自分を愛せない人たちへ | スコ猫くまきち日和+

自分を愛せない人たちへ

アメ女さんの昨日のブログ『GEM / 宝石である事。。。』
そこに寄せられたコメントを読んで、
自分が好きになれない、大切にできない人が意外に多いことに気づきました。

でも、考えてみればかつての私もたしかにそうでした。
もっと向上したいという気持ちの裏には
こんな私じゃダメなんだという思いが強かったということがあります。
でもね、
こんな私を認めてあげられるのは、結局、私しかいないんじゃん
と、あるとき気づいた。
それまでは、誰かに認めてもらいたくて、その誰かに合わせて自分を作っていたように思います。
でも、それは作った自分であって自分自身じゃない。
作った自分になれていけば本当の自分になるのかと思いましたが、本当の自分というものは別のところにあるようです。
まずは、その部分をしっかり見つめ、本当の自分を知ってからじゃないと、向上も進歩も結局はハリボテだと気づいたわけです。
自分でそのことに気づき、表現すれば、それが理解できて愛してくれる人もいるでしょう。
でも、自分自身で本当の自分に気づいていなければ、気づける他人なんているわけがないのです。
ところが
「キミはこういう女だよ」
と、決めつけてくる年上は大勢いて、経験の差があるためにそうなのかと思ってしまいがちです。
決めつけられた自分を演じていた時代もありました。
でも、結局は続きません。
それは偽物の自分だったから。
わたし自身、自分はこうなんだと思ってからは、
「キミはこういう女だよ」という言葉に惑わされなくなりました。
生意気に思う人もいるでしょう。
それで離れていく人は、仕方ないなと思っています。
私は私でしかなく、いいところも悪いところもある。
悪いと気づいたところは直す努力はする。
でも、悪い部分も私なんです。
悪い部分が発見できれば、それに対処することはできる。
隠してもダメ。対処する。自分で直していくことです。
結局、自分は自分で発見する。それしかないと思っています。
もちろん人の話が参考になることはおおいにあります。
でも、聞きすぎてワケがわからなくなることもある。
そういう時は自分に聞く。
今、これがしたいのか、したくないのか?
これが好きなのか、嫌いなのか?
自分の好き嫌いがしっかりわかってくると、自分というものが見えてくるんじゃないでしょうか?

女性自身のアルバイトを始めた18歳のころ。
毎週のように、2枚の写真を見せられて編集者に聞かれました。
「こっちとこっち、どっちの写真が好き?」
わたしはごくごく自然にパッと編集者の顔を見ます。
彼がどっちが気にいっているかを探ろうとしていました。
編集者が好きだと思っている写真を選んだ方が喜ばれるだろう。
とういう処世術がごく自然にできていました。
ところが、私の同僚はいつも自分でパッと好き、嫌いを言います。
正直、それがとてもうらやましかった。
私自身、正直なところでどっちが好きかなんて全然わからない。
どっちも同じに見える。
同じに見えないために、写真の善し悪しといわれる知識をもつということもひとつの方法でしょう。
でも、その知識というのは所詮、他人の好き嫌いから派生したものです。
時代の流れもあって、たえず変動するものです。
そういうことを知ったとしても、その一方では自分の好き嫌いも持っていなくては、この先、ダメだという気持ちがありました。
だったら、せめて好き嫌いで判断すればいい。
それがなぜできないのか?
誰かの判断基準に合わせてしまうのか?
わたしの自己改革はここから始まったと思います。

それまでの私は完璧な優等生でした。
先生の要望、伝えたいことが正確にわかるから試験もできます。
競争にさらされず推薦で大学に入りました。
親の願いも要望も、顔色をみてわかるし、合わせられるから
親から見ても「良い娘」です。
バイト先では、上司や先輩の要望に忠実に答えられます。
直接、要望されなくても、ここまでやれば皆、喜ぶだろうということもわかるから、やる。
当然、かわいがられます。
わたしは優等生として、良妻賢母の候補として、20歳あたりまで、大変順調に来たようです。一度の挫折もなく、スムーズに大人といわれる20歳になった。
そこまでは、大人の顔色をみる処世術は大変うまく機能したとはいえるでしょう。
でも、私自身はカラッポだったんです。
大人になって自分で自分の人生を歩んでいかなければならなくなった時、自分で判断するという部分が欠落していたわたしは、どう生きていいのかまったくわからなかった。好き嫌いさえもわからないんですから。
そのことに、少しずつ気づかされるようになったとき、私は自分が嫌いになりました。
それまではなんだかんだいいつつ優等生だった自分のことが好きではあったわけですが、徹底的に嫌いになっていきました。
わたしを優等生だと見ている人さえ信じられなくなりました。
誰も好きにはなれず、誰も信用できず、孤独でいっぱいの時期がありました。
自暴自棄になりました。
今、思うとなんてひどいことしたんだというような悪事もあります(^-^;
そんななかで、ふと、気づいた。
これじゃ、ダメだ。何も変わらない、と。
さまざまな悪事をしてみて(主に恋愛関係ですが)
わたしってこういう人なんだということが納得できた。
こんなわたしを愛せるのは、私しかいないんだろうな、と思ったんです。
せめて自分を愛せるようになることから始めよう。
人を試すような恋愛はやめよう。
中途半端な仕事はやめて、仕事でもやりたいことを見つけよう。
そう心に決めたわけです。
決めたというより、そうしなければ先はないんだという
絶望感と焦燥感だったような気もしますが。
だから、最初は大変でした。
すぐ逃げてたし、隠れてたし、嘘が上手になった時期もあります。
面倒になると、人の顔色をまた見る。
で、やればいいことだけをやる。
そのほうが慣れているからはるかに簡単です。
でも、人のやりたいことをやっているだけだから余計なストレスがたまる。
それが高じて病気になる。
30代はその繰り返しでした。
そのたびに、ああ、わたしってこういう人だったんだという発見もありました。
そのひとつひとつの私自身を一生懸命、認めてきた。
大事にしてきた。
そうやって少しずつ自分が好きになってきたような気がします。
自己肯定しすぎると、おしつけがましいオバサンになるという恐怖心もあったんですけどね。
実際、押しつけがましいおばさんになってきたような気もしますが(^-^;
でも、今ではそれさえも、私なんだからと思えるようになりました。

生きることが楽になりましたよ。
毎日が楽しくなりましたよ。
疲れ切って、休みのときは20時間も眠り続けていた自分が嘘のようです。
あの時間がもったいなかったと思うけれども、あの時間がなければ今のわたしも生まれなかったのかと思うことにしています。
時間がかかっても、自分は自分で変えようと思えば、変えられるんですね。
好きになれる。
大切にできる。
すべてはそこから始まるんじゃないでしょうか?
いろんな人がつながってきました。
これまで培ってきたいろんな経験を生かせるかもしれない場面が出てきました。
自分が変われば周囲も変わります。
もっともっといろんなことをしてみたいと思っています。
でも、無理はしません。
自分のことがよくわかったから。
すべては自分を知ること。
自分を認めることから始まります。
だから、私は虐待問題に興味を持つわけです。
自分で自分を認められない人たちの力になりたいと思うわけです。
自分を認められたら、解放感いっぱいの明るい気持ちになれるということを私自身の経験として知っているからです。
自分が嫌いだったときの、胸のつぶれるような、心の底に重い鉛を抱えたような気持ちには、もう2度と戻りたくないと思っています。
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