マスコミ批判に思うこと
マスコミ批判が大々的に始まったのは、
松本サリン事件の河野さんの冤罪事件からだった。
それまでは、内部にいて異を唱えても、半人前扱いされるだけだった。
「甘いね」
「こんなこと、誰でも一度は通る道だ」
「みんな、これを乗り越えて一人前になるんだよ」
一笑に付され、簡単に流された。
一般の人たち、取材されたことのない人たちには、
マスコミを批判しようなんて気持ちはなかったと思う。
週刊誌で行くから嫌われたけれども、
大手新聞や大手テレビ局がきたと、ちょっと自慢げに名刺を見せる人も多かった。
もちろんマスコミのいっせい取材を受けたことのある人なら、
みんな知っていたことだ。
でも、それが表に吹き出すことはなかった。
みんな素直に情報を受け入れ、疑いも持たなかった。
それが、河野さんの一件でガラリと変わった。
マスコミも嘘を書く。
そのことが衝撃的に伝わった。
報道する側の姿勢が、読者から、視聴者から
厳しくチェックされるということはいいことだと思う。
それだけマスコミが増長し、
自浄作用をなくしていた証拠だったとも思うから。
ただ、いったん批判がはじまると、
われもわれもと批判する人、非難する人が出るのはどういうことだろう?
マスコミ批判だけじゃない。
事件の当事者やその家族に対してまで、
揚げ足とりとしか思えない無意味な批判や非難をする人がいる。
それが面白いと感じる人がいる。
そのことにも、問題があるのではないだろうか?
無責任に批判するのは簡単だ。
これも、かなり前の話だけど、東南アジアのある島で
生き延びていた元日本兵が見つかった。
わたしは、結婚まもなく出征した夫が戦死したと知らされ、
女手ひとつで子供を育ててきた奥さんの取材にあたった。
すでに70歳をすぎていたと思う。
何度行っても会ってもらえない。
取材拒否だった。
元日本兵も、本人確認がとれて帰国までに時間がかかり、
その間、何度かお宅に足を運んだが、そのたびに会えなかった。
最初にうかがったとき、近くの公園の桜がせつないほど満開だった。
半年以上が過ぎ、いよいよ元日本兵の帰還が決まったということで、
再び、おばあちゃんの家に向かった。
以前とは違う新しいアパートに移っていた。
家の前には他のメディアも何人かきていた。
カメラマン、新聞記者、それでも4~5人だっただろうか。
みんなで代わる代わる声をかける。
家のなかから漏れる灯で在宅なのはわかっているのだが、出てこない。
それでも取材しなくてはならないのが記者だ。
そっとしておいてあげたいという気持ちは、こちらにだってある。
なんて仕事なんだと自分をのろいながらも、
根負けしておばあちゃんが出てくるのを待った。
ほかの記者、新聞記者も同じ気持ちだったんだろう。
家の前のあちこちに点在し、目を合わすこともなく、待っている。
言葉を交わそうともしない。
そういう状況の現場にいくのに慣れていなかったわたしは、
その異様な感じにも圧倒されていた。
みんなライバルなのか……と、思った。
寒い日だった。1月か2月の神戸。
手が冷たくて、コンビニを探し、温かい缶コーヒーや携帯カイロを買ってきた。
なんとなく一人だけというのも気が引けて、
そこに待っている人たちの分も買った。
数時間も同じところで震えて一緒に待っている間に、
連帯感のようなものが生まれていたように思う。
もちろん、そんなものはわたし一人だけだったのかもしれない。
わたしが差し出した缶コーヒーを受けとらない人もいた。
時間が刻々と過ぎていく。
夕闇がせまってくる。
待っているほうは疲れ切ってきた。
最初は30分おきぐらいに、それぞれ単独で声をかけていたものの、
そのころになると、さすがにみんな業を煮やして、
まとまって頻繁に声をかけるようになった。
「おばあちゃん、ちょっとだけでいいからさぁ」
「いるの、わかってんだからさぁ」
だんだん言葉もぞんざいになってくる。
そんな言い方はないんじゃないの?
ドア、たたくのは辞めようよ。
そんなふうに、ずっと引きぎみな気持ちでいたわたしも、
あたりがとっぷり暮れたころには、すっかり順番に割り込むようにして、
家のなかへと声をかけていた。
「ひとことでいいんです。言葉を聞かせていただけませんか」
反応はまったくない。
すると、近所からひとりの女性が自転車をひいて出てきた。
顔をしかめ、憎々しげな調子で、吐き捨てるようにこう言った。
「あんたたち、いい加減にしなさいよ。放っておいてあげなさいよ。おばあちゃん、困ってるんだから」
言葉が胸に突き刺さった。
いつのまにか周りの渦にまきこまれて
大声をあげていた自分に気付いてハッとした。
普段、冷静っぽいこといってたのも、マスコミの姿勢に批判的だったのも、
こういう現場に来たくないための言い訳でしかなかったのか。
来てしまえば、結局、わたしも同じ穴のムジナじゃないか……。
苦々しい思いで、わたしたちをたしなめた近所の女性の背中を追った。
路地から通りに出たところで、知人にバッタリ会ったらしい。
自転車からおりると、彼女はことの顛末を報告していた。
興奮気味に、こちらをチラチラとうかがいながら。
「もうね、お昼からずっとなのよ。迷惑よねぇ」
「何があったの?」
「あそこのおばあちゃん、ほら、今、新聞で騒いでる元日本兵の……」
身振り手振りをまじえながら、ものすごい勢いで話しているさまと、
ふたりでチラチラとこちらをみながら、大きくうなずき合い、
憤慨し、興奮している様子を見て、わたしは思っていた。
「偉そうなこと言ってたくせに。結局、あんたも同じじゃない」
人から人へ、情報はそうやって伝えられていく。
マスコミはそれを組織化して、もっと広く多くの人々に伝えていく。
やっていることは何らかわりない。
日本中に伝えるほうが影響力は大きいかもしれない。
でも、マスコミの騒動が終わったあとも周囲の人々からの好奇の目は続く。
それだって、取材されるほうにはキツイはずだ。
生活環境のなかで日々感じる視線のほうが、活字で一時的に流されることよりも、
辛いことだってあるのではないだろうか。
おばあちゃんが引っ越したのは、前の市営アパートにもマスコミが来て、
居辛くなったからだと、親戚の女性から言われていた。
きっかけを作ったのは、マスコミだけど、
いずらくなったのは周囲の人々の反応のせいもある。
ひっそりと暮らしてきたおばあちゃんだったから、
好奇な目を向けられることだけでも耐えがたかったと思う。
悪いニュースじゃない。
おめでたい話だ。
死んだと思っていた人が、生きていたのだから。
それでも苦痛に思う人はいる。
あのころからわたしは、人間を書く場合、
その人、ひとりひとりの感情をしっかり捕まえてからでないと、
書けないと思うようになった。
批判的なものは表層的になりやすい。
じっくり知るほどの時間が許されていないのなら、
その人のいいところ、素晴らしいところ、
他の人にも知ってほしい美点を探して書きたい。
それは、誰もがもっている。
イジワルな視点から書くものは喜ばれるけれども、
わたしにはそれができない。
ものを斜めに見ろと言う人もいたけれども、それがプロだと言われたけれども、
わたしにはできない。
人を批判するときは、とことん見極めてからでないと意味がない。
その日、すっかり夜になってから、ふいに玄関に灯がともった。
わたしたちは一斉に玄関前に集まった。
鍵があいた。
ガラリと引き戸をあけると、おばあちゃんが正座していた。
困ったような顔をしていたけれども、笑顔も出た。
着古した着物にエプロンだったと思う。
話しながら、そのエプロンの裾を左手で持ち、
右手で運針のしぐさをずっとしていた。
ご主人が出征してから、ふたりの子供を抱えて
縫い物をしながら必死に生きてきた暮らしぶりがうかがえた。
そこまで話を聞いていたのはわたしだけで、新聞記者たちは、
最初のひとことがとれた時点でパーッと帰って行った。
締め切りギリギリだったのかもしれない。
あれだけ待っていて、ほんのひとこと、ふたことで
帰らなければならないのは気の毒な気がするし、薄情な気もした。
おばあちゃんがやっと話す気になったんだから、
話したいことはすべて引き出してあげたいとわたしは思った。
それが締め切りに余裕のある週刊誌の役目だろう。
組織が巨大化し、利益が最優先されるなかで、
振り捨てられる現場の記者やカメラマンの主張も数多い。
踏みにじられる現場の記者やカメラマンの感情もたくさんある。
同じ記者、カメラマン、レポーターといえども、
現場には、いろんなタイプの人間が行く。
開き直って行くタイプもいる。
決め打ち取材をする人もいる。(そのほうが簡単だから)
いやいや行って、現場でグチをこぼしている人だっているだろう。
でも、悩みを抱えながら、なんとかそこに立っている人だっている。
自分の姿勢をいつも厳しく見つめながら真摯に取材する人もいる。
十把一絡げにしてマスコミはけしからんと、簡単に言い捨ててしまう前に、
そういうことも頭の片隅にでもおいていただけたらと思う。