サッカーのイタリア1部リーグ(セリエA)のACミランは11日、イタリア代表のMFピルロが同日の練習中に膝の靱帯(じんたい)を負傷し、復帰までに6週間かかるとウェブサイトで発表した。
 15日に行われる欧州チャンピオンズリーグ(CL)決勝トーナメント1回戦のトットナム(イングランド)戦は欠場する見通しとなった。(ミラノ、ロイター=共同)












インテルもいいけどミランもね


おまけ

1995年に地元のブレシアでセリエAデビュー。翌年、クラブはセリエBに降格してしまうが、1年で昇格。この時にイタリアの至宝ロベルト・バッジョと出会い、バッジョ自らが、自分の後継者と指名する。昇格に貢献したことが目に留まり、1998年に、自身の憧れのチームでもあったインテルに移籍した。

しかしトップ下と言うマークの集中するポジションを担うプレーヤーとしては、彼のフィジカルの脆弱さは致命的であった。ピルロは、選手層の厚いインテルでまともな出場機会も与えられぬまま1999年にはレッジーナ、2001年には古巣のブレシアにレンタルに出される。ここでカルロ・マッツォーネの下、バッジョがいることもあり中盤の底でのプレーを経験する。2001年、ブレシアでシーズンを終えた後、ACミランに完全移籍する。ミラン移籍1年目も、トップ下のポジションにはルイ・コスタがいたため、監督のファティフ・テリムの構想外であり、試合出場もほとんどなかった。

2001-02シーズン途中にカルロ・アンチェロッティがミランの監督に就任。アンチェロッティもトップ下にはルイ・コスタを起用し続け、試合出場を願うピルロは通常のトップ下のポジションではなくディフェンシブミッドフィルダーとしての起用を直訴する。ピルロのブレシアでの経験を知っていたアンチェロッティはこれを承諾。守備主体のポジションに攻撃の要の選手を起用することは当時まだ珍しかったが、奇しくもその後のサッカー戦術を先取りする形となった。トップ下ほどフィジカルの当たりが激しくない中盤の底で、クラレンス・セードルフ、ジェンナーロ・ガットゥーゾといった強力なハードワーカーやマッシモ・アンブロジーニのようなディフェンス能力に秀でたディフェンシブミッドフィルダーのチームメイトにも恵まれ、ピルロは攻撃の指揮をつかさどる存在として、長短織り交ぜた正確無比なパスを供給し続け、レジスタとしてのポジションを確立。今までの不振が嘘のようなパフォーマンスを披露するようになる。UEFAチャンピオンズリーグ優勝にも貢献した。そして2007年のバロンドール投票でカカ、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐ4位の票数を獲得した。