スコ猫くまきち日和+ -2264ページ目

なぜ、人は人を殺してはいけないのか?

わたしは淡水魚を飼っています。
ペットとしてみれば、ほとんど没交渉でコミュニケーションもとれない存在です。なかには、エサの時間に寄ってきたり、わたしが水槽の近くへ行くと「エサですか?」と寄ってくるものもいますが、警戒をおこたらない慎重な魚が多いです。

そんな魚たちに教えられることがあります。
それは、死にゆくまでの彼らの態度です。
病気で死ぬもの、寿命がきたもの。
どちらも最後の最後まで生きることを辞めません。
たいがいはどこか具合が悪くなって、水槽のすみっこにジッとするようになります。
それでも、エサが落ちるとなんとか食べようと他の元気な魚にはじきとばされながらもエサに近づきます。ところが、パクパクしてもエサが口に入っていかない。そのうち平衡感覚がおかしくなって、縦に泳いじゃったり、クルクル回っちゃったりする魚もいます。回りながら水流の早いところにまきこまれると、最後の力を振り絞ってそこから脱出しようとしています。諦めません。最後まで。その姿は涙が出るほど立派です。

人間と魚を一緒にするなという人がいるかもしれませんが、最後まで生きようとすることは、生物として、この世に生まれてきたものの最低限の、第1番のルールなのではないでしょうか? 人間に比べたら、進化していない魚でさえ全うできるルールです。

一昨年、ハムスターが死にました。彼女も最後の最後まで生きることをやめませんでした。3日前から大好きなヒマワリの種が食べられなくなりました。最後の日は、ケージのなかを無意味にグルグル回っていました。もう、まわし車にあがる力もなく、ヨロヨロとよろけながらも、ケージのなかを歩き続けるのです。わたしが持ち上げても、もうわたしの姿も目にはいらない感じでした。止まったら死ぬ。と思い込んででもいるように、歩き続けていたんです。最後はころっと横に倒れた形で死んでいました。歩いている姿勢そのままでした。

3年前、6年生きた金魚が死にました。病気でしたが、横たわったままの寝たきり金魚になって2カ月もの間、頑張りました。

そんな動物たち、魚たちを見ていると、生き物というものは最後の最後まで生き抜かなくてはならないものなんだと感じます。

ところが、人間は、考えることを始めたばっかりに、生き物としての最低限のルールを時として忘れてしまう。それは、死ぬための理由付けができるようになったからではないでしょうか?
理屈なんてどうでもいい。なんでもいい。とにかく死んではいけないし、殺してはいけないんです。最後まで生き抜くのが人間なら、その人間を他の人間が殺すのだってルール違反です。もっともっと生きられる人の命を自分の都合で断つのですから、それは当然、大罪です。

ただ、人に殺されそうになった時、最後まで生き抜くために闘う人もいます。その挙げ句、相手を殺してしまっても、正当防衛の殺人は許されます。それは社会のルールです。この延長に戦争がありますね。自分の国を守るために、自分の家族を、自分自身を守るために人を殺す。正当防衛であるという大義名分がたてば、殺してもやむなしというのは、すでに生きもののルールからはずれているんだなと思いますが、私だって家族が殺されたら、「殺してやるっ」と、思うでしょう。

どうして人間はこんなふうになってしまったんでしょうね。
集団で暮らすから? そこに利害が生じるから?
悲しいことです。

それでも、人間だって生き物として、もっと謙虚にそれぞれの生を最後までまっとうするのが本来の姿だと、私は考えます。
だから、人は人を殺してはいけない。
自分も殺してはいけない。
最後のときが来るまで生き抜かなくてはいけない、というより、生き抜こうとするものです。

なぜ、人は人を殺してはいけないのか?
これが問題になるということ自体、生物が本来もっているいちばん基本のルールが、人間には見えなくなってしまっている証拠だなと思うのです。