今朝目を覚ましたときに思ったのは、今、ひとはみんな完全に我を出し切るようになってるのかなということです。


起きてすぐに前ふりなくそういうことを思うということは、寝てるときでも何してるときでもず~っと無意識で考え続けてるということなんだろうと思います。


今までは、お互い引き上げあっていたり、みんな何らかの集団意識に属していたと思うんですが、


それぞれが我を出すと、そういう共通項が破壊されるので、


どっちみちばらばらになって、


完全に我を出し切った状態でぴたりとつながるとこでそれぞれ固まるというような。



なので、現時点で自分の我のレベルがどこにあるかというのの総集編みたいなのになってるのかなとか。



最終振り分け状態というか。



出来るだけ我を出さずに、いけるとこまで我を移行させてより統合的なとこ、より多くの情報を内在できるとこまで、いけるとこまでいったほうがいいと思うんだけど、


ああ~~~。って、それぞれ「もうだめだ~~~。ここでいいや~~~~もう休みたい。」と降りていくイメージが。




途中下車?


まだ目的地じゃないのに?




それというのは私がサイババ列車に乗ってるからいろんな人が降りていくのを見送るような感じを受けるのだけど、


ほかの人からしたらまた別のイメージなんだろうけど。




それぞれのグルとかって、それぞれの列車みたいなものなのかな。


自分で動くのをやめて運んでもらうみたいな。



ただ、乗るのは自分でのるしかないんだけど。


「なんか違う」と思ったら降りることも出来るし。


ぼうっとしてたら何もしなくてもどんどん運ばれてしまう。



走ってるときに飛び降りると怪我するし、

そういう場合駅に止まって降りれる列車だったらいいけども。



それにだいぶ遠くまでいってから降りるとリカバリーがきついのかもしれないですよね。


どこかでまた接続してればいいけど、出発地点まで引き返す労力が必要なときもあるし。




でもどこに行こうと、列車に乗って楽しんで旅行して目的地につくという経験としては同じだから、


そういう意味ではどの列車に乗ってどこに行こうと等しく貴重な楽しい経験なんだろうと思います。




それぞれのグル列車の終着駅はそのグルそのものということになると思うんだけど、


というのはそれぞれのグルの我のありかにたどり着くというか。




それが巨大なジャンクションですべてのほかの道につながってる場合もあるし、行き止まりの辺境の場合もあるし。



でそそれはそれで、そこで降りてそこで暮らせばいいのかも。




それぞれの我のありかがどこにあるのかが、それぞれが、自分はここでいいやと思って止まるポイントなんだろうなと思います。


すぐに止まれる人もいるし、なかなか止まれない人もいる。



私なんかはなかなか止まれないでいつまでも移動し続けてるほうじゃないかなと思うんですけど、


なので、みんな降りていって誰もついてきてないという。苦笑




でもその我の状態が、自己完結レベルを決定するような気が、今朝はした。


そのように、それぞれがそれぞれのレベルで自己完結してそれぞれのサイズで輪郭をはっきりさせて留まるような促しが今あるのかなとか。


レベルとかサイズとかって上から目せんぽいかも知れないけど、


どこまで内在させることにするかという違いというか。


世界のどこまで内在させることがその人の自己完結世界の許容範囲かと。



今まではお互いの輪郭があいまいだったものが、今は個人個人のそのような総決算、たな卸しみたいなそんな感じがします。



現時点での決算報告みたいな。



それは、それぞれのグル自体にもいえるのかもしれないですよね。


というか、グルになっちゃうと、もうどうしようもなく列車だから、人を乗せて自分の目的地に一緒に運ぶだけで、他の列車には良くも悪くも乗れなくなるのかな。


つくづく、グルになるのは恐ろしいと思います。



最強のカルマな気がする。



そういうみんながどんどん降りて自己完結してぴたりぴたりと吸い付けあってまとまっていく様子を眺めていると、どうしても、まだどこかの列車に乗ったままにもかかわらず、うっかり気持ちをそっちにおいて眺めちゃうと虚無ってしまうかも。


でもきっと自分には自分の運ばれていく先があるし、


ジャンクションや終着地点で下車したら今度はそこで飛行機や気球に乗り換えて垂直移動になるのかもしれない。



何にものらない、というのは、


すべてが動き回っているこれらの場全体を自分の我としたときに、すべて自分の中で動き回ってるけど、我としての自分はそれらすべてを内在させて動かない、ということになるわけで、


列車が止まって交通が麻痺したり、

誰もどこにも乗らないで移動せず、その場で息を殺してじっとしているということではないと思います。


動かないというのはそういうこと。

すべてが自分の中で動き続けているのを許容しているような状態の我。


すべては動き続けているし、止まらない。


止める必要もない、と思います。




すべてを活きたまま内在させるような大きな心でいたい。という、列車に私は乗っている。




そしていつか列車から降りて歩き出すのだけど、そこへ運んでくれた列車があった事実は忘れない。

引き換えに自分の我を差し出すリスクというかけがえのない運賃を支払ったことも。




列車に乗るのはその列車のたどり着く場所に自分も行きたいから。


列車はその終着地点をスタート時からすでに内在させている。


そして私たちはすべての心配と荷物を脇において、安らいで車窓を楽しむ。




まだ乗っている。


まだわたしの目的地ではない。



たとえみんなが途中を目的地とみなしてそこで待つものに期待を持って降りていっても。


それが自分の降りたい場所ではないことは知っている、

残念なことにこの我は強情でごまかせない。



今ここが目的地だよ、降りようよといわれても「うそだ」と思うし、実際違うのだと思う。


まだ、乗ってないと、まだ先があるからと思います。


列車が自ら動かなく、私をそれ以上運ばなくなるまで。






Om Sri Sai Ram