私のところにはよく相談メールが入る。大抵はせっぱ詰まったものが多いのだが、時としておいおい、と思うこともないわけではない。

そもそもこんな迷い続けている私が相談に乗ること自体いかれていることではあるがサイババの言葉を翻訳しながら伝えるだけだから私に責任もなければ、大した仕事をしている訳でもない。スワミがそういうことを通じて学びなさいと言っているようなものだから恭しく頂戴することになるが、困る相談もある。

そのよくあるパターンとして、どちらの方がいいでしょうか、というものだ。欲望と欲望を比べるというさらなる欲望に適切な答えはない。さらには計算したところでどっちがいいかなど分かる術もなかろう。その一方で、何かを基準に選択しなければならない以上、人はよさげなほうを選ぶはずだ。そのよさそうに見える基準が問題となる。それが何を基準としていいか分からないから選ぶ際に困るのだ。

そもそも、姑息な計算をしても意味がない。先に自分の希望があり、それにそぐわない選択をしたくないだけだからだ。やっかいなことはそれを指摘しても気づかないふりをすることだ。そもそも抵抗することがなければ悩むこともあるまいに。

さらには、一年先のことさえ予言できない人間に相談してどうなるかということも気づかない。多くの人がなにやらの占いにはまるのはこういうことなのだろう。

さて、私も何を選べばいいのか誰に相談したら良いだろう?それは内なる神。そう、おぼれるものがおぼれるものにしがみついてはいけないのだ。
サイババを学ぶに従い、私の周りで超常現象や奇跡がしばしば起きた。最近はまじめじゃないためか、とんと出現することはなくなったが、鳥肌が立ったことは一度や二度ではない。しかし、そういった奇跡が起きると、はて、これは理解を超えているが、そんなことも起きてしまうこともあろう、と感じてしまうものだ。

そして起きたら起きたらで、奇跡が起きないと神から離れているような気がしてしまうことや、起きることを心のどこかで期待してしまうことなど余計な心の波が生じてしまうから凡人はやっかいだ。

さらには、神は存在しないと思っている人と接することは問題ない一方、上から目線の人と会話すると反応してしまう。価値観の違いが明確になるからだろうが、その一方、神を信じていない、もしくは信じているという二元性から反応していることも明らかだ。

そんなことを考えていると、神を信じている人の中でも、その深さを比較することもあったり、いかに自分が神のいいつけに忠実に守っているかを思ってしまうこともあろう。特に熱心な信者の間に入るとこちらが息苦しくなるのは、彼らに問題があるのではなく、私がこだわらないということにこだわってしまっていることを露呈している。

なんにしても想念はやっかいだ。自由に生きようと思えば、自由にしようとする想念にトラップされ、規律が失われていく。逆は逆でまたしかり、だ。悩みながら、右往左往しながら、それがふさわしいということなのだろう。

ガネーシャの手も折れそうになったことだし、今年はちゃんと規律的にいこうか。

昨日になるが、大掃除の際ガネーシャ神を拭いたところ、手にしていた飾りがもげそうになった。慌ててボンドやらなにやらで修復したが、そのメッセージの意味するところは明瞭だった。

心が世俗の欲望という水で埋もれてしまうと、叡智というロウソクの火は輝くことが出来ない。以前は本腰を入れてあれこれやっていたが、徐々に世俗に流されている日々の象徴が表現されたと言うべきだろう。つまりは、神というポンプを使いなさいというサインに他ならない。

所詮世の中は自分の想念の反映だ、と学んだことをつぶやいたところで何が変わるわけでもない。世の中が透明に見えるまで、欲望が反映されているとされる世界を眺める努力が要求される。心の底から神を求め、あまたある欲望に興味を全く示さなくなった時のみ世俗は消える。だが、感覚は外に映し出された欲望にトラップされ続け心がさまよい出る。何度も何度も引き戻す作業をしてきたつもりだが、根底から神を求めているわけではないから成功などすることはない。ガネーシャの手がもげるくらいで済んでいることが奇跡のようにも感じられる。

少しずつ進んでいることは間違いないが、ゴールははるか彼方だ。一生懸命やっている時にはそれが憂鬱の種になっていたが、それもワナであることが分かった以上、今はこうして一つ一つの現象から現存する想念を導き出し、神の意図を知ることに専念すべきだろう。
今年もあと数時間で終了だ。年末、新年を感じることは年々薄れてきている。正月から仕事をすることもあれば、正月の風景が昔と異なりつつあることもあるだろうが、時を区切ることに本当の意味合いはないこともあろう。そうは言っても正月は正月だけれど。

インド占星術ではダシャーと言って、その人の時の流れを読むことが出来る。私は、今、ラーフを過ごしている。星が支配する時が変わる時、人生においても大きな変化が起きるという。私もまた、その原則はほぼ100%当たっている。

今年は私にとっては晴天の霹靂としか言いようのない、スワミの死去があった。震災の起きた数日前、スワミの足下には日本地図が敷かれていたと言う。後日その画像がアップされたのだが、それを見ながら、これだけの災害で済んだと考えるべきなのではないかとも感じた。

今までは寝る前にスワミの写真の前に座り、一方的な会話をしていたものだが、今となってはめっきり減ってしまった。スワミのいないインドに行きたいと願う希望もなくなった。木星が土星とコンジャクトしている私のチャートから、12室支配の土星が木星(聖者)とからむ事象によりそれを予見することは可能だったかもしれないが、まさか今年だとは考えもしなかった。それを読み取れるくらいの力量ならば、人様のためにチャートを読み解き、アドバイスを送る生活を選択すべきだろう。

出会いもあったが、別離もあった。神から見たら私たちの一生など瞬きにも過ぎないわけで、そんな出会いなど火花の一瞬にもならない。しかし、全ての出会いには意味があり、別離もまたそうだ。

ラーフで得たものはラーフの終わりに失うという。ラーフは欲望をも意味するから、確かに最近あれこれ急に思いが渦巻き出したのも、この時期ならではということになろうか。ただし、今のがんばりで得られたものは全て失うことになることも了解していなければならない。もっとも、こんなもの、一杯抱えていたら面倒でもあるが。

来年もこんな流れと理解しているので、欲望に上限を設けて淡々とがんばろう。何よりもスワミを思うことが思い出すことが少なくなってきていることが問題だ。だからこそ欲望がもたげているのであるから。

泣くことなどほとんどなくなった最近であるが、スワミの写真を見ると涙がにじんでしかたがない。そんな自分がかわいいということでもあるのだが、それにしても心に吹きすさぶ風はどうしようもない。ヒモが切れた凧といった風情を呈している。だからこそのラーフ期になってしまった。
インド占星術は学べば学ぶほど奇妙な学問だと思う。天空を12の室に分けて、生まれた時の天空の星の位置を当てはめて占う。それならば双子は基本的に一緒の運命を辿らなければならないはずだが、少しの時間差があるため、さまざまなチャートを用いることでその差を見いだすことは可能らしい。

少なくとも私の能力ですら、鳥肌が立つくらい当たることもままあるくらいのすごさだから、本当に読める人は大変なことだろう。ラオ先生くらいになると8割は予言できると言われている。

私の友人に12室に水星と木星とケトゥーが同室しているチャートの持ち主がいる。これが何を意味するかは明白で、高いスピリチュアルの道を歩くことを示す。しかし、12室は喪失の部屋であるから、霊的に登り詰めるということは、手にした多くのものを離さなくてはならないことも含んでくる。これは欲望を捨てるということではなく、それを持とうが持つまいが、それらに心を揺さぶられないということだ。

欲望そのものは持つことだけでは問題を生み出さない。それにこだわることが苦悩を生む元となる。例えば美貌を持った人間がそれにこだわれば、衰え失うことに対して苦しむことになる。それを超越するには、他と比較し自分が優れていると思っている物事を手放すことが要求され、幾多の転生の中でいつかそのレッスンを行わなければならない。そして今世、私の友人にはその多くが求められてきているということだ。

生きるとは、眺めるとは、本当に大変だ、と彼は漏らす。欲望を抱えようとすると必ず困難がやってくる、と。すべてを神のプレゼントと彼は理解しているが、実際はそれがわかったところでも苦しんでいる。なんと大変な人生だろうと思う。私の星ではそんなことは起きない。むしろ欲望を増長する方向性で物事が進むことだろう。彼の星だからこそ、そんな道を耐えることができるのだ。私にはやってこないし、やってきたら鬱になるのは間違いなかろう。

すべてから離れて成就する解脱。星は彼の勝利を暗示しているが、私がそれをうらやましいと思わないのは私の星では到達できないからだ。そういうことを学ぶのがインド占星術とすると、解脱に到達しない愚かな人間がひとつずつ学ぶために神が用意した学問と言うことだろう。
この15年、サイババに出会ってからその関係以外の本をほとんど読まなくなった

TVは見るけれど本は読まない。でも絵画はとても好きだ。はて、と理由を考えていたがおぼろげに理解可能な説明がみつかった。つまりは見た世界を解釈する作業を自らがしたいに違いないということだった。本は筆者が苦労をして描いた世界だが、私の感動はサイババなりその関係が設定しているがゆえに、ほとんどの本はそのハードルを越えることがない。絵画やTVは解釈を要求されたとしても私個人の感覚で再定義できるから、ハードルは関係ない。要するにサイババに則して理解したいという私の思いが入り、すべてが再度定義し直される。多くの人と同じ行為であろうが、簡単なことじゃ感動しないぞという堅い意志があるに違いない。従って、時に私の感性をくすぐるものはあったりするがそれも極めて稀である。

逆に、こうして私が記載したものを振り返って読んでみると、これが感動さえ引き起こさないことがわかってしまう。書くなんて作業はすなわち想念に執着する作業だし、感動を引き起こそうなんて考えている時点でだめだろう。所詮他人に見せようなんて行為自体が感動を離れているのだ。他人に見せるという意識を葬り去り、見た世界を淡々と描き、心の奥底に眠っている感動を書きつづる。そんなことが出来ればいいのだが。

サイババに入信している積もりになっている一方で、世俗にどっぷりはまっている私の一つの例に競馬がある。競馬はこれまでゲームで覚えて以来ずっと追いかけている。ある意味人間の道楽の最たるものでただ走らせるために品種改良を重ね、そして肉親同士が走りあう。早く走るということだけが価値観を持つ世界だ。走るというシンプル具合と馬の特徴が人と被るがゆえに感情移入しやすい土壌を作っている。

今日は有馬記念だった。オルフェーブルが4冠を達成。引退するブエナビスタは7着に敗着した。競馬を学んだゲームではトニービーンの子供に頼っていたから、今でもトニービーン産駒を買いたくなる。そこで例えばトーセンジョーダンを買い続けているわけだが、秋の天皇賞以外はJCも有馬も勝てなかった。展開ということもあるが、オルフェくらい強くないと条件を超えて勝てまい。

今年もこの有馬で終了だ。震災があり、スワミが亡くなって一年も経っていないなんて信じられない。生命が絶えても自然は淡々とその時を刻む。

今年も大変なことや、いやな思いもそれなりにした。しかしいい出会いがたくさんあった。前ほど人のことを嫌いにならなくなった。それだけでもよしとしようか。

all for one, one for all.
今年の年賀状の文言である

神よ
今年も私は愚かでした
しかしそんな愚かな私の徐々に愛することが出来るようになっています
あなたは私に離れすぎていると言うかもしれないし
きっとそうでしょう
それでも私は私の歩き方で徐々にあなたに近づいています
それでいいでしょう?

来年はどんな年になることだろう。

私はあなたにお伺いを立てて
どうあるべきかに目を凝らす
しかし
すぐにしびれを来してしまう私には
その答えを待つこともなく
自ら進むべき道を歩いている

それがどれくらいに愚かであるか
重々分かっている積もりなのだが
あなたの声が聞こえるほどの敬虔な信者でもなければ
自ら解脱を望むほどの星も持ち合わせていない

いっそ世俗にまみれることもいいことなのだろうが
その勇気もない

この中途半端さが気に入っているということなのだろう

もしあなたの声が聞こえたら
私は嬉しいと同時に
おそらく怯えてしまうことだろう
解脱に向かうしかなくなるわけで
それは結構困るのだ

生きるのが面倒くさくもある
でもそうして二元性を楽しみたい
そのねっこは深いのだ

しょせん昼見ている夢にしか過ぎないわけであるからして
解脱してもいいかもしれないな
いやいや
そんな簡単なことではあるまいて

サイラム
神に近づくと
この世が透明に見えてくるという
形があること自体が二元性を示しているから
透明になることは当然のことだという

となれば
神の姿すら透明になるわけで
透明の神を拝むことが難しい人間にとっては
見姿は必須といえる

しかし
だからこそ見姿にこだわることもまた
縛られてしまうことにもなる

マハルシは言う
そんなことに気を取られてどうするのか
神を実現すれば
そんな雑念さえ意味を持たないと

要するに
なんでもいってことだな

いやちがうか、やっぱり...

サイラム
あれは約20年も前のことになる
テレビを何気なく見ていた私は
あなたが手を下にして回しているあの姿を見つめていた

その瞬間だった
私はあなたに瞬時に捕まっていた
あなたが視線をこちらに投げ掛けた時
私はあなたが本物であることを理解していた

次の日
私は本屋に向かいあなたの本を手にしていた
そこには私が抱えていた苦悩の答えが
明確な言葉での全て記載されていた
そこには一点の曇りもなく
私はこれほど清らかな文章に出会ったことはなかった

他に道はなかった
欲望を控えなさいというあなたの言葉を
私はこの方必死になって行ってきた

多くのことを一から学び
私は自分のコントロールを行うべく
大変な努力を費やしてきた

奇跡に近いことも起きた
おそらく私の中の多くの部分は変わったはずだった

あなたのところにも出かけもしたがしかし
それでも私はあなたの子供であることを自覚できず
あなたに会っても
すべてが溶け出てしまうことはなかった

例えるならば
後ろの席から米粒ほどしか見えないコンサートを
眺めているようなものに違いなかった

いつか
私はあなたの横にすわり
あなたに頭をなでてもらいながら
いい子だと
褒めてもらう日を夢見て
愚鈍ながらもここまでやってきた

かつてあなたが座っていた場所に
今あなたは眠っている
その写真を眺めては
もう私の夢はかなわないことを理解する

声もかけられることもなく
褒められることもなく
それでもこの長きにわたってあなたを思い続けている
それが奇跡と言えば奇跡かもしれないな

人知れず
われながらの愚かさと
もう二度とあの身姿に出会えないことを思うたび
ひっそりと涙する
その心はあなたしか知らないのです

サイラム