夜明け、ロシアへと戻る直前だった。
本田が「未来」を熱く語った。欧州の夏の移籍市場は、2週間後の31日に閉まる。
ビッグクラブ移籍への思い、そして現状を強い口調で明かした。
「移籍については、現時点で何も言えない。けれど俺の未来図を考えた時、20歳の時に描いていた将来と、
26歳になった今の俺が描く将来は違ってくるんです。
最終的なゴールに一切、ブレはないけれどね。
1つ言えることは、今の俺はラツィオから話があったとしても、もう行くつもりはないということです」
今年1月にセリエAの名門ラツィオから獲得オファーを受けた。
移籍は秒読みだったが、冬の市場が閉まる1月31日までクラブ間交渉がもつれ、破談になった。
ラツィオ側は、今夏に再獲得に乗り出すことを表明。だが、半年間で本田の気持ちに変化が生じた。
「あの時、ラツィオは欧州チャンピオンズリーグに出る可能性があった。
でも今は、それがない。半年前の俺は25歳、今の俺は26歳。半年たてば当然、いろんなものが変わってくる」
オランダのVVVフェンロから、CSKAモスクワに移籍したのが10年W杯南アフリカ大会が開幕する半年前。
あれから2年半の月日が流れ、23歳だった本田は26歳になった。
「Rマドリードでプレーして、W杯で優勝する」。
それが終着駅なら、選手としてのピークが近づきつつある年齢となった今、人生設計は当初の思惑よりはるかに遅れているようにも見える。
「最初は2年前のW杯で活躍して、半年でロシアを出るつもりだった。
それが2年以上もロシアにいるんやからね。例えばマラソン30キロ地点を走っていて、最初に考えていたペースよりも2キロも差があるとする。
遅れているなら、違う道を探して走るかもしれへん。俺は道具を使っても、車に乗ってでも『ゴール』にたどり着く。
ペースが遅いならもっと速く走る。そういう意味でも26歳の俺は、ラツィオに行くことはない」
その言葉の裏側には「もっと超一流のクラブに行く」という決意がにじみ出ている。
思い描く未来へのペースを速めるためには、立ち止まっている時間も、寄り道する時間もない。
そこまで話した時、札幌から成田へ向かう飛行機は、福島の上空に差し掛かった。
雲の下に東日本大震災の被災地がある。
本田はトレードマークになっていた金髪から、側頭部を黒、頭頂部を金にした新しいヘアスタイルに変えた理由を「話すつもりはない」と言った。
だが、ふとした拍子に言葉が熱を帯びてきた。
「俺の髪形を(ブラジル代表)ネイマールだとか伝えているメディアもいたらしいけれど、そんな浅はかな考えで(髪形を)変えるはずがない。
日本の政治家もそうやし、メディアもそうやけど、俺は本物でないものを一切、信用しない。
日本には、いろんな問題が起きている。東電の(原発)問題、韓国との関係…。決して明るくはない日本に、常に何かメッセージを伝えたい。
俺は節目、節目にファンにプレゼントを送っている。(髪形変更は)その1つということです」
ストイックなまでのサッカーへの情熱、そして髪形やファッションも含めた振る舞い。
自分が注目されることで、暗い話題ばかりの日本を少しでも変えたい。
子供たちへ、ファンへ、本田流のメッセージだった。
「自分を曲げてまで生きていくくらいなら、たとえサッカー選手という今の自分を失ってもいい。金も名誉も捨てて、一からサラリーマンとして働くことだってできる」
本田はスエードの靴を脱いで素足になった。足の指や膝…。そこに無数の傷痕がある。戦う男の勲章だ。
今合宿中は、かたくなに口を開こうとしなかった。
それでも、移籍へのこだわり、生き方へのこだわり。
本田の胸には、強い信念が刻まれていた。日刊スポーツより転載
[2012年8月17日]

リバプールが本田獲得準備か 英紙報じる
プレミアリーグのリバプールが来年1月に日本代表MF本田圭佑(CSKAモスクワ)を獲得する準備を進めていると6日付の英紙「デーリー・スター」(電子版)が報じた。
移籍金は1200万ポンド(約16億円)という。
同紙によれば、ロジャーズ監督が高く評価している。日刊スポーツより転載
「2012年12月6日]


本田獲得リバプールに続きインテルも興味
日本代表MF本田圭佑(26=CSKAモスクワ)の去就が一気に騒がしくなってきた。
6日付のロシア有力紙イズベスチヤ(電子版)が、日本代表DF長友が在籍するセリエAのインテルミラノが本田獲得に興味を示していると報じた。
ただ、本田の代理人として、現在は関係のない人物のコメントを掲載するなど情報が錯綜(さくそう)しているような記述もある。
来年1月の欧州冬の移籍期間を前に本田の周囲は過熱。
6日には英タブロイド紙デーリー・スターがプレミアリーグの名門リバプールが獲得に乗り出すと報じたばかり。
移籍金も1200万ポンド(約16億円)と具体的な数字を挙げた。
本田とCSKAとの契約はあと1年残っている。日刊スポーツより転載
[2012年12月8日]


本田”最悪”あと1年CSKAの可能性
内に秘めた焦りを隠すように、真っ赤なコートに身を包んだ日本代表MF本田圭佑(26=CSKAモスクワ)が帰国した。
ロシアリーグが冬季中断のため15日、航空機で成田空港に到着。移籍市場が開かれる夏と冬、恒例の移籍騒動がこの冬も飛び交っている。
英プレミアリーグのリバプールや、同代表DF長友のいるセリエAインテルミラノ。
「(移籍したいと)オレは毎半年言っている。焦りも毎回『ある』と言い続けてきた」と、心中が口をついて出た。
ビッグクラブへのステップアップを願う一方で、多額の移籍金が足かせとなり、ロシアでのプレーが3年続いている。
地元メディアには来夏までの残留合意も報じられ「現時点ではCSKAモスクワの選手であることは間違いないし、
契約があと1年あるってことは最悪1年残るっていう可能性はある」と、残留という“最悪”の事態も想定。
「常に考えへんようにはしているけど、こうまで(ロシアに)いるとね…」。思い描いた理想と現実の間にいる。
 契約満了で移籍金がかからない来年冬まで待つ選択肢もある。しかし来年本田は27歳。早いことに越したことはない。
「もっと大きくしたかったという後悔はありますね」と12年を総括。
23日の福岡・宗像市でのサッカー教室で締めくくり「(来年は)もっと高みを目指して頑張ります」と新年を迎える。日刊スポーツより転載
[2012年12月16日]


リバプール監督「買い物」に悩む
プレミアリーグ12位に低迷するリバプールのブレンダン・ロジャーズ監督(39)が、来年1月の移籍期間での選手獲得見通しについて話した。
インディペンデント紙によると、ロジャーズ監督は「新たに選手を連れてこようと考えているが、価格が手ごろかにもよる。
うわさになっている選手たちを見ると“本当に買えるのか?”と思ってしまう」と話したという。
地元メディアなどではCSKAモスクワの日本代表MF本田圭佑に、興味を持っているとされている。日刊スポーツより転載
[2012年12月19日]


「本田がミランへ移籍」イタリアで報道
イタリアの情報などを伝えるサイト「カルチョメルカート」はCSKAモスクワMF本田圭佑(26)について、
「ここ数日でACミランから7月移籍のための照会を受けた」と報じた。
ミランは欧州圏外選手枠の問題で、1月に獲得することはできないとしている。
同時に本田はCSKAから2年の契約延長のオファーを受けているなどと伝えている。日刊スポーツより転載
[2013年1月11日]


CSKA監督が本田移籍を否定
日本代表MF本田圭佑(26)が所属するCSKAモスクワ(ロシア)のスルツキ監督は30日、
合宿先のスペインのカンポアモールで「本田はここでプレーする。
1年前の状況と同じで変化はない」と話し、今冬の移籍の可能性を否定した。
同監督は「本田は2月の合宿で、また戻ってプレーする」とも言い、2月6日に行われる日本代表のラトビア戦後に、
スペインでの2次合宿に再合流する見通しを示した。日刊スポーツより転載
[2013年1月31日]


本田圭佑の移籍話がいつも噂で終わってしまうワケ
年に2回、夏と冬にオープンするヨーロッパの移籍マーケットで、毎回各メディアで移籍の噂が報じられるCSKAモスクワ(ロシア)の本田圭佑。
本人も移籍を熱望し続けているが、結局この冬のマーケットでもそれは実現せずに、1月31日の移籍期限を過ぎてしまった。
この冬に噂された移籍先としては、イングランドの名門リバプール、長友佑都がプレイするイタリアのインテル、
そのライバルのミラン、トルコのフェネルバフチェなどの名前が挙がっていた。しかし、いずれもメディア報道の域を出ず、正式なオファーを出したクラブはなかったと見られている。
なぜ、本田の移籍はいつも実現しないのか?
多くの人がこのような疑問を持つかもしれないが、そこには本田移籍の”障害”とも言うべきいくつかの理由が存在している。
まず最大のネックとなっているのが、CSKAモスクワが設定する15~16億円(金額は推定。以下同)と言われる高額な移籍金(違約金)にある。
そもそも、CSKAモスクワが2009-2010シーズンの冬のマーケットでVVVフェンロ(オランダ)から本田を獲得した際の移籍金は、約12億円とされている。
CSKAモスクワとすれば、チームの主力である本田を、その金額以下で手放すことはありえない。
その一方で、現在ヨーロッパサッカー界は不況の真っ只中にあるため、冬のマーケットでひとりの獲得に10億円以上もの大金を使えるクラブは、ほんのひと握りしか存在しないという現実もある。
確かに、この冬最大の大型移籍となったイタリア代表FWのバロテッリ(マンチェスター・シティ→ミラン)については、約25億円(ボーナスも含めると約30億円)もの大金が動いた。
だがそれは、例外中の例外。金銭が発生するほとんどの移籍は多くて数億円単位というのが関の山で、やはり本田獲得に16億円もの大金を積めるのは、一部のビッグクラブに限定されてしまう。
もっとも、本田にバロテッリと同じレベルの市場価値があれば話は別だが、さすがにそこまでの域には達していないのも事実。
日本人で唯一ドイツS級ライセンスを持ち、ブンデスリーガに詳しいサッカー解説者の鈴木良平氏はこう語る。
「例えば、一選手の獲得に16億円もの大金を使えるクラブは、ドイツではバイエルン・ミュンヘンしか存在しない。
バイエルンは昨年の夏にスペイン代表のMFハビ・マルチネスをアスレチック・ビルバオから約40億円で獲得したが、
それはどうしても必要な選手と考えて、そこに資金を集中投下したから実現した。本田もクラブから絶対に必要とされ、そこまでの価値を認められれば、移籍は可能かもしれない。
しかし、今のバイエルンのメンバーを見ると、それは現実的な話ではない。
イングランドやスペイン、イタリアなど、主要国のビッグクラブにおいても、それは同様だと思う」
そうした状況にあっても、一度は本田獲得に本腰を入れたクラブがあった。
それは、ちょうど1年前の冬のマーケットだった。
イタリアのラツィオがCSKAモスクワに対して、約11億円プラス出来高約4億円(その後、約12億円プラス出来高約3億円のオファーに上方修正)の計15億円とされる正式オファーを出した。
決してお金持ちクラブとは言えないラツィオだが、本田はどうしても必要な人材だったのだ。
ところが、その移籍話は結局破談に終わった。金額的にはクリアしていたものの、ラツィオ側が3年間に渡る分割払いを条件としたことがネックとなったと言われる。
CSKAモスクワは、ラツィオが分割払いを実行するかどうかに疑問を持ち、リスクの高い取引を避けたのだ。
背景には、近年スペインやイタリアを中心に、世界中で発生している移籍金の未払い問題がある。
つい最近でも、CSKAモスクワからフラメンゴ(ブラジル)へのレンタル移籍を経て、昨年1月にはフラメンゴへ完全移籍を果たしたFWヴァグネル・ラブが、
再びCSKAモスクワに戻されるという“悲劇”が発生している。
理由は、フラメンゴが移籍金約12億円の分割払いという当時の契約を反故にし、半額以上の支払いを滞納していたからだという。
この事件の当事者でもあるCSKAモスクワは、同じ昨年の冬のマーケットで「本田をラツィオに売らないで良かった」と、今頃胸を撫で下ろしているかもしれない。
何にせよ、資源バブルで潤っているロシア経済の影響もあり、今やロシアのクラブは経済的に余裕がある。
とりわけ、ロシアのビッグクラブであるCSKAモスクワはお金に困っていない。
ベンチを温めている選手ならいざ知らず、多少高額年俸であってもレギュラーメンバーを積極的に売り出す必要性などまったくないのだ。
こうしてみると、移籍を望む本田としては、まさに八方塞がりといった状況にあるが、希望の光はまだ残されているという。
ポイントは、本田とCSKAモスクワの契約が2013年12月まで、というところにあるようだ。
前述の鈴木氏は、本田の移籍の可能性について、「今年の夏がラストチャンス。移籍を希望する本田がCSKAモスクワとの契約を延長するとは考えにくく、
逆にCSKAモスクワは本田をタダで放出したくはない。
そうなると、CSKAモスクワにとってもこの夏が本田を売る最後のチャンスとなるかもしれないので、ある程度条件が下がる可能性は十分考えられる」と読む。
どうやら、本田が日本代表の一員としてコンフェデレーションズカップに挑んでいる6月、彼の移籍話は再燃しそうだ。
各メディアでは、かつてないほどの騒ぎになるだろう。集英社HPより転載
[2013年2月2日]

W杯優勝「俺は本気」/本田インタビュー1
日本代表のFW本田圭佑(26=CSKAモスクワ)が、日刊スポーツのインタビューに応じた。
目標にする14年W杯ブラジル大会まで、残り488日。
どうやって世界の頂点に上りつめるのか-。今、何を考えているのか-。
日本のエースの真相に迫った。
13年の初ゴールを挙げた親善試合ラトビア戦(6日)を終え、本田は8日、関西空港発の航空機で欧州へ戻った。
W杯で優勝する-。本田がそう公言したのは2年半以上も前のことだ。
有言実行とはいかなかったが、10年W杯南アフリカ大会で日本は16強進出。確かに世界を驚かせた。
そして次のW杯まで500日を切った今、何を考え、残り1年半でどう進化しようとしているのか? 
1月中旬。国内で自主トレ中の本田に、胸に秘めた思いを聞いた。
「いつも言っているけれど、現状に満足なんかしていない。満足なんかしていたら前には進めへんし、俺はあえて厳しめの評価を自分にしているところがある。
去年(10月)のブラジル戦だって、満足はしてない。でもいいねん。0-4で負けたことが、いいねん」
そこに、本田独特の考え方がある。
「『1点も取っていないでしょ…』。そう言う人もいる。でも、俺にとってはポジティブなんです。ここに第1思考がある。
『1点も取れてないやん。こんだけ(ブラジルとの差は)遠いやん』。次に第2思考がある。『そんだけ負けたやん…。1点も取れてないやん…。だから次は…』。
人はだいたい第1思考しかできない。これ、凡人やねん。一流は第2思考をする。投資家もこれで勝つんよ」
昨年10月の欧州遠征では、フランスに歴史的勝利を飾った一方で、本田が出場したブラジル戦は0-4の大敗だった。
その試合後、本田はあえて前向きな発言をしている。そこに違和感があった。
だが、本田の思考法はこうだ。大敗を悲観的にとらえ、W杯までの1年半でブラジルとの差を埋めるのは難しい-。
そう考えるのではなく、負けたことでその差を埋めるために、ひたすらに自分を追い込む-。
それは、転んでも、次に成功するためにはい上がってきた男の姿だろう。
それでは、本当にW杯までにブラジルに勝てるのか? 日本は世界一になれるのか? 本田圭佑を信じていいのか? 
あえて厳しい質問を投げかけると、言葉は熱を帯びてきた。
「俺、本気やから。ほっといて欲しいんよね。W杯まで俺のことは忘れてくれてもいいくらい。
聞かれるから、答えるけど。見ておけ、としか言えない。無理だと言っているヤツは、どうせ俺に見返されると思う。
覆されるんや、と。俺はそんなん(批判的発想)に惑わされへんしね」そして、こう続けた。
「確かに今まで、できなかったことも多いよ。それは、認める。でも今まで、俺ができたことだってある。
だから、そこ(達成したところ)をW杯に持って行く。そういう思いしかない。
無理って言うてる人は、そっち(達成できなかったところ)を言うてるんやろ。
でも有言実行したことだって、あるんやから」
信念がぶれることは一切ない。10年W杯の直前。
公の場で「W杯で優勝する」と語った時、誰も信じる者はいなかった。
それが2年半がたった今、選手もサポーターも、多くの人たちが本田に触発されるようになった。
もしかしたら、14年W杯で…。世界一は無理でも、うまくいけば4強くらいには入れるのではないか。
そんな雰囲気すら漂いつつある。本田はいつも強気だ。先頭に立って、日本を引っ張っていく。
そんな思いが、言葉の端々に込められている。日刊スポーツより転載
[2013年2月9日]

信じるなと言わせるな/本田インタビュー2
本田にはいつも、移籍のうわさが飛び交う。
1月31日には、欧州の移籍市場が閉まった。
今後、どういう道を歩むのか。
「興味を持ってくれているクラブは複数ある。
だけど、俺が今、言えることは何もない。移籍が実現するか、どうかは(クラブ間も含めた)いろんな思惑もあるからね。
今後、実現するか、どうかは俺の知ったことじゃないよね」
この冬も、さまざまな移籍報道が流れた。自らが知らないところで、あたかも移籍が成立するかのような記事が続出する。
そこに拭い切れない違和感がある。
「これだけは言いたい。間違った(移籍)記事を書いて、ビジネスをしているメディアがたくさんある。
俺は、そういうことを覚えているからね。ふざけた移籍の記事が出る度に、俺はいろいろ聞かれる。
周り(の知人)は気にしているから。移籍するの? 移籍するらしいな? って。
俺は、そういう記事を信じるな。毎回、そう周りに言っている。でも信じるな、と言うことが、ネガティブなことでしょ。
俺にそんなことを言わさないでほしい」
移籍だけではない。直撃取材を受け、真実を語ろうとしても、違った論調や口調で掲載されてしまうことが多くある。
昨年末には、月刊誌に1人称で政治観が掲載された。
「俺が言ったことと、内容が変わっている。全然違うんよね。
俺はリスクを背負って話をしているのに、しかも、俺のコメントで、あんな風に出てしまうことがある。
しゃべり口調も違うしね。俺がこだわって話をしても、そういうこと(間違った報道)になる。それに俺は納得がいかない」
今月4日から始まった代表合宿中、本田は報道陣に口を開いていない。
ラトビア戦後(6日)も取材エリアで立ち止まることなく「お疲れさま」とだけ言い残して、スタジアムを去った。
この日の空港でも、ほとんどコメントすることはなかった。
本田の言葉は貴重だが、本心から外れた報道が続くことで、極端に言葉数は少なくなっている。
「試合が終わった後に、みんな俺に話を聞いてくるでしょ。でも俺が、名前すら知らん人もいるのは事実なんよね。
普通、仕事でもそうでしょ。名前も知らん人と、ビジネスをしているんですか? そんなこと、ないやろ !  
それで、変な記事が出るからね。そんなん、おかしいやろ」
W杯への変わらぬ思い-。そして、自らが発する言葉を巡り、真相とは違う形で報道されることへの不信感。
それらはメディア側へ、突きつけられた大きな課題でもある。
我々は、今後も本田圭佑の真の姿を描き続ける。日刊スポーツより転載
[2013年2月9日16時53分]

本田のリバプール入りに強力援軍!用具提供ウォーリアー社幹部が後押し
サッカー日本代表FW本田圭佑(26)=CSKAモスクワ=の
イングランド・プレミアリーグ、リバプール入りが前進する可能性が28日、浮上した。
リバプールと用具提供契約を結んでいる米・ウォーリアー社の幹部、ベン・ハワース氏が、
都内で「ロシア、モスクワにいる日本代表選手に興味がある。
1カ月前と2週間前に私はロシアに行った」と語り、実名こそ出さなかったが本田側と接触したことを認めた。
ウォーリアー社と本田が個人契約を結んだ場合、「その段階が来たらリバプールに話をすることもできる」と移籍を後押しすることも示唆。
「リバプールを含めて4つのクラブが興味を持っている」と本田への注目度が高いことも明かした。デイリースポーツより転載
[2013年3月2日]


本田移籍障害なし 今夏欧州に移籍か
日本代表MF本田圭佑(26)の去就について、
ロシア紙「スポルト・エクスプレス」(電子版)が2月28日、
所属するCSKAモスクワの強化責任者ロマン・ババエフ氏のインタビューを掲載した。
同氏は契約をあと1年残す本田がこの夏の移籍市場でチームを離れる可能性に言及。
「ヨーロッパのクラブはホンダに興味を持っている。私たちは理解をもって選手の希望に対応するし妨害などしない。
つまり、この夏にホンダが私たちのチームを離れる可能性は十分にあり得るということだ」と話している。
本田は一昨年夏に手術した右膝の定期検診に加え、足のトラブルも抱えているとみられスペインでのチーム合宿に参加していない。
現在は手術を受けた病院のある同国バルセロナに滞在している。日刊スポーツより転載
[2013年3月2日]





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ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio, 1967年2月18日 - )(バッジオ、バッジォと表記することもある)は、
イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。
1993年欧州年間最優秀選手、FIFA最優秀選手。03-04シーズンで現役引退。セリエA通算205ゴールは歴代5位。
キャリア318ゴールはイタリア人№3である。使用スパイクはデビューから引退までディアドラ。
1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用。
「イタリアの至宝」、「偉大なるポニーテール」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。
ファンタジスタの象徴的な存在として知られ、華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらがその系譜となる。
今ほど衛星放送(CS・BS)が普及していなかった頃からすでに彼の名は日本などでも知られていた。また、弟のエディ・バッジョもサッカー選手である。
趣味はハンティング。通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。
2002年に国連食糧農業機関 (FAO) の親善大使に就任。世界の貧困や飢餓撲滅のための慈善活動に取り組む。
病院への寄付、ハイチ地震への寄付、アウンサンスーチー解放への協力などの功績が認められた。
2010年11月14日、ノーベル平和賞受賞者世界サミットの事務局から「平和サミット賞」を授与された。
キャリアを通じてイタリア国内リーグで活躍。1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビュー。
1984-85シーズンに12得点を記録。1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。
ところが契約成立からわずか2日後、右膝十字靭帯断裂の大怪我を負う。それでもフィオレンティーナは契約を破棄せずに辛抱強く回復を待った。
移籍直後の1985-86シーズンを欠場、1986-87シーズンも数試合の出場だけにとどまってしまう。
だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点をあげ、ヴィオラはUEFAカップ出場。1989-1990シーズンには17得点の活躍。
マラドーナ率いるナポリ相手にも、ドリブルで独走してゴールを決めた。
1990年、当時史上最高額の150億リラという移籍金でユヴェントスに鳴り物入りで移籍。
ユヴェントス移籍がヴィオラのオーナーによる一存で、フレンツェでは暴動が起こっている。
バッジョ自身も望まぬ移籍だったため困惑していた。
1992-93シーズンに21得点を挙げ、チームをUEFAカップ優勝に導いた。
これはユヴェントスにとっては久々のヨーロッパタイトルだった。
この功績・貢献が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを受賞。
その後、自身の怪我と若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭するなか、若返りを推し進めるユベントスは、
1995年ライバルチームであるACミランへ放出してしまう。
ACミランではファビオ・カペッロ及びアリゴ・サッキ監督がFWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用、
さらにバッジョ本人の怪我もあり、在籍2シーズン中は、さしたる活躍はできなかった。
特にサッキはバッジョからPKキッカーを取り上げるばかりか、完全にピッチから彼を追い出した。
しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに移籍すると、自己最多の22得点をマーク。
このためワールドカップ予選では呼ばれなかったが、本大会メンバーに招集された。
1998年から、インテルで2シーズン過ごす。移籍初年度の1998-99シーズンはバッジョとロナウドが同時期に所属することとなる。
同年のUEFAチャンピオンズリーグのレアル・マドリード戦ではバッジョは2ゴールを挙げる活躍を果たす。
だが、ロナウドはキャリアを左右する膝の大怪我、バッジョも何度も負傷を起こし、結局この二人が組むことはほとんどなかった。
その後も、怪我ととりわけマルチェロ・リッピ監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。
このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のCL出場権プレーオフのパルマ戦であろう。
このシーズン、インテルはスクデット争いにさえも参加できない低調なシーズンであった。
そのため、クラブ首脳陣はCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。
そんな中で、この試合はまさにバッジョのためのゲームだった。
前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、この試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、
CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。
翌日のガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点は満点の "10" だった(通常、最高評価点である10が出ることは滅多になく、
引退する選手へのご褒美もしくはピッチ上で人命救助を行った選手に与えられる)。
2000年から、カルロ・マッツォーネ監督の下ブレシアで4シーズンを過ごす。
2001-02シーズンでは、2002年FIFAワールドカップ出場を目指すべく、シーズン前半にゴールを量産。
しかし、ワールドカップイヤーの2002年1月31日のコッパ・イタリア準決勝パルマ戦で彼は左膝十字靭帯に全治6ヶ月の怪我を負ってしまう。
誰もがワールドカップ出場が絶望と思われたが、彼は本大会出場を目指し驚異のリハビリで僅か2ヶ月で復帰。
4月21日のフィオレンティーナ戦でベンチ入りし後半25分にグアルディオラからキャプテンマークを腕に巻かれ途中出場する。
そこから2ゴールを挙げ奇跡の復活を果たした。特に1点目を決めた際にはブレシアの選手全員から胴上げされ、場内は大騒ぎになり一時試合が中断した。
だが、こうした彼の努力も報われず、当時のイタリア代表監督ジョバンニ・トラパットーニは本会メンバーに彼を選ばず、チームも本来の力を出せずにベスト16で姿を消した。
ちなみにこの年の前半でも靭帯を故障しており、コッパ・イタリアの試合が復帰2試合目だった。
2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦を最後に引退した。
この試合で83分にバッジョの途中交代が告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。
ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。
ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。
独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった。
監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあったとされる。
しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。
また、優れた人格者で、人をひき寄せる魅力があり、バッジョと共にプレーするために移籍する選手もいたほどである。
バッジョはW杯イタリア代表においての活躍が目立つ一方、欧州選手権にはキャリアを通じて縁がなかった。
1988年11月16日オランダ戦でイタリア代表デビュー。1989年4月22日ウルグアイ戦が初ゴール。
イタリアW杯、アメリカW杯、フランスW杯に出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。
ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーを務めている。
1990年イタリア大会1990年の地元開催では当初はスーパーサブ的存在であったが、
グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において、中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去ってゴールを決めた。
この得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。
バッジョ自身のサッカー人生にとっても間違いなくハイライトとなるゴールのひとつである。
しかし当時は、同じサブメンバーからついには大会得点王になった”救世主”サルヴァトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。
それだけ、スキラッチの活躍は眩いものであった。
順調に勝利を重ねて迎えた準決勝。相手はマラドーナ率いるアルゼンチンであった。
この試合、なぜかビチーニ監督はバッジョをスタメンから外し、変わって不調に陥っていたジャンルカ・ヴィアリを先発させる。
これについてヴィアッリは、「ハードな試合にはハードな男が必要なんだ」と発言している。
結局イタリアはアルゼンチンに1-1に追いつかれた後、PK戦で破れてしまい、バッジョを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。
フル出場した三位決定戦のイングランド戦ではピーター・シルトンの致命的なミスを突いて先制点を記録し、
さらには決勝点となるPKを誘い(彼はキッカーを大会得点王のかかったスキラッチに譲った)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。
1994年アメリカ大会 [編集]バッジョが出場した3大会で、最もその存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップであることは間違いない。
ヨーロッパ予選では、イタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍でチームを本大会出場に導く。
さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。
ところが本大会直前に右足のアキレス腱を痛めてしまう。一抹の不安を抱えたまま、ついに1994年ワールドカップを迎えた。
不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。
気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、特に無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、
地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。さらに屈辱的だったのは、
第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、
アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたことである。
このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる。
試合後にサッキは「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。
サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、チーム内は徐々にバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあるなど意識統一が明確となっていった。
決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でも先制を許し、反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になる。
しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。
同点弾は冷静にゴール右隅を狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。
その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。
準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。
決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。
しかし、準決勝で右足のふくらはぎを痛め、決勝への出場が危ぶまれた。
決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであった。
灼熱のようなむせ返るほど高い気温の中、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。
ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、彼はゴール左上にはるか高く打ち上げてしまう。これによってイタリアは優勝を逃した。
このPKには大きく分けて3つの見解がある。ブラジル、イタリア国内(世論)、そしてバッジョのものである。第1にブラジルでは、
バッジョのシュートは空高く吸い込まれていったことから、同じ年に悲劇の死を遂げた同国のアイドル、「アイルトン・セナの手だ」というもの。
第2にイタリアでは、「筋肉疲労と極度の緊張、暑さからだ」というもの。そして最後にバッジョの見解であるが、
「仏陀からの究極の問いかけである」というものである。
ちなみに、バッジョは未だ答えを見つけることはできておらず、さらにはあの出来事をまだ夢で見ることも幾度となくあるという。
このとき、腰に手をあててうなだれるバッジョの後姿が撮影された。
この一枚は、これまでの数多あるスポーツに関する写真の中でも最も美しく、最も儚い写真であると評する声が多い。
大会MVPこそロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ。
しかし、イタリアを決勝まで導いた原動力であるにもかかわらず、PK失敗をとりあげてバッジョを標的とした批判もなされた。
後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。
1998年フランス大会ではデル・ピエロに10番を譲ったが、新たなエースとして期待されたデル・ピエロに代わり、
大会で活躍したのはまたしてもバッジョだった。大会を通じて2得点1アシストをマークした。
まず初戦チリ戦で先発出場。最初からチリが押し気味に試合を進め、イタリアが守ってカウンターを狙うゲームとなった。
10分、まさにそのカウンターが見事に決まった。マルディーニからのゆうに50m以上あろう距離のロングボールをバッジョが完璧なコントロールで
ダイレクトでスルーパスを走りこんだビエリに通しアシストを記録、これはまさにバッジョのうまさが光った場面である。
その後追いつかれるが、バッジョ自らPK誘い、4年前の因縁のPKを決めてトラウマを払拭。
この時、彼の頭にアメリカでの出来事が蘇ってきたとのこと。
準々決勝のフランス戦では途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。
難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくもボールはクロスバーを越えていった。
結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアジョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。
1999年以降は代表からは遠ざかる。現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。
尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。Wikipediaより



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ローター・マテウス(Lothar Matthäus, 1961年3月21日 - )は、ドイツの元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。
ドイツ代表として歴代最多の150試合出場、5度のワールドカップ出場、ワールドカップ最多出場記録(25試合)を達成する等、
20年間に渡り第一線で現役を続けた、1980年代から1990年代のドイツを代表する選手である。
1990年の1990 FIFAワールドカップにおいて主将としてドイツを3度目の優勝に導き、
同年に欧州年間最優秀選手、1991年にはFIFA最優秀選手賞を受賞するなどの評価を得た。
また引退後の2004年にはペレが選ぶ『偉大なサッカー選手100人』(FIFA100)にも選ばれている。
若い頃はその強靭な肉体と豊富な運動量を生かした守備的MFであったが、
20代中盤頃からは、守備能力だけでなくミドルレンジからの強烈なシュートやパスセンスを武器に攻撃的MFを担当。
選手キャリアの後半にはリベロとしてプレーし、最後尾からチームを統率した。
ピッチ上では強烈なリーダーシップを発揮する一方で気性の激しい人物としても知られ、
若い頃からチームメイトや監督とのトラブルが絶えなかった。マテウスは1961年3月21日にエアランゲンで生まれた。
地元のFCヘルツォーゲンアウラハでサッカーを学ぶ一方で、ギムナジウムで教育を受け、インテリアデコレーターの見習いを務めていた。
1979年、18歳の時にブンデスリーガ1部のボルシアMGと契約し選手キャリアをスタートさせるが、
若い頃は気性の激しい性格からチームメイトや審判とトラブルを起こすことも多く、素行に問題のある選手と考えられていたという。
ボルシアMG時代はタイトルとは縁がなく、1983-84シーズンのDFBポカールでは準優勝に貢献したが、
決勝のバイエルン・ミュンヘン戦でPKを失敗しタイトル獲得を逃している。
1984年にバイエルン・ミュンヘンへ120万ドルの金額で移籍。
バイエルンではアンドレアス・ブレーメやクラウス・アウゲンターラーらと共にブンデスリーガ優勝3回(1985年、1986年、1987年)、
DFBポカール優勝1回、UEFAチャンピオンズカップ準優勝1回に貢献した。
1988年にブレーメと共にイタリアのインテル・ミラノへ440万ドルの金額で移籍。
この金額はカール=ハインツ・ルンメニゲ、ルディ・フェラーに次ぐ西ドイツ選手の高額での移籍であった。
インテルではジョバンニ・トラパットーニ監督の下でセンターハーフとしての才能に開花。
守備だけでなくパスセンスや得点能力にも磨きをかけ、プレーの幅、安定感を伸ばし、
強烈なキャプテンシーでクラブを8年ぶりのスクデット獲得に導いた。
1992年にインテルを退団し古巣のバイエルン・ミュンヘンへ復帰。
シーズン序盤は怪我の治療のため出遅れたが、第13節のバイエル・レバークーゼン戦において
ペナルティエリア外からコーナーキックのボールをダイレクトボレーでゴールに叩き込み復活をアピールした。
その後にリベロへコンバート。スピードや運動量は衰えたものの、最終ラインからの正確なフィードでマテウス・スタイルとも呼べるプレーを確立した。
1995年にアキレス腱断裂に見舞われ長期離脱するなど怪我に苦しんだ時期もあったが、バイエルンの顔として、
ブンデスリーガ優勝3回(1994年、1997年、1999年)、UEFAカップ優勝1回などに貢献した。
現役時代は数々のタイトルを手にしてきたが、UEFAチャンピオンズリーグのタイトルだけには縁が無く、
1986-87シーズンにはFCポルト、1998-99シーズンにはマンチェスター・ユナイテッドの前に決勝で涙を飲んだ。
2000年からはアメリカ合衆国のニューヨーク・ニュージャージー・メトロスターズへ移籍し、翌2001年に現役を引退した。
1994 FIFAワールドカップ準々決勝のブルガリア戦でPKを放つマテウスドイツ代表としては、1980年4月26日のオランダ戦で代表デビューを飾ると
同年6月のUEFA欧州選手権1980、1982年の1982 FIFAワールドカップ代表に選出された。
デビュー当初は交代出場が多くスタメン出場は成らなかったが、スペイン大会後の1984年に開催されたUEFA欧州選手権1984では
レギュラーの座を掴み、これ以降は代表の中心選手として定着した。
1986年のワールドカップ・メキシコ大会では、決勝トーナメント1回戦のモロッコ戦にて延長戦終了間際に与えられたフリーキックから弾道の低いロングシュートを決め
1-0の勝利に導く活躍などで2大会連続の決勝進出に貢献。
決勝のアルゼンチン戦では、相手エースのディエゴ・マラドーナのマンマークを担当、この試合においてマラドーナを封じる事には成功したが、
試合そのものには敗れ去り、2大会連続準優勝に終わった。
ワールドカップ終了後にルンメニゲやフェリックス・マガトといったベテラン選手が代表から退くなど世代交代の時期を迎えると、
フランツ・ベッケンバウアー監督の下で主将としてエースとして代表チームを牽引するようになった。
1988年のUEFA欧州選手権1988では、地元開催ということもあって準決勝進出を果たすが、この大会を制するオランダに1-2で敗退。
なお、それまでマテウスは背番号8を付けることが多かったが、この大会後に所属クラブのインテルと同様に背番号10を付けるようになった。
1990年のワールドカップ・イタリア大会では、1次リーグ初戦のユーゴスラビア戦で強烈なミドルシュートで2得点を挙げ、守備面においても相手エースのドラガン・ストイコヴィッチを封じ込め4-1と大勝。
決勝トーナメント1回戦では優勝候補の一角のオランダを2-1で退け、初戦の2得点を含む4得点をあげる活躍で決勝進出に貢献。決勝戦ではアルゼンチンに対し前回大会の雪辱を果たし、
1974年大会以来となる3度目の優勝を果たした。マテウスは当時を振り返り次のように語っている。
ドイツ代表での活躍もあり、1990年には欧州年間最優秀選手とドイツ年間最優秀選手賞、ワールドサッカー誌選定世界最優秀選手賞を受賞、
1991年にはFIFA最優秀選手賞を受賞するなど絶頂期にあったが、1992年4月に前十字靭帯を負傷しUEFA欧州選手権1992は不参加となった。
1994年のワールドカップ・アメリカ大会に出場。前回の優勝メンバーに東ドイツ出身の選手やシュテファン・エッフェンベルクらが加わり戦力は整ってはいたが、
直前の親善試合の結果は芳しくなかった。
マテウス自身は1992年に負傷した膝の状態が思わしくなく、動きに精彩を欠いていた。
優勝候補の一角と目されたものの、準々決勝でダークホースのブルガリアに1-2で敗れた。
ドイツ代表の主将として長きに渡って代表を支えていたマテウスであったが、アメリカ大会後はユルゲン・クリンスマンとの確執(後述)などもあって
ベルティ・フォクツ監督の構想外となり代表への招集は見送られ、1996年のUEFA欧州選手権1996は不参加となった。
1998年のワールドカップ・フランス大会ではリベロのマティアス・ザマーが負傷したこともあり代表に復帰を果すとベスト8進出に貢献。
2000年のUEFA欧州選手権2000でもプレーをするなど、ドイツ代表としては歴代最多となる国際Aマッチ150試合出場、
5度のワールドカップ出場、ワールドカップ最多出場記録(25試合)を達成する金字塔を打ち立てた。
同じようなポジションの変遷を辿っている皇帝ベッケンバウアーや、同世代のマラドーナらの偉人達と比較される事もあるが、
タイトル獲得の実績に遜色はない。天才と呼ばれ華やかな活躍をした彼らとは対照的に、こつこつと実力を伸ばしていった後に栄光を勝ち取った秀才型の選手と言える。
また、運動量や体力を前面に出したサッカーが主流となった現代においてMF・DFのほぼ全てのポジションをこなし、
高いレベルでプレーが出来る最高のユーティリティー・プレーヤーとの評価もある。
精神面の評価が先立つ傾向があるがドリブル、正確なフィード、チャンスメイクといった技術面でも一流の能力を持ち合わせており、多芸多才な選手であった。
2001年にはドイツ代表の名誉主将に選ばれたマテウスだが、現役時代の素行の悪さのためドイツ国内のクラブから監督就任のオファーを受けたことがない。
マテウスは2009年11月にフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙のインタビューに応じ、「私はフランツ・ベッケンバウアーに次いで有名なドイツのサッカー選手なんだ。
それをぞんざいに扱うなんて恥じるべきだ」「ドイツのクラブには私を信用して欲しい。優劣はその上で判断してほしい」と不満を表明した。
ユルゲン・クリンスマンとは犬猿の仲とされている。1996年の欧州選手権直前にマテウスは「クリンスマンが自分を代表チームから追放しようと画策している」と主張し自ら大会出場を辞退。
その後も所属クラブのバイエルンでもチームメイトだったクリンスマンへの口撃は続いたが、これに対しクリンスマンは「我々は異なる人間だが、彼のことを悪くは思わない。むしろ尊敬している」と平静を保っていた。
やがてマテウスは暴露本を出版したことで、バイエルンからの追放の危機を迎えたが、副会長のベッケンバウアーの仲介により主将の地位を剥奪されるだけに終わり、
この一件以降はマテウスの口撃は沈静化していったという。
ピエール・リトバルスキーは、自伝の中で90年W杯の時のチームメイトとの写真を使用した際に金銭を要求されたと記述している。
私生活では4度の結婚歴があり3人の子供がいる。1人目の妻のシルヴィアとは1982年に結婚、リーサとヴィオラという二人の娘を授かったが1992年に離婚。
1994年、スイス出身のモデル、テレビ司会者のロリータ・モレナと結婚し息子のロリスを授かったが1999年に離婚。
2003年11月27日、セルビア人のマリアナ・コスティッチと結婚したが2007年末に離婚。
2008年12月、21歳のウクライナ人モデルのクリスティナ・リリアナと結婚。挙式はラスベガスで行われた。
しかし、2011年に離婚が確定している。
1992年当時、Jリーグのガンバ大阪入団の噂が報じられたことがある。
これはマテウスが松下電器の関連会社のCMに出演していた縁によるもので、G大阪側から積極的なオファーを受けていたとされている。
なおマテウスの当時のマネージャーは「1994年にはG大阪のキャプテンになっているだろう」と発言しているが、実現することはなかった。Wikipediaより





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マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。
元オランダ代表監督であり、現エールディヴィジ・ヘーレンフェーンの監督。「オランダトリオ」のひとり。
1980年代から1990年代初頭を代表するフォワード。現役時代に3度のバロンドール(1988年、1989年、1992年)と1度のFIFA最優秀選手賞(1992年)を受賞した経験を持つ。
プロデビューは17歳のときで、先発のヨハン・クライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。
1987年から在籍したイタリアセリエAのACミランでは、ルート・フリット、フランク・ライカールトらと共に「オランダトリオ」と呼ばれ、
国内リーグ優勝やUEFAチャンピオンズカップなどの数々のタイトルを獲得。ACミラン黄金期の象徴的存在となった。
キャリア全盛期を過ごしたACミランでは、ファンに「神は8日目にマルコを創造した」とまで言わしめたほど。
彼が引退を表明した直後のシーズンにはホームスタジアムの観客席に「マルコのいないサン・シーロは羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられた。
スパイク契約はミラン移籍後からディアドラであり、オランダ代表のチームカラーであるオレンジ色のロゴのスパイクを履いていた。
ロベルト・バッジョと並び、当時の同社の看板選手であった。
度重なる怪我のため活躍した期間は長くなかったが、世界のサッカー史上最高のフォワードの1人としてファン・バステンを推す声は多い。
一方、バロンドール最多受賞(3度、タイ記録)やクラブチームでのタイトルの栄光に比べると、FIFAワールドカップにおける活躍が乏しい事(ゴールなし)が評価を下げている。
オランダでプレーしていた若い頃はドリブルのステップから「クライフのコピー」と言われ、ヨハン・クライフ自身はファン・バステンのことを息子と称した。
ティエリ・アンリ(レッドブル・ニューヨーク・元フランス代表)、アンドレイ・シェフチェンコ(ディナモ・キエフ・ウクライナ代表)など、彼に憧れる選手は多い。
サッカー史に残るスーパーゴール [編集]1988年6月25日、UEFA欧州選手権1988決勝のソ連戦に見せたシュートは伝説とも言われるワンプレーだった。
後半9分、アーノルド・ミューレンの左サイドからのクロスに走り込み、ダイレクトボレーで自分とは対角のゴールに豪快にたたき込む。
しかも、ドライブがかかっていた。レフ・ヤシンの後継者と呼ばれた当代屈指の名GKリナト・ダサエフですら防ぐことは不可能であった。
難易度の極めて高いプレーを、後で自分でも驚くほどいとも簡単にやってのける、それが全盛期のファン・バステンだった。Wikipediaより



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ルート・フリット(Ridi Dil "Ruud" Gullit、1962年9月1日 - )は、オランダ・アムステルダム出身の元サッカー選手。
「オランダトリオ」のひとり。オランダ語のGuの発音は日本語にはないものであり、
強いてカタカナ表記すれば「フ」に近いことから、キャリア中期(ACミラン在籍時)まで日本では「フリット」と書かれた。
しかし、現実の発音とはかけ離れたものであり、また「フリッター」のようであまり印象も良くないことから、
本人はサッカー誌のインタビューで(イタリア語、英語などでの読みに準じる)「グーリット」とするように希望した。
1979年、HFCハールレムでデビューを飾り、高い技術力を見せる。
その活躍が認められ、1981年9月1日のスイス戦で代表デビューを飾る。
1982年にはフェイエノールトへ移籍し、ヨハン・クライフとともにリーグ優勝に貢献する。
その後、PSVアイントホーフェンを経て、1987年に当時の史上最高額の移籍金でイタリアセリエA・ACミランへ移籍。
マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトとともに「オランダトリオ」としてACミランの黄金期を支え、
数々のタイトルをもたらし自身もこの年バロンドールを受賞した。
また、オランダ代表としてもEURO1988では優勝に貢献。この時代はまさにフリットの全盛期であった。
しかし、1989-1990シーズンに膝を故障、治療とリハビリに一年間を費やす。この故障は引退時まで大きく引きずる事になる。
1990年のイタリアW杯に出場。欧州王者として優勝候補の一角に挙げられていたが、チーム内は監督交代など内紛を抱え、
フリット自身も膝の故障から回復したばかりで、満足なプレーをすることが出来なかった。
少しずつ調子を取り戻していた決勝トーナメント1回戦で、この大会を制する西ドイツ代表と対戦。
守備の要であったライカールトの退場などもあり拮抗した展開の末、1-2で敗退した。
同年12月のトヨタカップではACミランの一員として来日。ライカールトの先制ゴールをアシストするなど往年の躍動感溢れるプレーを披露した。
ミランでは1991年にアリゴ・サッキ監督が成績不振を理由に辞任した事で、1991-92シーズンからファビオ・カペッロが監督に就任した。
前任のサッキはシステムや規律を重視する監督ではあったが、少なくとも前線の動きに関しては制約を受ける事は無かった。
しかしカペッロの下では、右サイドに完全に固定されて自由なプレーが出来ず、徐々にベンチを暖める機会が増え、
1993年にサンプドリアにレンタル移籍する事になった。
そこで、監督のスヴェン・ゴラン・エリクソンからリベロのポジションを与えられ、自由奔放な本来のスタイルが復活する。
サンプドリアは93-94シーズンをリーグ3位、コッパ・イタリア優勝と大躍進を遂げ、フリットはその立役者となる。
特に古巣ACミラン戦においては全盛期に勝るとも劣らないパフォーマンスを見せる。この復活劇で翌シーズンにミランに返り咲きを果たした。
しかし復帰したミランではカペッロから再びポジションを束縛された為に不振に陥り、
シーズン途中にサンプドリアに再び移籍するが前年の様な輝きを取り戻す事は出来なかった。
オランダ代表では1992年のEURO1992を最後に代表から退くが、サンプドリアにおける好パフォーマンスもあり、
1994年のアメリカW杯直前に代表復帰を果たす。しかしディック・アドフォカート監督との間で折り合いが悪く、
かねてから要望し続けたクライフの代表監督就任も遂に叶わず、出場を辞退する事となった。
背番号はACミランやオランダ代表では10番を付ける事が多かったが、1993年に移籍したサンプドリアやチェルシーFCでは4番を付けてプレーした。
サッカーシューズはイタリアのスポーツメーカーロット社の物を愛用した。
南アフリカの黒人指導者、ネルソン・マンデラと親交があり、1987年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)受賞時にはトロフィーをマンデラに贈った。
3度の結婚と2度の離婚をし、3度目の結婚相手はヨハン・クライフの姪である。
イタリアW杯前には日本航空の国際線CMキャラクターとなり、日本国内でも知名度があがった。Wikipediaより



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カール・ハインツ・ルンメニゲは、ドイツ・リップシュタット出身の元同国代表サッカー選手。
ポジションはFW。現在、ドイツ・ブンデスリーガ所属のバイエルン・ミュンヘン代表取締役である。
1960年代のウーヴェ・ゼーラー、1970年代のゲルト・ミュラー、1990年代のユルゲン・クリンスマンと並び称されるドイツを代表するストライカー。
スピードと決定力を武器にミスターヨーロッパと賞賛された。
若い頃はスピードを生かした高速ドリブラーとして知られた。
しかし1978年にバイエルン・ミュンヘンの監督に就任したハンガリー人のパール・チェルナイから特訓を受けた結果、
ドリブルシュート、ボレーシュート、ヘディングシュート等は勿論、泥臭いシュートもこなすヨーロッパを代表するセンターフォワードへと変貌を遂げた。
西ドイツ代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー。ワールドカップには3大会(1978年アルゼンチン大会、1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会)に出場。
ワールドカップの舞台では、1982年と1986年は怪我のためフル出場試合は少ないが、合計10得点を挙げている。
特に1982年大会の準決勝・フランス戦の延長戦、および1986年大会決勝・アルゼンチン戦で、ともに2点ビハインドの場面で記録した追撃のゴールで知られる。
前者はアクロバティックな体勢から決め、後者はまさに「魂で押し込んだ」とも言うべき泥臭いゴールであった。
1993年から1995年に浦和レッドダイヤモンズに所属していたミヒャエル・ルンメニゲは実弟にあたる。
自身が代表取締役をつとめるバイエルン・ミュンヘンは、2006年に浦和レッズとパートナーシップを締結。
同年7月31日には埼玉スタジアムで両チームの親善試合が行われた際に来日し、OBオールスターマッチにも参加して往年の技を披露、ハットトリックの活躍を見せた。
まだ無名だった頃、1975年1月にバイエルンミュンヘンの一員として来日、1月7日の日本代表との試合では開始1分でゴールを決めている。
Wikipediaより




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アルゼンチンのプロサッカー選手。
1960年10月30日、アルゼンチンのラヌース(ブエノス・アイレス州)に生まれる。
1986年ワールドカップ・メキシコ大会では、「マラドーナのための大会」といわれるほどのサッカー史上に残る活躍をみせた。
準々決勝イングランド戦での伝説的な「5人抜き」「神の手」の2ゴールのほか、数々のマジカルプレーでアルゼンチンを牽引(けんいん)し、優勝を飾った。
15歳でアルゼンチンリーグにデビュー(アルヘンチノス・ジュニアーズ)以来、神技のような左足のテクニックでファンを魅了し続け、
イタリアのナポリでは無冠のクラブに二度のリーグ優勝をもたらした。
一方で、麻薬の使用疑惑や1994年ワールドカップ・アメリカ大会ではドーピング検査で陽性反応が出るなど、トラブルメーカーでもあった。
しかし、2001年に国際サッカー連盟(FIFA)が行ったインターネット投票では、ペレを抜いて史上最高選手に選ばれている。
何人でも抜き去るドリブル、意表を突くパス、たぐいまれな得点感覚と、どれをとっても天才的である。
2008年11月よりアルゼンチン代表監督を務める。
yahoo百科事典より



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オランダのプロサッカー選手。ヨハン・クライフとよばれる。
本名ヘンドリク・ヨハネス・クライフ。1947年4月25日、オランダのヘームステーデに生まれる。
ペレ、ベッケンバウアー、マラドーナらとともに20世紀を代表する選手の一人。
アヤックス(オランダ)のボールボーイをしていたクライフは、やがてこのクラブをヨーロッパチャンピオンに導く。
1971、1972、1973年とヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現、UEFAチャンピオンズ・リーグ)優勝。
センターフォワードでありながら、中盤、ウイングもこなす変幻自在なポジショニング、卓越したボールコントロール、
驚異的な加速力をもち、明晰(めいせき)な頭脳と統率力で「トータルフットボール」とよばれた、当時としては革命的な戦術の先頭に立った。
1974年ワールドカップ・西ドイツ大会でもクライフのプレーはさえたが、決勝で地元の西ドイツに敗れた。
しかしこの年、三度目のヨーロッパ最優秀選手賞(バロンドール)を受賞(1971、1973、1974年)した。
現役引退後、アヤックスとFCバルセロナ(スペイン)の監督としても、攻撃的なサッカースタイルをとり続けた。
バルセロナではスペインリーグ4連覇、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ優勝の栄光をもたらした。yahoo百科事典より



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フランスのプロサッカー選手。1955年6月21日生まれ。
プレーメーカー、ゴールゲッターの両方の才能をもち、
デビュー当時から「プラティニは9番(センターフォワード)か10番(プレーメーカー)か」といわれながら、
その両方で卓越したプレーをみせた。
フランス代表として1978、1982、1986年のワールドカップに出場。
1982、1986年大会ともに、準決勝で西ドイツに行く手を阻まれたが、
ジレスAlain Giresse(1952― )、ティガナJean Tigana(1955― )と組んだパスワークは見る者を魅了した。
1984年には地元フランスで開催されたヨーロッパ選手権で優勝、大会得点王も獲得した。
1983~1985年には3年連続でヨーロッパ最優秀選手賞(バロンドール)を受賞した。
イタリアのユベントスで1985年ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現、UEFAチャンピオンズ・リーグ)優勝。
鋭くカーブするフリーキックはプラティニの代名詞であった。
引退後、フランス代表監督として1992年ヨーロッパ選手権の指揮をとったが、グループリーグ敗退で辞任。
1998年ワールドカップ・フランス大会では、大会実行委員長を務めた。
UEFA(ヨーロッパ・サッカー連盟)会長、フランスサッカー協会副会長を務める。yahoo百科事典より



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