八丈島で暮らすシングルマザーと高校3年生の娘。

絶賛反抗期中であり、母親は心配するも、日々の会話も将来の話もろくに応じないつっけんどんな娘。
 

夜遅くまで仕事して、朝早く起きて家事や仕事をする母親。

忙しい母親は、コミュニケーションを取るために、キャラ弁を娘に毎日作り、ときにメッセージ弁当を作った。
 

ある日、娘が母親にメッセージ弁当の作り方を教わった。

翌朝、好きな同級生にメッセージ弁当を作って渡そうとしたら、可愛い彼女から弁当を受け取りラブラブの様子に落胆。

その午後、東京の就職希望先の会社から不採用の電話が入ってダブルパンチ。
 

翌朝、母親は、「無駄なことはない」というメッセージ弁当を作った。

しかし、娘は素直に受け取れず家で放り投げた。

その後大荒れ、それでも翌日母親が作った弁当は「やっぱり、無駄なことはない」。

根負けしない親の絶対的な愛の大きさに涙した。
 

無理がたたって入院してしまった母親が、高校最後の卒業式の日に、入院先を抜け出して最後の弁当を作った。

特大の弁当の中に、「あなたは嫌がらせ弁当を残さず三年間食べ続けました。その忍耐を讃えここに表彰します」という海苔メッセージ。
一緒に観ていた妻に加え、小学校3年生の娘も、大泣きしていた。

親と一緒に随所に泣いていた娘を見て、改めて、とても愛おしく思った。

 

満月の夜に会いたい死者との再会を一夜だけ実現させることができる『使者(ツナグ)』の話。

頑固一徹の親父は、自分の母親に、がんの告知をせずに死なせてしまって、他の家族からずっと恨み節を言われ続け、苦しんできた。

死んだ母親との再会を果たし、告知しなかったことを詫びたが、その母親は、「あんたの優しさだったんだろ?」そして、「私の人生は幸せだった。苦しかっただろう?そんなこと、一人で背負って。」と誰よりも理解してくれていたことが分かり、中年の息子の涙と私は共にした。

結婚を約束していた美女が突然失踪し、死亡扱いできる7年間も待ち続けた若者。

彼女は本当に死んでいた。

再会を果たし、その彼女は「あんなに幸せな時間はなかったよ。」と感謝の言葉。

夜更けになり、たわいもないやり取りから戯れあい、その中で、どうしようもなく悲しくなりお互い強く抱きしめ合う場面で、またしても私は涙が堪えきれなくなった。

死者との再会を仲介する「ツナグ」。

後継者である若い主人公の両親は、幼い時に心中のようにして同時に亡くなった。

愛し合い優しかった両親がなぜ死んだのかがずっとトラウマだった。

父親も当時「ツナグ」であり、死者の仲介の際に用いる特別な鏡を、他者に覗かれたら、覗いた本人とツナグの二人が同時に死ぬという規則がある。

亡くなった父親からツナグを差し戻し担っている祖母は、当時、父親に対してツナグであることを家族に対してすら教えてはいけないと指導していた。

ツナグの仕事の中で、依頼人の若い女性と二人だけの空間になることもあり、その現場を知人が見つけ、浮気の噂が流され、母親もそれを疑い、大事にしている鏡を覗いてしまったのだと、祖母が語りながら泣き震えていた場面。

それに対して、主人公が祖母に言った。

父親は祖母の指示をこっそり無視してツナグであることを妻に話しており、その一方で怖がらせないように鏡の話は妻に話していなかった。

ゆえに、母親が浮気を疑うことなどなく、むしろ、不仲のまま亡くなった祖父に母親が夫を会わせてあげようとして鏡を覗いてしまったのだと。

「ばあちゃんのせいじゃないよ」と。

「死者が抱えた物語は生きて残されたもののためであってほしい。

今、目の前にいるばあちゃんの震えを止めるために。」という主人公のナレーションもつき、深い感慨を覚えた。
彼は、祖母に、親との再会を求め、死んだ理由を尋ねるという選択をしなかったことがポイントだ。

理想的には、ツナグにお願いする必要性を覚えない人生や考え方が望ましいのだろう。

生きて残されたもののために死者が抱えた物語を必要に応じて解釈や再編集することが大切なことも多いだろうから。


私は、ツナグにお願いして、誰に会おうとするだろうか。

妻が通常の疾病で私の看取りの下で亡くなったら、ある意味それを糧に、私はひたすら前を向いていきそうだ。

再会しても、普段の生活で寛ぎながら話す程度しか話すことがないかもしれない。

死後の近況報告なんて既に死者は知っていることかもしれないし。
色々考えると、結局、会っても話すことないかもってのは、案外、一番幸せなことなのかもしれない。

会いたいと思わない、特段、話したいと思わないということ。

そう思えるよう、普段、一緒に、大切な時間を過ごしていきたいと思った。

まぁ、とりあえず、そう思っておく。

 

 

腹を空かした奴がいたら、飯を食わせる。自業自得かどうかじゃない。
道端で殴られてる奴がいたら、止めに入る。喧嘩かどうかじゃない。
泣いてる奴がいたら、抱きしめる。理由を聞くことはない。
自信を失った奴がいたら、全力で褒める。全てを肯定するのだ。
夢を失い、途方に暮れてる奴がいたら、そっと寄り添う。夢は内から自然とやってくる。

誰にも嘘をついたことがない。当たり前の真実。
親にありがとうと言ったことがない。当たり前の愛情。
素っ裸に優るファッションはない。当たり前の美学。

当たり前の幸せ。
幸せを当たり前にしていく気概を持ち続ける。
 剣道部に在籍していた学生時分、私は、剣道は、人の弱みに付け込む詐欺師の芸当であると考えることがあった。「相手を殺して自分が生きる」ことを極意とするように思えたからである。
 しかし、小林英雄師範が、ふとこう仰った。
『僕は「相手を生かして自分も生きる」ことを目指している。』
 その一言、たった一言につられてすぐ、私は、武者小路実篤の詩を思い出した。
「山と山とが讃嘆しあうように
 星と星とが讃嘆しあうように
 人間と人間とが讃嘆しあいたいものだ」
 人生の道標を得たような鼓動高まる喜びを今でも覚えている。

 今、振り返る。
「相手を生かして自分も生きる。」これは生ぬるい。実に中途半端である。
 武道は、礼に始まり礼に終わる。
 礼とは何か。「これから人間ではなくなるという合図である」と、元旭山動物園長で柔道家の小菅正夫は言った。
 腕をへし折ることを躊躇わないし、首を絞めて落とすことも躊躇わない。相手が参ったしなければ、殺すしかないのである。

 中学時代、通っていた道場の渡辺先生は、私に熱心に稽古をつけてくれた。
 稽古のある日曜日に来るのが、毎週怖くて、土曜日にはいつもため息をついていた。
 剣を対した時に、私は先生に全てを見透かされた気持ちになり、言いようもない恐怖に慄き、その恐怖を忘れるために目をつぶって、思い切って、一本、一本、打ち込んだ。
 ときに、しごかれる。殺されるかと思った。しかし、もうダメだと思った時に、最高の一本が出た。
 稽古後、不器用な笑顔で、よく頑張ったなと褒めてくれた。涙が止まらなかった。

 これまでたくさんの人を傷つけてきた。
 なぜ私の思いがわからないのか、わかろうとしないのか。
 しかし、最終的に私は謝る。傷つけてしまって、ごめんなさいと。
 これは愛ではない。中途半端な優しさだ。

 謝るくらいの思いで、人を愛してはいけない。
 殺めるくらいの思いで、人を愛さなければならない。


 ものごとに対しても、質問や問題提起をするくらいの思いではいけない。
 徹底的に、全否定するくらいの思いで、知り、考え、提案しなければならない。

 さあ、今から、一本、一本、一本。
2008/11/24 holiday

 昨夜帰宅すると母親が僕の(一応共用)パソコンで作業をしていた。僕はそれが終わるのを待つべく、横になりながら読書を始めた。すると目覚まし時計が鳴り響いたので、僕は慌てて止めた。そうか、不意に眠りに落ちてしまったようだ。
 
 さて、どうしようか。時間は午前6時半。とりあえずシャワーを浴び、朝食を取り、パソコンに向かった。ふとクオリア日記(茂木健一郎のブログ)を覗くと、今日東大の駒場キャンパスで茂木健一郎が講演をするという。

 実は昨日も彼の講演会があったのだが、僕は往復葉書を出したのにも関わらず、抽選漏れを喫していた。内容はというと、武者小路実篤の新しき村90周年の記念講演。武者小路実篤の生まれ変わりと自称しており、先月武者小路実篤記念館にも訪れた僕としては、また、茂木健一郎と出身高校・大学が同じであり、彼の講演の音声ファイルを全て熟聴している(講演会等には行ったことがないが。)僕としては、非常に残念な思いをしていた。

 そんなところに、ふと目に飛び込んできた講演会の情報。調べると、今回のは予約不要とある。今日の10時から12時まで。
 何か運命的なものを感じ、駒場に行くことにした。


 会場は超満員、立ち見続出。茂木健一郎が定刻通り会場入りし、挙動不審に講壇に立った。独特の雰囲気と巧みな話術で、会場を笑いと感嘆の渦に巻き込みながら、あっという間に1時間が過ぎた。
 残り1時間はディスカッション。
 意気盛んな学生等、手を挙げる人が多く、中には声も挙げる人もいた。そのような中、彼が二人目を指名しようとするときに、僕が彼の視界に入った。僕は当てられた。(断っておくが、僕は手を真っ直ぐ挙げていただけである。)

池田「すみません、二つ質問させて下さい。一つ目は、運命を受け入れるということと諦めないということのせめぎ合い、切り替え方について、どのようにお考えか伺いたいです。」
茂木「高度な質問だなー。」
池田「問題意識としては、困難な課題に直面したときに、潔く別の道に進むか、たとえ行き止まりであっても、五里霧中でも、険しい道を進むか、そのあたりの見極め方について興味があるのです。」

茂木「君は大学生か、何年生か。」
池田「世を儚んで僕は最初から東大法学部に入り、卒業したOBです。」(注:茂木健一郎は理学部卒業後世を儚んで法学部に学士入学をした。)
茂木「職業は何?」
池田「公務員です。」
茂木「なるほど。」

池田「二つ目は、他者と自分を鏡のように作用するというミラーニューロンをどのように評価しているか伺いたいです。問題意識としては、ミラーニューロンの存在が証明されたというが、大した意味がないように僕には思えることが多いからです。
茂木「おー、なるほど。なぜそう思うの?」
池田「ミラーニューロンが人間の感情等に大きな位置を占めるのならば、相互扶助が多く期待できるはずだが、現実はそうはなっていない。むしろ政府の介入が求められることが多いようで、残念に思うことがあります。」

茂木「一つ目は、運命を受け入れることと諦めないことの関係についてでいいですか?」
池田「はい。。(関係となるとニュアンスが違うが、まあいいだろう。)

(一つ目について)
茂木…(予想通り)赤毛のアンを引き合いに出し、自分の中で変わらないものがあるということ、両者は両立するということを説いた。

茂木「君は大丈夫だと思う。で、ああ、二つ目はミラーニューロンについてだったね。」
(二つ目について)
茂木…人的ネットワークを構築する重要性を説いた。利他的精神は、単一の組織のみに属している場合には醸成されにくく、多くの組織に属することが重要とのこと。

池田「ネットワークを作るということは、人間の想像力の不足を補うことだとも言えるのでしょうか?」
茂木…ネットワークは想像力を超えるものだとのこと。ネットワークは誰が誰と知り合いだからといった形で幾何学的に拡大するものであり、嗜好性等によってつながるものよりも多くなりうるとのこと。

一息置いて、
茂木「君の困難な課題はなんだい?」
池田「組織の方向性と自分の方向性の違いがあまりに大きいのではないかということです。」
茂木「辞めるのか」
池田「いえいえ、あらゆる観点から検討はしています。」
茂木「まあ、君は大丈夫だと思う。」



「大丈夫」という言葉の意味は何だったのか。更々問をぶつけたくなるところだったが、しばらく頭の中で寝かせておこうと思った。

その後、職場に向かい8時間労働を遂げた。ちょっと仕事に集中しなければと思った。
2008/6/9

熟考の末の直感。
共感と弱さは自由の本質であるとともに、保護の本質であるということ。


価値はないから自由である。
自由でないから価値はある。

しかし知ることはできない。
ただ信じるのみ。
信仰という真実を内に秘め、
科学を身に纏う。

不協和音が生む美しさに
心を奪われながら、
協和音に宿る天の声に
心を震わせながら、
自己の四弦を生かす。
2007/4/15

久しぶりの日記に適したくだらない内容です。


説得するとき、徳は有用だ。
議論するとき、徳は無用だ、むしろ害悪だ。

人は、主体と内容で、行為を評価するものだから。


世にも美しい音楽を創造した下品なモーツァルトに憧れを抱く。
2006/10/7

高校時代にこんなことを考えたことがある。

~世の中は水酸化ナトリウム水溶液だ。
溶けてしまいそうになる。
そりゃ僕だって水でありたいよ。
でも塩酸になるべきなんだ。
よし、どんどん熱くなってきたぜ。
所詮しょっぱい結果しか生まないかもしれないけど。~



こうして僕はすっかり天邪鬼気質になってしまったようだ。

周りが真面目なことを言っていると、僕はふざけたことを言いたくなる。
しかし飲み会の時には困ったことが起こる。
周りが狂いだすのだ。すると僕は一転、凡人になる。
異常であることを生きがいとするために、飲み会では非常に窮屈な立場に追い込まれる。



僕は時折、自分というものがないのではないかと悩むことがある。
その場の雰囲気次第で、自分の立場をコロコロと変えているのだから。


待てよ、水はペットボトルの中に入れば、そのペットボトルの形になるし、ビンの中に入れば、そのビンの形になる。
でも水は水だ。

変化とともに変化することが不変であるということなのかもしれない。

ならば、こんな不確かな自分が自分ということでいいのかもしれない。
2006/7/25


『ドッグヴィル』という映画を観た。もう何度目だろう。
改めてこの監督は凄いと感じた。
見終わった後、脱線気味に、僕は妄想に耽った。

 「私」が人から不当な仕打ちを受けるとする。さらに、謝罪はないとする。その時すぐカッとならず、相手を理解しようとすることが重要であろう。
 しかし人を理解するということは何と辛いことか。
 相手が自分の行為を不当だと認識しているのに謝罪をしない場合、それは相手が「私」を軽んじているということを意味し、「私」はその人と距離を置くことになる。なぜなら、自分が軽んじている人には不当な行為をしても構わないというような相手とは信頼関係を築くことはできないし、その道徳観を直させようにも、軽んじている人からの注意を真に受けることは期待できないからである。
 一方、相手が自分の行為を不当だと認識していない場合、それは相手が少なくともある道徳的欠点を持っているということを意味し、その時「私」は3つの選択肢を持つ。一つ目は、前段と同様に相手と距離を置くこと。しかし、欠点を持たない人はいないし、それを認識できていないのなら、「私」はそれを相手に伝えるべきだろう。
 そこで二つ目は、相手にしっかり注意して改善を求めること。しかし、これは「私」の価値観の押し付けに相違ないのではないか。「私」が正しいと考えるものに反した場合に逐一相手に注意するのが正しいとするのは怖い。それほど「私」は「私」を信用してはいない。
 では三つ目はどうか。相手を、欠点を含んだものとして、全体として、受け入れ、許し、愛すること。「私」が相手に何の憎しみも覚えずそれができるとすれば、人間関係もさぞ円滑になり結構なことではないか。しかし、これにも落とし穴がある。人の欠点を見過ごすというのは、所詮、人は「私」の高度な道徳基準に達することができないという前提が根を張っているというという意味で、最も傲慢なことではないか。

 目をつぶる自信がない
 睨む自信もない
 微笑む自信は尚更ない
 いつからだろう
 目まで嘘つきになってしまった
 暖かくもなく冷たくもない
 穏やかな瞳がどうしようもなく哀しい
2006/5/27

池田のつぶやき

池田のつぶやき

最近雨が多い。
まだ梅雨でもないのに。

今年は雨が多くて米は不作らしい。

雨のおかげで米ができるけど、雨のせいで米ができないということだ。

思えば世の中、逆説的なことばかりだ。
「あばたもえくぼ」「失敗は成功のもと」「愛の鞭」「持ち物が少なければ少ないほど、多く与えることができる」「一番多忙な人間が一番多くの時間をもつ」・・・

改まって言うことでもないが、物事には色々な側面がある。
見方を変えれば印象がガラッと変わることがある。


さて、最近こんな言葉を考えていた。

「負けるより負けない方が悔しい。」
「雑草も花を咲かすことができる。しかし、たいていの雑草は花を咲かすことができない。」

言い換えてみた。

「負けないより負ける方が嬉しい。」
「たいていの雑草は花を咲かすことができない。しかし、雑草も花を咲かすことができる。」

目が覚めた気がした。
気づかないうちに、ネガティブ思考に侵されていたようだ。

「努力するものは希望を語り、怠惰なものは不満を語る」